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【熟年離婚】〈男の言い分61〉

認知症の親の介護で衝突、離婚―でも、誰だって「二度童子」になるかもしれない。


 M氏、62歳。元会社員。今年2月、4歳下の妻と離婚。

 私の生家は小さな町の八百屋でした。両親が頑張っていて、なかなかの繁盛店でした。しかし、私が中学2年、妹が小学4年の時に父親が急逝、それからは母が一人で店をやりました。まだ暗い内にリヤカーを引っ張って市場に仕入れに行き、青果の他に、手作りのおにぎりも売るようになりました。これがウケて―おにぎりは、海苔、焼き味噌の他に青しそ、筍飯、舞茸飯など季節の味が評判で、昼時は町の会社や工場の人達がどっとやって来て大忙しでした。母はこうして頑張って、私を大学に、妹を短大に入れてくれました。

 妹は遠く九州に嫁いだので、私は隣県の街の会社に勤めて、母と一緒に実家で暮らすことに―私が27歳の時に会社の同僚と恋愛結婚したんですが―美人じゃないが優しいのに惚れてね―彼女が私の母と、店舗兼住まいの家で同居してくれたことが、私にも母にも有り難い。「今時こんなヨメはいない」って母も喜んでいましたよ。

 結婚後も、妻は地元の会社の事務員をしながら、娘二人を育て上げましたが、お義母さんの助けのおかげと、別れた今も感謝していますよ。

 娘二人が結婚して、やれやれ、これからは私ら夫婦の人生だ、というところで〝ハードル〟は現れたんです。80歳も間もなくの母の〝異変〟が始まった。―母は細々ながら店を続けて―さすがに市場には行けなくなって、青果は近隣の農家の直売所にしましたが、おにぎりは相変わらずの人気で、母の生きがいにもなっていました。ところが―おにぎりがだんだん形が不ぞろいになる、〝具〟を入れ忘れる、なじみの客の顔がわからない、計算を間違う―これじゃ、と私が店を閉めました。母は泣いて抵抗しましたけどね。

エスカレート

 それから1年も経たずに、母の状態はエスカレート。妻は、勤めをやめて母の世話に回りました。私は仕事で日中は留守なので、母の様子は妻の話からしか知る由もない。昼飯を食べたばかりで、昼飯はまだか、店のレジの金が消えた―とっくに閉店してるのに―と、絵に描いたような認知症の現れです。

 そのうち、風呂敷包みを背負って徘徊が始まりました。母は、あちこちに昼飯のおにぎりの配達に出かけていましたっけ―そのつもりでしょう、町の人や警官に送られて帰って来ることもしばしば―これ、全部、妻の報告です。

 私は直接母の様子を見ていないので、妻の言うことが信じられない。あの、気丈だった母が―と暗澹たる思いでした。でもね、心の隅で、妻の話を疑う気持ちも―毎日、そんな姑の世話をしていれば、話に愚痴も入って大げさになりますからね。

 母の状態は悪くなるばかりで、妻がちょっと目を離した時に、電気釜満杯のご飯が炊けていて―おにぎりを作るつもりか、台所中に飯の塊と飯粒が散らかっているというのです。妻がそれを片づけているうちに、本人は徘徊。それを追いかけて行く妻はぐったりの様子でした。

 困り果てて、ヘルパーを頼んだら「知らない人が家に入って来た」と大騒ぎで―妻は泣いていました。

 施設に入る話を持ちかけると、母は、その時ばかりは頭脳明快で、「絶対にこの家で暮らす」と強硬。そのうち、母の徘徊の範囲が広がって、ある時は徒歩で2時間はかかろうという隣町まで、ある時はバスに乗って終点のJRの駅まで―と、その度妻は引き取りに行く。家にいれば母のそばを離れられないという毎日。妻の苦労も不満もエスカレート―その辛さを泣きながら訴えた妻は、「お義母さん、いっそ、死んでしまえば、本人も私らもみんなラクになるのに」と―。

 この時、私の心の中の〝地雷〟を妻に踏まれた気がした。俺の母親にそれ言うか!? 俺を育ててくれた母親だぞ―そして、妻に「出て行け!」と怒鳴ってしまった。

 彼女は黙って、小さなスーツケース一つで、速攻、出て行きました。私が定年退職を迎えて4日目のことでした。

 それからは、毎日が大変。炊事、洗濯、掃除、諸々を自分一人でやる。そこに母親の世話です。嫁がいなくなったのも気づかない母と二人の暮らしはひと月持たなかった。妻が訴えていた通りのことが毎日毎日、起きる。そこに、徘徊が夜中も始まったので、家中の戸に二重鍵をしても、おちおち眠れない。夜中に、戸を開けてくれ、と大声でわめいている母にたまりかねて、私は思わず言ってしまったんです。「母さん、もう、いい加減に死んだら?」―自分の言葉が、その場にへたり込むほどショックでした。母の息子の私が、それを言った。戸を力づくで開けようとする母を止めながら、私は泣きました。

二度童子


 ついに、母を施設に―。もう、何も分からなくなっていましたから。そして1カ月―コロナで、ガラス越しにしか面会できませんでしたが、母は穏やかな顔をして、血色もいい。笑顔も見せる。介助があればふだんの生活も何とかできて、徘徊もないとか。施設の人達ってさすがだね、それが仕事とはいえ、年寄りを―どんなに認知症が進んでいようが、一人の人間として扱ってくれている。だからこそ、母もおだやかな婆さんになっている。思い返せば、私も妻も、母親の世話にピリピリして、疲れ果てて、鬼のような顔、鬼のような心になっていたんですね。

 それから半年、やっとコロナによる面会制限が無くなりました。母は、私の顔を見て喜んでくれるかな、と思いきや、キッと私を睨みつけて―「あんた、きよか姐さんとまだ切れてないんだね、私はわかってるんだよ」と。私を夫と思っている。親父の浮気と夫婦のバトルを垣間見て、おかしいやら切ないやら。

 母の生家の県北地方では、認知症になった年寄りを「二度童子」と言うそうです。何もわからなくなって、もう一度、幼子に戻ったんだから可愛がってやろう、と―年寄りをいたわりながら、介護に苦労する周りの者達の苛立ちをなだめる言葉でしょうね。そして、誰だって「二度童子」になるんだよ、という警告でもある。

 母は、今年83歳―きよか姐さんを牽制しながら、もう少し長生きできそうです。面会に行く度、私は母に「ごめんね」と、あの時の私の〝暴言〟を心の中で詫びます。そして妻にも、彼女の苦労、苦しみをわかってやろうとしなかったことを、心の底から詫びています。

 妻が出て行って1年、もう一度やり直そうと話をしましたが、「今度は夫の介護なんて勘弁して」と。参りました! 離婚は、金だの家だのの問題だと本当に厄介ですが、介護で夫婦とも心が荒んで暮らす方がもっと厄介。しかし、彼女だって―今は娘の家族と暮らしているが―これから自分も「二度童子」になるかもしれない。私も含めて、誰もわかりませんよ。

 面会に行って、すやすや眠っている母の顔を眺めていると、まるで幼子のように邪気がない。これまで本当にありがとう、という気持ちでいっぱいになります。母とはそう遠くなく別れの時が来る。「二度童子」が無邪気に天に還るんですね。

 さて、ようやく慣れてきた料理で肴を作って、今夜はゆっくり飲みますかね。(橋本 比呂)

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