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【熟年離婚】〈男の言い分52〉

母親の嫁いびりにキレて、妻が出て行った。
妻を守ってやれなかった自分の不甲斐なさが情けない。 


O氏、会社員。59歳。4歳下の妻と1年前に離婚。

 私は、2歳の時に父親を交通事故で亡くして、母親が地元の街の証券会社に勤めながら、私を育ててくれました。

 私が幼い頃は、働きながら子育てをする女性を支える社会環境が整っていなかったうえ、母子家庭は差別の目で見られがちでしたから、母の苦労も大きかったと思います。

 そんな環境でも、なんとかやって来れたのは、私の母のおかげです。母は、東京の有名女子大の英文科出で、それを誇りにしていましたが、仕事も出来たらしく、私が中学を出る頃には、当時では珍しい女性の中間管理職になっていました。

 そんな訳で、母は「世間を渡って行くのには“高学歴”が大事、まして、母子家庭では就職も不利になる」―という信条を掲げていて、私が中学に入るとすぐ、一流高校目ざして、家庭教師をぴったり付けられて、解放されるのは日曜だけ、と勉強漬け。しかし、母の期待通りの、地元の名門高校には入れずじまい。口には出さなくても、母の落胆ぶりがわかって、申し訳ないやら辛いやら―。

 そして次は、大学。今度は塾の掛け持ちの毎日。その間、母も仕事仕事で忙しい中、毎朝、手の込んだ弁当を作ってくれたものです。

 そして、大学は―有名国立という母の期待に添えず―母には申し訳なかったけど、そこで、一生の宝になる、いい仲間、いい先生に出会えましたよ。高校も、大学も、無理やり一流である必要はないでしょ。

 大学卒業の頃は、母も“一流企業”に息子が入る夢は捨てたらしく、私が、関東の中堅どころの会社に就職が決まった時は、手づくりの赤飯で祝ってくれました。

 高校からずっと、母の期待に応えられず、“不甲斐ない息子”だった申し訳なさと、それでも赤飯で励ましてくれる有り難さに、涙が出ました。

 幼い頃は、母子家庭をバカにされて、泣きたいこともありましたが、本当に私が泣いたのは、その赤飯を前にした時だけです。

 入社3年目の時、取引先の会社の経理の女性と知り合いました。彼女は、明るくて、元気いっぱいで、その上、同県の出身とわかって、すっかり意気投合。結婚するつもりで、交際を始めました。

 母に彼女を紹介したら―母も「いい人とご縁ができて―」と喜んでいましたが、話が彼女の経歴になって―「えっ、あなた大卒じゃないの!?」と―彼女はうつむいて肯いて―後は会話がギクシャク。自分たちの結婚に、暗雲が出始めたのはその時です。―その後、母から、じんわりと結婚を反対されましたが、自分達二人が決めたこと。28歳と24歳で結婚して、2年後に息子を授かりました。

 妻も仕事を続けていましたから、仕事に子育てに忙しい毎日でも、まぁ、幸せな生活でした。

 母も、孫可愛さで、頻繁に訪ねて来るようになりました。当時、私らは、アパートに住んでいましたが、母は、「こんな狭い住まいじゃ、子供が可哀想」と、一戸建ての家の頭金全額を、ポンと出してくれました。何一つ贅沢をしないでコツコツ貯めてきた母の金を有り難くもらって、家を買いましたが、妻は警戒。

 「お義母さん、これからはしょっちゅう来るだろうね」と―。大卒じゃないの?と言われたことに傷付いていた妻の気持ちはよくわかりはしましたが、「親が来て何が悪い」という私との喧嘩も度々になりました。

 案の定、母は、まとまった休日というと、いそいそやって来て、その度に、孫の心配。「いい塾に入れて、勉強させてよ」「こんなに本の無い家じゃ、子供の知性は育たない。あなたは母親なんだから、努力しなきゃね」と最後は嫁に説教。

 孫を囲んで楽しい一家団欒なんてなかったですね。我慢に我慢して、肯く笑顔が引きつっていた妻の顔を今も思い出しますよ。

葡萄捨て事件

 その後も母は、ちょっと長い休日の度に、いそいそとわが家にやって来ました。「定年退職したら、ここで暮らすつもりじゃないの?」と言う妻と、「そんな根性の悪いことを言うな、おふくろはちゃんと自立するつもりでいる」と言う私とで、何度も口論したものです。

 両親が結婚した時、父の実家が、若夫婦のために小さな家を建ててくれましたので、母と私はそこで暮らしてきました。母は、「ここが自分の終の棲家、動ける限りそこで暮らす」といつも言っていましたから。

 ところが、退職したら頻繁にやって来て、1週間、10日と泊まって行く。着替えや本、化粧品など、母の荷物がじりじり増えていく。妻の顔つきがだんだん険しくなる度に、恐ろしい予感がしました。

 ある時、母が、高級品の葡萄を三房、土産に買って来てくれました。翌朝のこと―母の金切り声で目が覚めました。母が、台所で震えて立っている。何事かと思ったら、黙って、台所のゴミ箱の蓋を開けて指さしている、―そこに、母の土産の葡萄がそっくり捨ててあったんです。妻がやった!

 ―それからが、嫁姑の大バトルです。思い出すのも恐ろしい。激しい口論の末、妻は泣きながら、着の身着のままで出て行きました。不幸中の幸いだったのは、当時、息子は就職して家を出ていたので、自分の母親と祖母の、地獄絵図を見ないで済んだことです。

 彼は、「あなたがちゃんと勉強しなかったから、一流国立大に入れなかった。サポートできなかったお母さんもいけない」と祖母にグチられて参ってましたからね。そこに彼がいたら、それぞれの負う傷は、もっと深くなっていたと思います。

 妻は、実家に“一時避難”して、4カ月後、離婚を言って来ました。私には、それに異を唱える資格がない。妻の望み通りにしました。

 母は、さすがにやり過ぎと思ったのか、しばらくシンとしていましたが、それを境に、まだらの認知症になりました。女手一つで私を育ててくれた母を、見捨てることはできない。妻とすれば「私よりお母さんが大事なんだ」と言われるだろうが、嫁姑、夫婦が仲良くやって行けない以上、息子の私の選択肢は、母親を取るしかなかった。

 姑の横暴から妻を守ってやれなかった自分の不甲斐なさが辛い。家は妻にやって、私は母と郷里の家で暮らしています。会社は早期退職して母の面倒を見ながら、“顧問”という立場でボチボチやっています。

 仕事を続けていた妻は、今やベテランの経理主任で頑張っているようです。息子は、30歳を過ぎましたが、将来の独立を目ざして、独身で仕事に打ち込んでいます。

 母の頭がしっかりしていれば、学歴なんて、充実した人生の絶対条件ではないことを語ってやりたいところですが…今となっては―

 「〇子さん(妻の名前)、帰りが遅いね、夕ご飯、どうするのかな」なんて言っています。子供に返りつつある母を、最後まで守ってやるしかありません。

 元・妻はまだ若い。人生これから楽しいことがあるはずです。彼女への頼みは、息子が結婚したら、嫁を大事に、仲良くやってほしい、それだけです。
(橋本 比呂)


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