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鎌倉幕府を現代に置き換えると―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載95

(2021年11月号)

鎌倉時代は分かりにくい。時が経つにつれ、幕府の政治体制と権力中枢にずれが生じるからである。

 まず、当時の武士の立場について説明したい。現代に例えると〝農場経営者〟だ。武士が登場した平安時代中期から日本は治安が悪化。各地の農場も盗賊に襲われるようになった。そのため経営者は自ら甲冑に身を固め、刀を手にする。この〝武装した農場経営者〟が武士である。

 やがて武士(農場経営者)たちは朝廷(政府)に対して、自分たちの権益の保障を求めるようになった。となると皇族や貴族に伝手のある〝高貴な血筋の人物〟に仲介してもらうことが重要。そこで台頭するのが源氏と平家で、戦乱の末に源氏の頼朝が武士の代表となった。

 源氏の下で武士たちは幕府という団体を結成。これは〝農業組合〟と言ってよく、組合に加入した武士は〝御家人〟と呼ばれた。そして幕府(組合)の頂点である征夷大将軍は、御家人(組合員)の要望を朝廷(政府)に伝える理事長のような立場だったのである――。となると、実質的に組合員をまとめる事務局長が必要だ。事務局長は〝執権〟と呼ばれ、北条氏が世襲する。本来、御家人の一人に過ぎなかった北条氏だが、執権(事務局長)職を利用して徐々に権力を独占。承久3年(1221)に幕府と朝廷との間で発生した〝承久の乱〟に勝利すると、将軍はおろか天皇をも凌ぐ日本の支配者となった。

 その後、北条氏は全国に領地を拡大。言い換えれば「事務局長が自社の経営を拡大し、日本中に農場を持つ巨大企業へ成長」したのである。こうなると社員も増やさなければならず、北条氏は他の組合員たちを勧誘。自分の農場経営に行き詰まっていた組合員たちは、北条農業社の傘下に入ることにする。この北条の社員たちを〝御内人〟と呼び、しだいに御家人より御内人のほうが多くなる。当時の福島県にいた武士たちもほとんどが御家人から北条の御内人になる道を選んだ。

 結果、頼朝が興した農業組合(幕府)は組合員の減少により形骸化。理事長の将軍だけなく事務局長の執権すら力を失い、権力のすべてが北条農業社の社長に集中するようになった。この社長を〝得宗〟と言うのだが、これは北条本家をあらわす名称。当初は得宗が執権を務めていたが、鎌倉時代の末期には執権さえ得宗の操り人形になってしまった。つまり幕府だけでなく、日本という国までも北条氏が私物化したのである。

 さらに最終的には、巨大化した北条農業社にも権力構造に変化が。社長の秘書が実権を握ったのだ。この秘書を〝内管領〟と呼び、露骨に自己の利益を優先するようになった内管領に対し、数少なくなった御家人たちが反発。ついに鎌倉幕府は崩壊してしまうのである。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。



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