見出し画像

【近藤憲明】のたり日乗142回

予言の自己実現

 朝の散歩コース上にあるドラッグストアは開店1時間前から行列ができる。トイレットペーパーやティッシュペーパーを買い求める人たちだ。店の前には「本日マスクの入荷はありません」と張り紙が出ている。散歩から戻ってくると、トイレ紙やティッシュの棚はきれいに空になっている。
 1973年の石油ショックで起きた買い占め騒動のリプレーを見ているようだ。73年の買い占めは、大阪の千里ニュータウンのスーパーが発祥地とされる。安売りで売り切れたトイレットペーパーの補充に倍の値段の高級品を出したところ、紙の価格高騰が始まったと思い込んだ人たちが列をなした。この勝手な思い違いが発生源となって「買い占めウイルス」が全国に伝播していった。
 今回はコロナウイルスによる新型肺炎が発端である。マスクや消毒液が品薄になるのは理解できる。だが、なぜトイレ紙やティッシュなのか。業界も政府も在庫は十分ある、と喧伝しているのに、それがかえって人々の不安を煽り立てているかのようだ。大衆心理の行き先は方程式を解くようにはいかない。
 今回の騒ぎの発生源はSNSのデマ情報らしい。品薄になる、とのフェイクニュースが瞬く間に拡散した。報道によると、30代のある女性は対話アプリのLINEでママ友が「オムツがなくなる」と書き込んでいるのを見て、慌てて買い求めに来たそうだ。みんながトイレ紙やティッシュを買う姿を見て「私も何となく買っちゃいました」。妻と2人暮らしの70代の男性はLINEで息子からの「トイレ紙がなくなるかもしれない」との書き込みを見て不安になり、18ロール入り二つと5箱入りティッシュを二つ購入。「息子夫婦にも分けられるようにね」と話している。
 SNSの便利さと怖さを痛感させられる。ツイッターでは「トイレットペーパー」「生理用品」がトレンドワードの上位にランクインする。つぶやきを見た人が我先にと店に買いに走る。新型肺炎感染者が拡大した香港やシンガポールでのトイレ紙買いだめの影響も少なくない。香港ではトイレ紙の強盗事件まで起きている。その後、買い占めは米国や欧州にも拡散している。
 新聞のコラムで「予言の自己実現」という言葉を知った。「予言の自己成就」とも言うらしい。たとえ根拠のない予言、うそや思い込みであっても、人びとがその予言を信じて行動することによって、結果として予言通りの現実がつくられるという現象を指す。例えば、ある銀行が危ないという噂を聞いて、人びとが大挙して預金を下ろす行動をとることによって本当に銀行が倒産してしまう。そう思わなければ起こらぬことが実現してしまう。この社会現象をアメリカの社会学者、マートンが名付けたそうだ。
 トイレ紙の買い占め騒動は「予言の自己実現」の典型である。品薄予想がデマであると分かっている人もデマの自己実現に備えて品薄を加速する行列に加わってしまう。米やカップめん、レトルト食品の買いだめも始まっている。私の行くスーパーでは納豆まで完売だ。週1度、食材の配送を頼んでいる生協は「注文が殺到して配達が遅れる」とメールを寄こした。ここは、腰を据えて根拠のない思い込みに手を貸さない冷静さを取り戻したい。


 1948年、札幌市生まれ。慶応大経済学部卒業後、毎日新聞入社。政治部副部長、編集委員、福島支局長、論説委員、公益財団法人・認知症予防財団常務理事などを歴任。著書に『ふくしま有情』など。

よろしければサポートお願いします!!