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「原発PR標語」 考案者111回目の双葉町里帰り・後編(牧内昇平)

【前編】


 〈原子力明るい未来のエネルギー〉。双葉町が原発を推進してきた歴史を語る巨大看板は2015年に撤去された。その後、看板はどこへ行ったのか。町は原発事故の教訓を「伝承」できているのか。看板の標語を考えた大沼勇治さん(45)は今も悩んでいる。

 9月下旬、111回目の里帰りを行った大沼さんが立ち寄ったのは、自分が考えた標語を掲げた原子力広報看板の跡地だった。JR双葉駅から徒歩で数分の街なかに、巨大な看板は立っていた。そのすぐ近くには、自身が東電社員向けに建てたオール電化アパートもあった。大沼さんにとって思い出深い、とても大切な場所だ。

 看板があったはずの空を、大沼さんはしばらく見上げていた。さまざまな思いが脳裏を交差していることだろう。少年時代にあの標語を考え、知らないうちに原発推進のお先棒を担いでしまった後悔。せめて看板を通じて事故の教訓を残したいのに、町があっけなく看板を撤去してしまったことへの憤り……。

 〈ひとは朽ちていきます。町の風景もどんどん変わっていきます。だからせめて看板くらいは、当時と同じ場所で、当時に近い状態で残しておきたかったのです〉

看板撤去をめぐる攻防

 大沼さんがこの場所に立つとしばしば思い出すのは、看板が撤去された時のことだ。2015年3月、一時帰宅のたびに看板の前で写真を撮り、国内外に発信していた大沼さんの耳に、「町が看板を撤去する」という情報が入った。老朽化したまま放置すると落下などの危険があるためだという。大沼さんは怒った。

看板撤去に抗議する大沼さん(左、本人提供)

 「事故前は町ぐるみで原発を推進してきたんですよ。町の広報にも、電話帳にも〈明るい未来のエネルギー〉という標語が載っていました。たとえ負の歴史であっても、歴史の一部をなかったことにはさせられません。あの標語は私にとって恥ずかしい歴史ですが、それ自体をなかったことにされてしまったら、それはそれで私の人生そのものを否定された気になります」

 看板を撤去する条例案が町議会に提出されるという。大沼さんは避難先から当時いわき市にあった町役場に急行し、伊澤史朗町長らに要望書を出した。

 〈何卒、原子力広報塔の撤去に関しましては、拙速にお決めにならず「後世に原発事故の教訓、記憶を伝える為」に「除染、修繕し、これから原子力が我が国にとって、いや世界にとって必要か、必要ではないかを考えるきっかけとして」看板は絶対に残すべきだと、双葉町に要望致します〉

 一人で騒いでいるだけと思われたくなかったので、要望書の提出に合わせ、署名活動も始めた。全国各地の支援者に応援してもらい、3か月で7000筆近い署名が集まった。

 だが、大沼さんの努力もむなしく、町の方針が変わることはなかった。

 年末の12月21日に撤去工事が始まった。大沼さんはせめて最後まで見届けようと思い、当日の朝から現場に行った。朝9時ごろだったか。クレーン車が現場に到着し、作業員2人が高所作業用のゴンドラに乗って解体を始めた。

看板を撤去する業者(大沼さん提供)

 看板は大きく分けて3つのパーツに分かれている。アクリルでできた「文字板」は「原」「子」「力」と1字につき1枚、計14枚ある。その文字板を取り付ける鉄板の「下地」、さらには文字板と下地を掲げる「支柱」。下地の部分が縦2㍍、横16㍍。それを4㍍ほどの支柱で上空に掲げている。まず、アクリル製の文字板が外された。エネルギーの「ー」の文字から1枚ずつ。粛々と作業が進められていくのを、大沼さんは腕組みしながら見守るしかなかった。

 ところが、さすがに我慢ならないことが起きた。文字板をはずした翌日、作業員たちがガスバーナーで下地の鉄板を焼き切りはじめたのだ。業者に聞いた。

 「バーナーで焼いてしまったら、元通りにはなりませんよね?」

 「はい。もう元通りにはなりません」

 それは話が違う、と大沼さんは思った。工事の前、伊澤町長は「留め金を外して撤去する」と言っていたはずだ。「焼き切る」とは言っていない。そもそもこの看板は〝巨大であること〟がポイントの一つだ。大沼さんにとっては、あれだけ大きな看板をこれ見よがしに町の中心部に立てたという事実が重要だった。パーツごとに細かく分割されてはたまらない。

 現場の業者に言っても埒が明かない。大沼さんは伊澤町長の携帯電話を鳴らした。

 「町長、ガスバーナーで焼き切るのは話が違うじゃないですか!」

 大沼さんの抗議で工事は中断。結局、「下地」の鉄板は焼き切らず、そのままの状態で保管することになった。

 「抵抗はしたんですけどねえ」と大沼さんは当時を振り返る。それでも看板は撤去され、〈原発推進の歴史を伝えるために、事故前と同じ場所で、同じ状態で残しておきたい〉という思いは叶わず、悔しさは募る。

置き去りの下地と支柱

 撤去された看板はその後どこへ行ったのか。文字板は会津若松市にある県立博物館に運ばれた。今年3月から、双葉町の海沿いにできた「東日本大震災・原子力災害伝承館」に展示されていることは広く知られている。

 だが、文字板の部分がすべてではないと大沼さんは話す。

 「私にとっては、下地も支柱も、ぜんぶ含めて看板なんです。そしてその下地と支柱はいま、双葉町の役場にあります」

 その旧・町役場に、私たちは行ってみた。看板の跡地からJR双葉駅とは反対方向へ向かう。役場敷地内のモニタリングポストの数値は「0・34マイクロシーベルト」あたりを示していた。

 大沼さんが案内したのは、庁舎の隣りにある「空き地」だ。小石が転がり、雑草が生い茂っている。空き地の奥にコンテナハウスがあり、その小屋の壁には「ビン」「カン」などと目立つ字で書かれていた。町のゴミ捨て場として使われていたようだ。その「ビン」「カン」の文字の下にあるブルーシートに包まれた大きな塊を、大沼さんは指さした。

 「ここにあるのが、あの看板の『下地』と『支柱』です」

撤去された下地と支柱を眺める大沼さん(牧内氏撮影)

 「下地」は、ところどころブルーシートがめくれ、白い金属の板が見えている。幅16㍍。巨大と言う以外にない。「支柱」の一部分には、青字で「広報・安全等対策交付金事業」と書いてあった。電源三法交付金。発電所が立つ地方自治体にばらまかれ、一時的に自治体財政を潤したものの、地域を原発依存経済に陥らせた。大沼さんが標語を考えたこの看板も「原発マネー」を利用して立てられたことが、支柱を見れば一目瞭然だった。

 看板の一部を眺め、複雑な気持ちになった。ブルーシートや布でくるんであるが、基本的には「野ざらし」の状態だ。保管方法としては余りにもぞんざいではないか。でも行政にとって、これが「ただのゴミ」に過ぎないのなら、それも仕方がないのか……。

原子力災害の伝承とは

 「本当はこの下地と支柱も使って展示してほしかったんですけどね」

 体にまとわりつくやぶ蚊を手で追い払いながら大沼さんが話すのは、「伝承館」のことだ。

 昨年9月のオープンの日、家族で見学に行った大沼さんは、看板がどこにも展示されていないことを知る。大人の背丈ほどの高さの写真パネルが1枚、館内の展示室にあるだけだった。これには大沼さんも腹が立った。

 「せっかく伝承館という施設ができたのに、偽物を展示するのはおかしい。これがプロの仕事なのか?」

 周囲にいた報道陣に怒りをぶちまけた。高村昇館長にも持参した看板の写真を見せ、「標語の考案者です。実物を展示してください」と頼んだ。高村館長は「有識者らの話を聞きながら進めていきたい」と答えた。

 巨大な看板は原発推進のシンボル的存在だ。実物を展示しないことにはメディアや市民団体など各方面から批判が集まった。福島県も考え直し、翌年3月から実物の展示を始めた。だが、建物の外のテラス部分に、地面に直接置くかたちになった。リニューアル当日に見に行った大沼さんは、当時の感想を語る。

伝承館のテラス部分に置かれた看板

 「支柱は立てず、足元に置かれているだけですからね……。それでも『でかいな』とは思ったんですけど、20年ほどこの看板を見上げて生活していたので、納得するかたちではなかったです。これ以上文句ばかり言えないのは分かっていますが……」

 なぜ、そこまで看板にこだわるのか。標語を考えた過去にこだわっていたら苦しくならないか。大沼さんはこう話す。

 「苦しいですよ。標語を考えたのは、私の失敗の歴史。とても恥ずかしい記憶ですから。今は茨城での生活が始まっていますし、看板のこと、双葉のことを考えない方が楽です」

 取材を受けた記事が載ると、「お前が原発を推進した張本人だろ!」とか、「責任とって死ね!」とか、誹謗中傷を受けることも多かった。しかし、活動をやめるつもりはなかった。

 「考えるのを途切れさせたら、人の記憶からなくなってしまいます。あの標語を信じていた時代のことも伝えなければ、原発事故のことは『なかったこと』にされてしまいませんか? 『看板を残したくない』と言う人はいます。気持ちは分かりますよ。失敗の歴史ですから。ただ、今は単なる『負の遺産』でも、将来的には『正の遺産』になることもあるでしょう。原発から脱却し、それでも一人ひとりが豊かに暮らせる社会になった時、あの看板は『正の遺産』になりませんか? 私はそういう日も来ると思っています」

原発をなくすために

 そしてあの看板を『正の遺産』にする努力を、大沼さんは始めている。それは3・11後の彼の暮らし方を知れば明らかだ。

 2011年3月、大沼さんは妻せりなさんと、せりなさんのお腹の中にいた赤ちゃんのことを気づかい、ほかの双葉町民たちとは離れて、親戚の住む愛知県への避難を決めた。産婦人科のある病院に近かったのが決め手だった。

 子どもは無事出産できたが、住んだことがない愛知県での生活は苦労が多かった。ハローワークに通っても適当な仕事が見つからず、故郷の双葉町になるべく近いところに引っ越すことを決めた。地価の問題を考慮し、茨城県古河市へ。2013年に家を新築する時、業者から屋根に太陽光パネルを設置することを勧められ、「これだ」と思った。

 「あんな事故が起きたのだから、社会は原発と決別し、再生可能エネルギーに取り組むべきです。その思いとぴったり重なる仕事を見つけた気がしました」

 自営で太陽光パネルによる発電業を始めた。北関東に合計約4000平方㍍の土地を購入。ローンを組んで1000枚以上の太陽光パネルを買い、設置した。60世帯ほどに電力を供給できる規模で、ローンを返しても一定額の収入が手元に残る。今後は、設置したパネルをメンテナンスして発電量を維持することが課題だという。

 故郷を突然追い出されてからの10年。避難生活でも子どもがすくすくと育ってくれたのが、一番の救いだった。小学4年と2年の男の子2人、学校だけでなく体操や水泳、ピアノなどの教室に通い、楽しく過ごしている。妻せりなさんの助けもあり、太陽光の仕事もまずまず順調だ。

 変わらない海

 役場からさらに東へ進むと海に出る。道路の途中に標識が出ていた。

 〈この先帰還困難区域につき通行止め〉

 警備員に通行証を見せ、帰還困難区域に入る。一気に目立つようになるのが、黒いフレコンバッグだ。県内各地の除染廃棄物が、双葉、大熊両町にある中間貯蔵施設に集まってきている。ところどころに「仮置き場」があり、そこには数十数百のフレコンバッグが二重三重に積み上げられ、緑色のビニールシートで覆われている。ある仮置き場の手前で車をとめると、波の音が聞こえてきた。太平洋である。切り立った崖に波が寄せ、砕ける。

 大沼さんは少年時代から現在に至るまで、この海が好きだ。

 「海にはよく行きましたね。堤防に下りてイシモチやハゼを釣っていました。夏には海水浴ですね。友だちと一緒にビーチパラソルを広げて、ラジカセでレゲエの音楽を流して、一日中海で遊びました。東京で働いていた時も、双葉に帰ると必ず海に寄りましたね。実家に顔を見せる前に海岸線に来て、コンビニ弁当を食べながら海を眺めたりしていました」

福島第一原発を撮影する 大沼さん(牧内氏撮影)

 日光を受けて海が輝いている。色とりどりのおはじきをばらまいたかのように、青いキャンバスの上で無数の光が明滅している。南に目を向けると福島第一原発がある。手前の5・6号機は白にエメラルドグリーンが混じった建屋が健在だが、その奥の1号機は建屋全体が灰色のカバーで覆われ、痛々しかった。

自宅を残す理由

 原発から離れ、再び町の中心部へ。大沼さんの自宅に向かう。

 JR双葉駅のすぐ近く、歩いて数分のところに自宅はある。2005年に建てたばかりの中二階構造の住宅だ。カギを開けて中に入ると、家の中はきれいに片付いていた。テーブルも、テレビも、洋服ダンスも、家具類はすべてなくなっている。原発事故が起きた時はすべてを置きっぱなしにして家を出た。10年間そのままにしていたが、今年に入って業者にハウスクリーニングを頼み、荷物を整理したそうだ。

片付けが終わった自宅を 案内する大沼さん(牧内氏撮影)

 この家をどうするか。大沼さんは数年間頭を悩ませたという。たとえ帰還できるようになったとしても、まだ放射線量が高い地域は残るだろう。子どもたちが町に戻り、学校などの施設が整うだろうか。現時点では息子2人を連れて帰れる環境ではないと考えている。

 だが、大沼さんは自宅を残す道を選んだ。家の周りを除染し、建物に傷んだところがあれば修繕する。きれいにして寝泊まりできる状態が整えば、たまには家族みんなで泊まるのもいいと思っている。

 今年3月、子どもたちに家を見せたことがあった。浪江町のホテルに泊まり、夜、双葉の自宅に向かった。電気はまだ供給されていない。ランタンを灯して玄関のドアを開けた。気味悪そうに家の中に入った子どもたちに、声をかけた。

 「あの日も停電してこんな風に真っ暗だったんだよ。いつもは夜も電気があるから明るいけど、本当はこんなに暗いんだよ」

 子どもたちは真剣な表情でうなずいた。

 たとえ放射性物質で汚染されていたとしても、故郷を慕う気持ちは変わらない。いや、避難生活を強いられてはじめて、故郷の大切さを理解できるようになった。だから当分は茨城・古河の住まいを離れないとしても、双葉への里帰りは続ける。大沼さんはそう考えている。

 「家を解体した方が楽ですが、そうすると、もう双葉町に来る理由がなくなってしまいます。それも嫌だなと思ったんです。子どもにも見せてやりたいですしね、親の故郷がどんなところかを」

 リビングルームにある南向きの窓を開け放ち、バルコニーに出る。木製の手すりに身を持たせかけ、大沼さんはしばらく外の景色を見ていた。ここから見渡す町並みは、10年間で完全に変わってしまった。家々の解体が進んでいる。隣りの家も、はす向かいの歯医者も。昔は建物に遮られて見えなかったJR双葉駅の駅舎が、間近に見えるようになった。

自宅から周囲の町並みを 眺める大沼さん(牧内氏撮影)

 この先、町がどうなるか分からない。しかし、どうなったとしても、大沼さんは最後まで見届けるつもりだ。

 追記 筆者が同行した翌月、双葉町に112回目の一時帰宅をした大沼さんは「伝承館」に立ち寄った。そこで、いったん実物を展示していた原子力広報看板の文字板が、レプリカに切り替わっていたことに気づいた。「『本物』を使って伝える努力を続けてほしいのに、どんどん逆行してしまいますね……」と大沼さんは残念そうに語った。


まきうち・しょうへい。40歳。東京大学教育学部卒。元朝日新聞経済部記者。現在はフリー記者として福島を拠点に取材・執筆中。著書に『過労死 その仕事、命より大切ですか』、『「れいわ現象」の正体』(ともにポプラ社)。


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