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北畠顕家と浜通り―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載105

 元弘3年(1333)5月に鎌倉幕府を倒し、7月より〝建武の新政〟を開始した後醍醐天皇。その施政方針は「これまで全国の農地を保安してきた農園経営者(武士)を廃し、京で遊んでばかりいる地主(公家)の権益を最優先する」という、およそ現実とはかけ離れたものであった。そのため新政開始から半年も経たない10月には早くも「これでは北条氏による組合活動(幕府)のほうが良かった」と、農園経営者たちが各地で不満の声をあげる。その声が特に大きかったのが陸奥国の津軽であった。北条の残党が多く潜んでいたからである。そこで後醍醐は弱冠16歳の北畠顕家を陸奥守に任じて秩序回復にあたらせる。11月に国府の多賀城に着任した顕家は、さっそく津軽討伐軍を編制。まずは現地近辺の武士たちに出陣を命じる。が、津軽勢の頑強な抵抗に遭い、なかなか鎮圧することができない。そこで増援部隊の派遣を決定。岩城郡・飯野八幡宮(いわき市)の社領の管理人であった武士・伊賀盛光を総大将とした。伊賀盛光は現地の武将らと協力、建武元年(1334)11月にようやく乱を鎮圧する。その戦功によって盛光には岩城郡の矢河子村(いわき市平谷川瀬)が与えられた。さらに顕家は、盛光に課せられていた京での勤労奉仕を免除してやっている。この勤労奉仕は〝篝役〟と言って市中の篝火(街灯)を絶やさぬようにする過酷な任務。当時の武士たちには相当の負担であった。それを免除してやった点に顕家の器の大きさと優しさが垣間見える。


 一方で顕家は建武元年1月、陸奥将軍府をひらく。これは「新しい世で自分の農園がどうなるのか」と心配していた経営者(武士)たちの不安を解消するための窓口であった。組合(幕府)を模して創設された陸奥将軍府は予想以上に機能。11月に津軽が平定されて以降、奥州では戦火が絶えた。とはいえ争いの火種がすべて消えたわけではない。なかでも宇多郡(相馬市と新地町)では依然として領有権をめぐる対立が続いていた。もともと宇多郡は相馬重胤の所領だったが、鎌倉時代の元亨3年(1323)に当時の幕府の実力者・長崎氏が「郡の一部を白河の結城宗広のものとする」と一方的に決定していた。

 それから10年後に幕府は滅亡、建武政権がスタートしたが、顕家と陸奥将軍府は結城氏による宇多郡の実効支配を承認。宗広が後醍醐天皇のお気に入りだったからである。そのため重胤は、しだいに陸奥将軍府だけでなく建武政権そのものに不信感を募らせていく――。このような話は相馬氏に限ったことではない。じつは顕家といえども各地の小さな所領問題を取りこぼしており、その受け皿として登場するのが足利氏だ。すでに足利尊氏が武士の権利を保障する唯一の人物として、全国で力を持ちつつあった。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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