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【熟年離婚】〈男の言い分54〉

娘を花形ピアニストにするためだけの家庭?生活―もう、いいよ、後はお互い好きにしようよ。


 Y氏、69歳。会社員。3歳下の妻と1年半前に離婚。

 私らは、28歳と25歳で見合い結婚しました。妻は、看護師で、共働きでしたが、彼女は仕事も家事もテキパキ、楽しそうにやる明るい人間で、私も幸せでした。ただ一つの“悩み”は、子供ができないこと。二人とも子供好きなのに、コウノトリに見放された―と諦めかけていた時、6年目に、娘を授かりました。―うれしかったですねぇ。妻の喜びようは、私の100倍だったかも。妻は、子育てに時間を割きたいとそれまで勤めていた総合病院から小さなクリニックのパートに代わって、娘中心の暮らしが始まりました。

 娘が3歳になった時、おもちゃのピアノを買ってやったら、すごく喜んでいじり始めました。子供も子犬も子猫も、幼い者は世の中で初めて出会うものに、興味津々ですからね。娘も、大喜びでピアノを放さないで、キーを叩きまくる。それが、なんとなくきれいな音なんです。それからが妻の“暴走”の始まりでした。「もしかして、この子は才能があるかも」と、それから長く長く続く“英才教育”と、娘を世に出す道を、妻は走り出したわけです。

 話は逸れますが、あの、“盲目の天才ピアニスト”と言われる辻井信行さんは、2歳の頃からおもちゃのピアノを楽しそうにいじっていたというエピソードがありますが、あの場合は、本当の才能、天才がピアノに出会った例ですよね。今の若い親たちが勘違いして、「普通の」わが子に“英才教育”という重い荷物を背負わせないでほしいですよ。辻井さんの幼い頃の、おもちゃのピアノは、天才に出会うべくして出会ったもの。もしや、とそれを見抜いたお母さんの感性も優れていたんだろうと思います。しかし、そこを見定められない親が、いっぱいいるんでしょうね。うちの妻も、その中のひとりです。親の“カン違い”で“英才教育”という重荷を背負わせられる子供は、いい迷惑ですよね。

娘のピアノ、ピアノの娘

 妻は早速、娘を街のピアノ教室に入れました。娘は、それも楽しかったようで、嫌がる様子もなく、通っていました。半年もすると、妻が得意気に言うには、「先生が、うちの子は筋がいいって!」と。目を輝かせている。「先生だって、望みがないとか、まぁ普通とか、親ががっかりすることは言わないし、“頑張れる筋”をほめてくれるんだろう」と私が言っても、妻は耳を貸さない。

 喜び勇んで、ピアノを買いました。それからは、娘のレッスンの復習に付きっきりです。週1回のレッスンは、週2回に。娘が小学校に入ると、長い休みは、個人レッスンを受けさせていました。

 そうこうしているうちに、娘は小学5年生になって、地域のピアノコンクールに出場。なんと2位。中学1年の時には1位に―。その時の妻の喜びようは、去年のワールドカップの日本・ドイツ戦の勝利どころじゃなかったですよ。娘本人は「私よりうまい人が出場しなかっただけ」と静かなものでした。




 興奮の冷めやらない妻と、乾杯しながら彼女の“過去”を聞いて、なるほどね、と分かった気がしたのは、中学時代までピアノを習っていて、将来は音楽大学に進んで、ピアニストになるのが夢だったと―。しかし、中学卒業の時に父親が亡くなって、夢は諦めた、というのです。そうか、そうだったんだ、とその時は、妻に同情しましたよ。娘に、自分の果たせなかった夢を重ねているのもわかりました。

 ―脱線するけど、こういう親、多いですよね。バレリーナになりたかった、俳優になりたかった、医者になりたかった、だから子供を―ってねぇ。

東京へ―

 娘は、コンクール以来、月1回、新幹線で、東京の先生のレッスンを受けに行くようなりました。その度妻は、仕事を休んで付き添い。帰れば、母親付きの練習。娘も熱心なのが、私には救いでした。

 それからがわが家の“曲がり角”です。高校は、東京の音楽大学の附属校に行かせる、と妻は大張り切り。自分が一緒に付いて行くと―。娘も、お母さんと一緒なら、と夢を膨らませている。

 そこは父親ですから、娘の将来のためなら、としぶしぶ認めました。仕事現役の私が一人暮らしをするわけです。何かと不自由ですよ。「娘の将来と、あなたの毎日の暮らしと、どっちが大事?」と妻に言われて、引き下がるほかない。やっぱり、娘が可愛いですよ。

 娘は、首尾よく“一流”と言われる大学に合格。幸い、東京の親戚が2DKの小さいマンションを空き家にしていたので、そこを借りて母娘が暮らすことになりました。

 娘は、なかなか良い成績で進級していました。妻は街のクリニックで働いて、月1回、自宅に帰って来ましたが、「東京の暮らしは楽しい」と、彼女はだんだん帰って来るのも減っていきました。

 娘は、あれこれのコンクールで入賞はしていましたが、華々しい受賞は無し、で卒業しました。妻は、自分の実家や親戚、隣近所に娘自慢をしていましたから、それでは顔が立たない、と思ったようで、ウィーンに留学させる、と言い出しました。

 娘も乗り気なので、貯金をはたいて留学させることに―娘は1年間、憧れのウィーンで“勉強”して来ました。ウィーンの学校といっても、ピンキリでしょう。1年ウィーンにいたからって、「ウィーン帰りの新星○○」と華々しい凱旋デビューができるわけない。本物の実力だけがモノを言う世界でしょうよ。

 帰国したものの“鳴かず飛ばず〟の娘と、落胆の母親……。娘は、地方の交響楽団に入って―自分の生活を始めました。「知らない街だけど、そこで頑張るよ!」という娘の晴れ晴れとした笑顔が、私には何よりの“娘からの贈り物”でしたね。やっと、自分自身の人生を歩き出すんだな、よかったな、と言ってやりたかったです。

 がっかりの妻は、「私の人生の残りは、ここで過ごしたい」と言ってきかない。東京の2DKで暮らしたいと―帰れば、さんざん自慢した娘の、自慢の続きが出来なくなったからだろう、と意地の悪い憶測もしたんですが、そうじゃない。自分の果たせなかった夢を重ねた娘の、独り立ちがこたえたんでしょう。

 娘を“スター”にすることだけに費やされた家庭生活、もう帰って来たくない人と一緒に、これから長い残りの人生をやっていけないでしょう。もういいよ、お互い、好きにしようと、と離婚しました。仲の良い従兄に「お前が意気地なかったからだ」と叱られましたが、その通り。あれよあれよと、妻に独走させてきた罰かもしれないですね。

 娘は、楽団員と結婚して「音楽一家」になるのかな、と思っていたんですが、地元のサラリーマンと結婚して、幸せにやっているようです。元・妻も度々、訪ねているようで、孫たちにピアノを無理強いしないように願っています。

 これといった趣味もなかった私ですが、なんと、近所のピアノ教室に通い始めました。弾く人も無い、わが家のピアノが可哀想ですからね。そのうち「高齢の新星デビュー」なんてことになったら、どうしますかね。(橋本 比呂)


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