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【熟年離婚】〈男の言い分48〉

34年間、私の〝生徒〟であり続けた妻は、私から卒業していきました。


M氏、63歳。元教員。昨年、13歳下の妻と離婚。

 妻が、13歳も年下というと、周りの人―男ばかりですが―うらやましい、と。結婚以来30年余り言われ続けました。そして、離婚したら「やっぱり、トシの差が問題だね」と―みんな、言いたいことを言います。

 私は若い頃、定時制高校の講師をしていました。そこの生徒だったのが妻です。彼女は、中学校卒業の後、食品加工の工場で働きながら、夜は勉強に来ていました。高校を卒業したら、短大の保育科に入って、幼稚園の先生になりたい、と目標をしっかり持った生徒でした。

 定時制高校の生徒のほとんどは、昼間、目いっぱい働いた後、世間の人達がくつろぐ夜から、彼らの勉強が始まります。大人が頭が下がるほど、彼らは頑張ります。中でもとりわけ彼女は頑張っていました。予習、復習をきちんとやって来ていて、授業が終わると職員室に質問に来る。どの教科の先生にも感心される、優秀な生徒でした。

 彼女は首席で卒業しましたが、目標を達成するには、大学に進学して資格を取らなければなりません。しかし、彼女にそんな時間も財力もないはず。優秀なのに可哀想だな、とは思いながらも、その後、それきりになってしまいました。

 彼女と再会したのは、卒業から半年ほど経った頃―職場の飲み会の後、仲間に誘われるまま、繁華街のバーに行ったら、バッチリ化粧してミニスカートのホステスに見覚えが―なんと、それ、彼女だったんです。訳を聞くと、「大学に行くお金を貯めるのに、会社に内緒でアルバイトしている」というんです。

 それが可哀想で、私は折にふれてその店に通うようになりました。強くもない酒を飲んだり、高いボトルを入れたり。

 しかし、そんなことで彼女の夢が叶うはずはないというのはわかっていながら、その店に通い続けているうち、いつのまにか、彼女に惚れこんでしまったんです。彼女も、私を慕ってくれた。私が32歳、彼女が20歳で結婚しました。

家庭が学校

 彼女と結婚したのは、もちろん、彼女の真面目で一途、夢と目標を持って生きている姿に魅かれたわけですから、私としては、なんとか彼女の夢を叶えてやりたい、という気持ちです。当分、子供はいらない、まずは彼女の目標達成、という生活を始めました。

 結婚して半年後に、彼女の志望する短大の入試が控えていましたから、まずは受験勉強です。その頃、私は全日制の高校に勤めていましたから、夕食が済むと、彼女の受験勉強を見てやります。私の専門は国語ですが、英語も社会も受験科目は全部、がっちり“指導”しました。彼女も頑張って―地元の短大に合格。

 それからの2年間、彼女は、一応の家事をしながら、勉強を続けました。その間、彼女の定期試験の勉強やレポート作成も私が見てやって、彼女は短大も首席で卒業。念願の幼稚園の先生になりました。その喜びようは―今も晴れやかで元気いっぱいの笑顔が目に浮かびます。

 彼女は毎日、張り切って仕事に行っていましたが、幼稚園勤めは幼い子供が相手。「大人の世界、大人の常識」から遠ざからないように、と私は毎晩、夕食後に妻に新聞を読ませました。ニュースはテレビで十分なので、「論説」と文化欄。漢字や意味が分からないと、辞書で調べさせました。「面倒でも、あんたのためなんだ」という私に、妻は素直に従っていましたね。

 私が38歳、妻が26歳の時に、息子が生まれました。妻は、子供を保育園に預けて仕事を続けました。私も、家事や子供の送り迎えなどを頑張って手伝いました。毎日続けていた「新聞読み」はさすがに中止しましたが、土日だけは「学習」が続きました。私が、これといった論説や記事を切り抜いておいて、妻に読ませます。妻も、素直に実行していましたが、時折、つらそうな顔を見せてました。その度、「やる気がない」と私は叱っていました。辛くても、妻自身の成長のため、と思ってね。

今度は読書

 息子が6歳になって、地元の大学の付属小学校の試験に合格。地元では“名門校”です。妻は大喜びでしたが、何度か「保護者会」に出席するうち、しょんぼり帰って来るようになりました。聞くと、他の子供達の母親が、みんな高学歴、自分は無学で恥ずかしい、と言うんです。「こんな母親では、息子も肩身の狭い思いをするんじゃないか」と。

 妻を慰めて、少しでも彼女自身の「自信」を高めるには―と、私が考えたのが、「読書」です。いや、本を読んだからって、すぐ「教養」が身に付くもんじゃないけど、ただ他人をうらやんでいたって、何にもならない。いっぱい、いい本を読めばいつか「自信」の土台にはなる、と彼女に言い聞かせて、私が収集していた日本文学全集を、読破するように励ましました。

 読書の“ノルマ”は、2カ月に1冊。彼女は、家事を終えた台所のテーブルで、辞書を傍らに、遅くまで読んでいましたっけ。そういう“負けず嫌い”と向学心、そこに自分は惚れこんだんだな、とあらためて思いましたよ。

 そうこうするうち、彼女は「保護者会」のことも忘れてしまったようで―息子はいつのまにやら、東京の大学に入って家を離れて―夫婦二人の暮らしが戻って来ました。

 それからの二人の話題は、文学本の感想。二人の話題というより、私の質問と、彼女が述べる感想。その感想に、私の論評―後で考えると、高校の授業と変わりませんよね。

 そんな日々が続いて―これと言った夫婦げんかもしない、二人で散歩や食事に行く、旅もする。仲のいい夫婦、とみんながうらやんでくれました。幸せでしたよ、私は。

卒 業

 そして、去年、私が定年退職した時、妻が、眼に涙をいっぱいためて、言いました。「私、もう、あなたから卒業していいですか」―早い話、離婚の申し出です。晴天の霹靂とはこのこと―ピカピカの青空から雹が―しかもサッカーボールぐらい大きいのが降って来て、私の頭を直撃です。

 そうだな、長い長い間、妻は私の生徒、私は妻の教師だったんだな、とわかりました。息子は「お父さんとお母さんが決めること」と、厳正中立。他でよく聞く、熟年離婚の“泥沼”なんてありません。長年、仕事をしてきた妻に、経済的に自立できる力がありましたから、“夫”という学校を卒業して、新しい人生を拓く力もあります。私は、彼女の“卒業”を祝ってやらなければなりません。

 私の“卒業生”は、昨年、沖縄に移住しました。元の職場の上司が、沖縄出身で、故郷で幼稚園を経営しているそうで、ぜひに、と協力スタッフとして迎えてくれたそうです。

 たまに彼女の近況を綴った手紙が来ます。その言葉遣いや、送り仮名の間違いに、つい、赤字を入れたくなる自分を笑うほかありません。

 私は、今、長年の夢だった郷土史を作り始めました。資料を集めたり、取材をしたりと忙しい毎日です。“卒業生”に負けずに頑張りますよ。
         
 (橋本 比呂)


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