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再燃した北朝の内紛|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載124

 南北朝時代の西暦1353年(南朝・正平8/北朝・文和2)5月、奥州南朝の拠点であった宇津峰(郡山/須賀川)が陥落。山を守っていた守山(郡山市)の田村氏は北朝に降伏し、南朝大将の北畠顕信は守永王を伴い津軽へ落ち延びた。以後、顕信は再起できず宇津峰の陥落をもって事実上、奥州の南北朝争乱は終結した。だが、これで平穏な時が訪れたわけではない。今度は北朝の武将たちが争いだしたのである。

 宇津峰陥落からさかのぼること7年前。北朝の総帥で室町幕府の初代将軍となった足利尊氏は、奥州統治のため奥州管領という役職を設置。西暦1346年(南朝・興国7/北朝・貞和2)に吉良貞家と畠山国氏を下向させた。管領を2人にしたのは当時、足利家中に2つの派閥があったことに考慮したからである。吉良と畠山は異なる派閥に属していたわけだから当然、仲が悪い。西暦1351年(南朝・正平6/北朝・観応2)2月、とうとう両者は軍事衝突し吉良貞家が畠山国氏を岩切城(宮城県)で討ち取った。このとき国氏の嫡男・国詮だけは城を脱出し福島県の二本松へ逃亡。一方、単独で奥州管領となった貞家は奥州北朝の勢力を自らの下へ結集し、南朝勢を宇津峰に追いつめ打ち破ったのである。

 だが貞家は南朝との戦で命を燃やし尽くしてしまったのか、宇津峰陥落の翌年に死去。嫡男の吉良満家が跡を継いだ。この代替わりをチャンスと捉えたのが二本松にいた畠山国詮。西暦1354年(南朝・正平9/北朝・文和3)に国詮は「正統な奥州管領は自分だ」と宣言。福島県の武士を率いて陸奥国府(多賀城)にいた吉良満家を攻めた。北朝の内紛が再燃したのである。

 この戦は畠山国詮が敗北し再び二本松へ敗走する。すると両者の争いを知った室町幕府2代将軍の足利義詮が事態を憂慮。義詮は「満家と国詮のどちらにも奥州を統治できる力はない」と判断し、新たな奥州管領として斯波家兼を派遣することを決定する。ところが満家と国詮はこの命令に従わず、西暦1354年に斯波家兼が着任した後も互いに「奥州管領は自分だ」と主張し続けた。


 しかも13年後の西暦1367年(南朝・正平22/北朝・貞治6)には将軍・足利義詮が斯波一族と対立。奥州から斯波一族を排除しようと、またも新たな管領を送り込むことにした。このとき第4の奥州管領に任じられたのは石橋棟義という武将。石橋は旧岩代町を本拠とし、宮城県にいた吉良と斯波に対抗しようとする。結果、西暦1367年の奥州は管領が4人もいるという異常事態に陥ったわけだ――。4人は互いに牽制し合い一時は斯波、畠山、石橋が連合、まずは吉良を奥州から追い出す。が、その後は残った3人がまた対立するようになり、奥州管領は国内の武士から見限られるようになっていく。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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