1Fモニュメント案の危険性―【尾松亮】廃炉の流儀 連載25

 福島第一原発の施設解体や敷地更地化を目指し続けるより、負の遺産のモニュメントとして残すほうが良いのではないか。そんな声が、専門家や地元関係者から出始めている。

 例えば「2050年に原子力災害からの福島復興の象徴として1Fの世界遺産(文化遺産)登録を行う」などの提案がある。(参照:早稲田大学ふくしま広野未来創造リサーチセンター・シンポジウム「広島原爆ドームの世界遺産登録と1F廃炉の将来像を考える」資料)

 幅広く色々な意見が出されることは良いと思う。「40年の廃炉」というロードマップは、住民不在、国民不在で作られた計画書に過ぎず、東電と政府のさじ加減で改定し、どんな状態でも終了できてしまう。

 事故の起きた原発の後始末を、加害企業と政府にどこまでやるよう義務付けるのか。「廃炉完了」要件と、そこに至るプロセスについて法的に定めるための国民主体の議論が必要、と本連載では訴えてきた。

 しかし、この負のモニュメント案には、一つの危険性があることを知っておいてほしい。

 今の福島第一原発の作業を凍結したとして、それはスタティック(静的)なモニュメントにはならない。現在進行系で、これからも長期的に汚染拡散を引き起こす汚染源であり続ける。

 そして、モニュメントとして残されるであろう損傷原子炉の内外に、管理不能な状態で溶融燃料が残り続ける。これを放置したまま負の遺構保存を認めるなら、国土の安全保障上、周辺環境の保全上、とんでもないリスクを残し続けることになる。

 仮にそのような、デブリも取り出さず、原子炉も解体せずに置くことをエンドステート(最終的姿)として認めるなら、最低限、次の問題に法的な回答が必要である。

 その汚染源かつ災害リスク施設を、誰の責任で管理し続けるのか。半永久的にその状態で保存すると言うなら、最低限政府の管理責任を法的に定めないといけない。まさか、もうだいぶリスクは下がったから、観光施設として地元自治体に管理を委ねる、なんてことを認めるつもりではあるまい。

 もう一つはっきりしないといけないのは、このようなモニュメントを認める場合、これは廃炉完了の姿ではないということ。

 明確に廃炉は断念した、という認識を法的に確定することが必要だ。原子炉内に燃料をおいたままの廃炉完了など、原子力規制規則上認められない。

 「東電は事故を起こした原発の後始末を最後までやることなく、断念した」という評価を確定しなければならない。

 事故を起こしておいて、後始末ができなかった企業が、別の原発を運転することなど認められないはずだ。最低限、東京電力から原発の運転管理資格を剥奪する決定がなければならない。さもないと、「地元からモニュメント保存案が出たから、福島第一の工程はこれで終了です。柏崎の再稼働に専念します」という言い訳を認めることになる。

 そこを議論しないで、廃炉せずモニュメント保存案が、あたかも廃炉のエンドステートの一案のように提案されるのは、許されないほど危険だ。

おまつ・りょう 1978年生まれ。東大大学院人文社会系研究科修士課程修了。文科省長期留学生派遣制度でモスクワ大大学院留学。その後は通信社、シンクタンクでロシア・CIS地域、北東アジアのエネルギー問題を中心に経済調査・政策提言に従事。震災後は子ども被災者支援法の政府WGに参加。現在、「廃炉制度研究会」主催。

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