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芦名盛員の妻・笹谷御前|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載111

 建武3年(1336)1月、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し、京を占領する。しかし直後に奥州から北畠顕家が駆けつけ、尊氏を九州に敗走させた。政権に復帰した後醍醐は「戦乱は元号のせいだ」と改元を宣言。同年2月に建武を〝延元〟と改めた。延元元年(1336)3月に顕家は奥州への帰途に就き、6月に多賀城(宮城県)へ帰着。その途中で相馬氏を討伐している。このことで中通りでは北畠が優勢、浜通りは足利派が多かったことが分かる。では会津地方はどうだったのだろうか。まだ強力なリーダーが誕生しておらず、各地の小領主がそれぞれ北畠と足利に分かれて小競り合う情勢であった――。そんな時代の会津を生きた一人の女性の話が残されているので紹介したい。

 顕家が京から奥州に戻った頃、西会津町に観音堂が建立された。円満寺観音堂と呼ばれる寺を建てたのは笹谷御前。会津の武士・芦名盛員の妻だ。

 芦名氏は相模国(神奈川県)三浦氏の出で、鎌倉時代の13世紀に若松市へ入植したとされる。芦名の他にも猪苗代、旧河東町の藤倉、湯川村の北田、喜多方市の新宮にも三浦一族が割拠していた。14世紀になると一族は互いに縁組するようになり、北田氏(湯川)の娘が芦名盛宗(若松)のもとに嫁いだ。北田氏娘と盛宗の間には2人の男子が誕生。次男の行信は母の実家・北田氏を継ぐ。一方、芦名の当主となったのは長男の盛員。彼は白河から妻を迎え、この女性が笹谷御前と呼ばれるようになった。ちなみに当時はまだ幕府が健在で、多くの武士が所領を離れて鎌倉に居を構えていた。どうやら盛員も笹谷御前とともに鎌倉に居住。会津は弟の行信に任せていたらしい。



 やがて元弘3年(1333)5月に幕府が滅亡、後醍醐が建武政権を樹立する。しかし建武2年(1335)7月に北条時行が幕府を再興せんと鎌倉を占領した。これを鎮圧するため足利尊氏が京から東下。同年8月に鎌倉郊外の片瀬川で北条軍を打ち破っている。この戦いで敗死したのが芦名盛員と嫡男の高盛だった。つまり芦名は昔から北条との繋がりが深く、時行が挙兵すると盛員も従ったのである。盛員の死後、笹谷御前は3歳になる次男・直盛を連れて会津へ逃亡。彼女を保護したのは義理の弟・北田行信だった。この時代の武家は当主が早死し跡継ぎが幼かった場合、未亡人が政務を代行することになっていた。そのため会津の芦名領は笹谷御前が相続、行信が補佐役となる――。そして彼女が女当主として最初に行ったのが、夫と長男を供養するため延元元年に観音堂を建立することだったわけだ。

 その後、笹谷御前は芦名家を守るため北畠と足利との間を転々とせざるを得なかった。が、おかげで芦名は南北朝の動乱を生き延び、のちには会津の覇者となるのである。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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