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奥州は官軍なり―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載109

 後醍醐天皇による〝建武の新政〟は多くの武士の反発を招いた。真っ先に叛旗を翻したのは北条時行。後醍醐によって滅ぼされた北条氏の遺児である。建武2年(1335)7月に鎌倉を占領した時行だったが、8月には足利尊氏に敗北。今度は足利が鎌倉に居座ることとなる。じつは尊氏も多くの武士から「武家政権の樹立」を求められていた。そのことを察知していた後醍醐は「すみやかに京へ戻れ」と尊氏に命じる。しかし尊氏は鎌倉を離れようとしない。業を煮やした後醍醐は11月、とうとう「足利を追討せよ」との勅命を発した。この命令書を受け取った一人に、陸奥国司として奥州を統治していた北畠顕家がいる。

 ただちに顕家は、官軍として鎌倉を攻める準備に着手した。「陸奥国府の多賀城に集結せよ」と国内に呼びかけたのである。ところが岩手県盛岡市にいた斯波家長の妨害に遭い、なかなか兵が集まらない。家長は足利氏の家臣であり、尊氏の密命をうけて顕家の足元を攪乱していたのである。

 一方、官軍の一番手として東下してきたのは新田義貞だった。しかし義貞は12月に箱根で足利勢に敗北。新田勢は京へ逃げ帰る。これを追いかけるように足利勢が西上を開始し、ここに足利尊氏の謀反が明白となった。天皇に逆らったのだから賊軍となったわけだ――。ちなみに新田勢の敗北は12月11日。このとき顕家はまだ陸奥国府にいた。当時、奥州の最大兵力は5万といわれていたが、集まったのは半分以下の2万。斯波家長つまり足利に同調し、日和見を決め込んだ武士が少なくなかったのである。それでも顕家は出陣を決意。12月22日、彼の旗印である風林火山が西を目指して動き出した。

 ここから奥州勢は恐るべきスピードで進軍する。約600㌔の道のりを、わずか20日で走破してしまったのだ。当時の軍事編制は騎馬武者3割、歩兵7割だったので奥州勢2万のうち1万4000の移動手段は自らの足しかない。歩兵たちは1日30㌔を不眠不休で走り抜いたわけである。当然、体力だけでなく精神も極限状態に追い込まれたに違いない。が、本当の戦はゴールしてからだ――。年が明け1月12日、奥州勢は近江国の愛知川(滋賀県愛荘町)まで到達。すぐさま攻撃態勢を整えると16日から京の足利勢に襲いかかる。「勝たなければ休めない」と必死の奥州勢は強かった。1月30日の攻防で、ついに尊氏を敗走させたのである。そして、この戦は〝日本史上初となる奥州勢が官軍として勝利した〟瞬間でもあった。


 偉業達成の要因は顕家の采配によるところが大きい。だが、顕家に従った白河の結城宗広、梁川の伊達行朝、守山(郡山市)の田村宗季ら福島県の武将が、決死の強行軍を成し遂げたことも忘れてはならないだろう。             (了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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