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結城宗広の最期|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載115

 奥州南朝の総大将・北畠顕家は、北朝の総帥・足利尊氏と雌雄を決すべく延元2(1337)年8月に霊山(伊達市)を出陣。翌年1月に青野原(関ヶ原)まで達した。が、ここで北朝の防衛線を突破できず伊勢国(三重県)に転進。部隊を再編した顕家は伊勢から奈良、和泉国(大阪府)を通って京を目指そうとした。だが奈良の般若坂で北朝勢に敗北。軍勢が四散してしまう。顕家はわずかな兵を連れて和泉国に向かったが、長年にわたり顕家を支えてきた白河搦目城主・結城宗広は般若坂で脱落。南朝の後醍醐天皇がいた吉野(奈良県)に逃れた。延元3(1338)年5月22日に顕家は石津(大阪府堺市)で北朝勢と戦い討死。総大将を失った奥州勢は上洛を断念せざるを得なくなった。そこで宗広は吉野から伊勢に移り、敗残兵をまとめ上げる。

 宗広は顕家の父・北畠親房と協議し「新たな総大将は顕家の弟・顕信。船を集めて海路で奥州に帰還する」と決定。9月までに500艘の船からなる大船団を結成、いよいよ船出の時を迎えた。しかしこの年の9月は新暦でいうと10月上旬。台風シーズンのど真ん中である。案の定、南朝船団は伊勢を出航してすぐ暴風雨で遭難してしまう。多くの者が伊勢に吹き戻され、その中には結城宗広の姿もあった。失意の宗広は直後に発病。光明寺(三重県伊勢市)で療養に努めた。しかし70歳を越えた老体は病に勝てず11月には重体に。すると寺の僧侶が「極楽に行けるよう仏にすがりなさい」と諭した。ところが宗広は「私は十悪五逆を尽くした大悪人。仏にすがり心穏やかに死を待とうとは思わない。それより強く望むのは白河に残っている息子の親朝が足利の首級を我が墓前に供えてくれることだ」と首を振った。ちなみに十悪五逆とは仏教で定められた悪行で、殺人、強盗、淫行、嘘、狂言、暴言、陰口、貪欲、憎悪、誤見の十悪と、母殺し、父殺し、聖人殺し、仏への破壊行為、教団への攻撃が五逆とされている。むろん宗広はこれらすべてに手を染めたわけではなく「南朝復権のためには手段を選ばなかった」と、自分の人生を振り返ったのだろう。そして11月21日、手にした刀に噛みつくという奇怪な動作のまま、宗広はこの世を去った。


結城宗広の最期|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載115

 ところで南北朝の動乱を描いた〝太平記〟には、死後の宗広についても記述されている。仏にすがらなかった結果、宗広は地獄に堕ちてしまったという。そこで鬼たちから拷問を受け、ひたすら苦しんでいた。この様子を〝地獄を覗くことができる〟僧侶が目撃。僧侶は白河へ赴き、宗広夫人と息子の親朝に「宗広が地獄で苦しんでいる」と伝えた。そこで夫人と親朝が改めて仏に帰依したうえで供養してやると宗広は地獄から解放されたという。一方、宗広の亡骸は光明寺に葬られ、のちに白河の関川寺にも遺髪が届けられ墓が建てられた。       (了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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