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佐々河城と鎌倉幕府―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載103

 本連載では〝鎌倉幕府=農業組合〟〝武士=農園経営者〟、〝御家人=組合員〟と置き換えているので、今回もこれに沿って話を進めたい。

 鎌倉農業組合を牛耳っていたのは事務局長(執権)の北条氏。北条氏はライバル組合員たちを次々と滅ぼし、その農園を奪っていった。結果、北条氏は日本一の土地持ちとなり、組合とはべつに個人経営していた北条農園を北条農園グループという巨大企業に発展させた――。当時の東北地方にも北条の子会社となった農園が多く、福島県では会津の芦名氏、安積郡(郡山市)の伊東氏、白河の結城氏などが子会社(御内人)であった。

 となると北条グループの社長が「鎌倉から東北各地を管理するより、東北営業所を開設しよう」と考えるようになる。このとき〝北条農園グループ東北営業所〟が設置されたのは安積郡。営業所長に任命された塩田流北条氏は現在ビッグパレットふくしまが建つ場所に館を築き、東北の子会社を管轄した。おそらく東北の農園経営者たちの目には、安積にある塩田流北条氏の館こそが〝北条の天下の象徴〟として映っていただろう。

 しかし西暦1300年頃から北条グループは衰退。社長秘書がグループ内の実権を掌握。子会社の利益を優先し、まだ存続していた鎌倉農業組合の組合員たちを疎かに扱ったのだ。当然、北条グループに属さない組合員たちは不満を募らせる。そこへ後醍醐天皇が即位。皇位継承に口を出す北条グループに猛反発した後醍醐は組合員たちに「北条を倒せ」と密命を出した。これに応じた楠木正成らが元弘元年(1331)9月に近畿地方で挙兵。北条は大軍を送ったが寡兵の楠木に手を焼き2年が過ぎた。

 この状況をみて「天皇に与する」と決断したのが、非北条の代表、足利尊氏と新田義貞だった。元弘3年(1333)5月7日、足利が六波羅探題(組合の京都出張所)を滅ぼすと北条討伐の動きは一気に加速。東北でも石川町の石川光隆が中心となって挙兵する。石川らが攻撃目標としたのは東北営業所、つまり安積だ。すると営業所長の塩田陸奥六郎は佐々河城に立て籠もる。佐々河城は郡山市安積町笹川にあった城で、阿武隈川に面した天然の要害だった。これで戦力が充実していれば攻撃を撥ね返せただろう。しかし子会社の者たちはすべて石川に付き、陸奥六郎に味方したのは一族の者だけ。それでも城兵は死に物狂いで抵抗したらしく、城攻めの総大将・光隆が負傷するほどであった。が、時が経つにつれ石川らは兵力差で圧倒したらしい。5月23日、ついに佐々河は落城。陸奥六郎らは討死した。

 前日の22日には新田義貞が鎌倉を陥落させている。ということは「東北地方の鎌倉時代とは佐々河落城で幕を閉じた」と言えるだろう。 (了) 

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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