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芦名直盛と黒川城|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載126

 南北朝時代の西暦1353年(南朝・正平8/北朝・文和3)に北朝が当時の東北地方を制覇。北朝の総帥・足利尊氏は東北支配のため奥州管領という役職を設置した。ところが諸事情が重なり西暦1370年までに奥州管領が4人も乱立してしまう。結果として北朝の権威は低下、新たに大名と呼ばれる在地勢力が各地で誕生する。このとき会津地方で台頭してきたのは芦名氏だった。

 もともと芦名氏は三浦半島(神奈川県)の豪族で、鎌倉時代の西暦1200年代に会津盆地を所領するようになった。ただ、この時代の芦名当主は鎌倉に居住、会津には代官を派遣していたようである。やがて鎌倉幕府が滅亡し南北朝の争いが始まると、1335年(建武2)に当時の当主であった芦名盛員が関東での戦で討死。盛員の妻であった笹谷御前が3歳になる子の直盛を連れ、鎌倉から会津に避難してきた。このとき母子が住んだのは現在の会津若松市内。市南東部にそびえる小田山の麓か、もしくは門田町飯寺のどちらかに館をかまえたとされている。居館の場所はともかく芦名氏が会津に腰を据えたのは、芦名直盛の代からである。西暦1351年(南朝・正平6/北朝・観応2)に19歳となった直盛は、この頃から北朝方の武将として活動を開始。坂下町の一帯を支配していた南朝方の武将・堤次郎左衛門を攻撃した。翌1352年(南朝・正平7/北朝・観応3)春まで直盛は堤次郎左衛門と南朝勢力に勝利。会津盆地を脅かす敵を一掃することに成功した。

 このあと直盛は地固めに専念していたようで、目立った動きをみせていない。次に事跡が確認されるのは32年後の1384年(南朝・元中元/北朝・至徳元)になってからである。

 この頃までに確固たる基盤を築いた直盛は「盆地の中央に新たな城を築こう」と考えた。小田山か飯寺か、どちらにしても端に寄りすぎていたのだ。しかし会津盆地は広い。直盛はなかなか本拠の移転先を決めることができなかった――。1384年の冬、直盛は田中稲荷神社(会津若松市大町)に参拝し「どこに城を築くべきか教えてください」と祈願。翌朝、直盛が館の外に出てみると、降り積もった雪の上に狐の足跡が延々と続いていた。「これはもしや神のお告げでは」と思った直盛は、狐の足跡をたどってみる。すると、それは黒川(湯川)の北岸に円をえがいていた。直盛は「これぞ理想の立地」と、さっそく足跡の内側に城を築くことにした。


 こうして完成した城は黒川城と呼ばれるようになる――。のちに黒川城は蒲生氏郷によって大改修され鶴ヶ城と改名。つまり鶴ヶ城の原形である黒川城は、狐の導きによって生まれたわけだ。直盛はこれに感謝すべく城内に稲荷神社を創建。この社は鶴ヶ城稲荷として、今も城内に祀られている。(了)


おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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