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「原発PR標語」考案者 111回目の双葉町里帰り・前編(牧内昇平)

(2021年11月号)

 〈原子力明るい未来のエネルギー〉。双葉町の小学6年生だった大沼勇治さん(45)が考えた原発PR標語だ。町から表彰され、巨大な看板になった。それから20年後、原発は暴走し、町の姿は変わり果てた。「『明るい未来』なんてなかった。待っていたのは『破滅の未来』だった」。深い悔恨を抱く大沼さんと共に、双葉町を歩いた。


 大沼勇治さん、45歳。双葉町で育った。原発事故が起きた時、妻のせりなさんは第一子の妊娠7カ月だった。妻子の健康を案じ、親戚の住む愛知県に避難。現在は茨城県古河市に新しい家を建てた。2番目の子も生まれ、家族4人暮らし。自営で太陽光発電関連の仕事をしている。

 原発事故後ずっと続けているのが、故郷・双葉町への一時帰宅だ。初めて帰ったのは2011年7月。それ以来ほぼ月1回のペースで帰っている。愛知から茨城へ住まいが変わり、行き来するのはだいぶ楽になった。それでも古河市から双葉町へは車で片道4時間30分。仕事を丸一日休まねばならない。

 「一時帰宅を続けるのは、故郷を忘れたくない、双葉町との関わりを断ちたくないという気持ちですかね。この年齢になり、事故で強制的に故郷を追われると、やっぱり故郷への思いが強くなります。特に僕は、あの標語を考えたでしょう。そのことにこだわって活動しているうちに、町への思いが深まったというのもありますね」

 大沼さんの111回目の里帰りに同行させてもらった。9月下旬のお彼岸の頃、雲一つない晴天の日だった。

2回目の一時帰宅の時、防護服を着て看板の前で撮った写真(2011年8月。本人提供)

 進む「墓じまい」

 「昨日、町を歩いていたらキツネを見つけました。撮影してやろうと追っかけていたら日が暮れてしまいました。ははは」

 ハンドルを握る大沼さんが話す。自宅の手入れのための一時帰宅だが、変わりゆく町を記録する目的もあるという。

 車はJR双葉駅近くをゆっくり走っている。壁にスプレーで絵が描かれている賑やかな建物も見かけたが、おおむね町は10年半前から時間が止まってしまったような印象だ。薬局の窓ガラスが割れ、消防団の詰め所のシャッターはめくれ上がっている。

 まず立ち寄ったのは、町内にある共同墓地だ。大沼さんの祖父母や親戚がここに眠っているという。

 「お墓参りに来ましたよー。いま、きれいにしますからね」

 大沼さんがペットボトルの水を墓石にかけ、花を供えた。周りを見渡して気づくのは、墓地に「空き」が目立つことだ。1つの区画におよそ12基分のスペースがあるが、大沼家の墓の隣の区画は1つしか立っていない。その隣も1つ、さらに奥は2つ……。大沼さんが話す。

 「昔はびっしりお墓が立っていたんですよ。年に数回墓参りに来るたび、周りの墓がなくなっていくのに気づきます。『墓じまい』をする人が多いようです」

 墓を移すのは、「もうここに帰ってこない」という決意が固まった、ということではないだろうか。

※右下の写真は「空き」が目立つ町内の共同墓地(牧内氏撮影)

 双葉町は原発事故によって全域に避難指示が出され、約7000人が住む場所を追われた。今年9月現在、避難者は全国の42都道府県に散り散りになっている。

 事故から9年が経過した20203月、JR双葉駅周辺などごく一部の地域で避難指示が先行解除された。だが、生活インフラが整っていないため、町民が寝泊まりすることは想定されていない。帰還が始まるのは来年以降だ。町の面積の約1割にあたる復興拠点全域が避難指示を解除される予定で、町はこれに合わせてJR双葉駅の西側に新しい住宅群をつくり、町民たちの帰還を促す方針をとっている。

 しかし、かつての町民が戻ってくるかは分からない。町や復興庁が2020年夏に行ったアンケートによると、「戻りたいと考えている」と回答した人は1割しかいなかった。「戻らないと決めている」が6割、「まだ判断がつかない」が2割5分だった。閑散とした墓地を眺めていると、冷たい現実が見えてくる気がする。

時が止まったままの母校

 墓地から目と鼻の先のところに、大沼さんが通っていた双葉北小学校がある。正確には「あった」と言う方が正しい。原発事故から3年後の2014年春、双葉北小はいわき市内で授業を再開した。

 坂を少し上って学校の敷地内に入る。3階建てのクリーム色の建物。一見どこにでもある小学校だが、校舎前のモニタリングポストが「0・317マイクロシーベルト」を示している。子どもたちが長く滞在すべきでないことは明らかだ。

母校の双葉北小を訪れた大沼さん(牧内氏撮影)

 校舎に近づけば、ここも10年半前から時間が止まっているのを実感する。

 体育館には紅白の横断幕がかかり、パイプ椅子が一列に並んでいた。数日後に行われる予定だった卒業式の準備をしていたのだという。校舎1階の教室を窓からのぞくと、白板に2011年3月のカレンダーが貼ってあった。「11日」の欄に「今日」と書かれたマグネットがついていた。隣の教室には白い布団が敷かれたままになっており、ランドセルやリュックサックが散らばっていた。

 小学校時代の思い出を聞くと、大沼さんが校舎の前で立ち止まり、語り出した。

 「このあたりには小さな池がありましてね、コイやフナがいました。私は飼育係だったので、毎日この池の掃除をしていたんですよ。網で落ち葉をすくったり、エサをやったり。まじめにやってましたよ。毎日、毎日。懐かしいですねえ」

 植物が野放図に生い茂っていたため、残念ながら少年時代に掃除した池をきちんと見ることはできなかった。大沼さんが両手を腰にあて、ため息をついた。

 「でも……何だかんだ言って、小学校時代の記憶として今思い出すのは、あの標語を考えたことなんですよね……。それに尽きてしまうところはありますね」

誇らしかった巨大看板

 小学6年生のとき、原発の標語を考える宿題が出た。〈原子力〉の後に続く言葉を一人ずつ考えてくるものだった。双葉の町が仙台みたいな大都会になったらいいな。リニアモーターカーが町なかを走ったりして……。そんなことを想像し、軽い気持ちで〈明るい未来のエネルギー〉と書いた。

 しばらくたった頃、駅前のたばこ屋のおばあさんから標語が入選したことを聞いた。

 最優秀賞
 ・原子力郷土の発展豊かな未来
 ・原子力夢と希望のまちづくり

 優秀賞
 ・原子力明るい未来のエネルギー
 ・原子力正しい理解で豊かなくらし
 ・原子力豊かな社会とまちづくり

 町は春休みに式典を開くという。進学予定だった中学校の制服を着て出席したら、当時の岩本忠夫町長が直々に表彰状をくれた。

原発PR標語が入選し、岩本町長から表彰される少年時代の大沼さん(本人提供)

 「町長から直接表彰されたのは後にも先にも、あれが初めてです。とても誇らしく感じました」と、大沼さんは振り返る。

 表彰式は1988年。町の中心部の道路をまたぐようにしてアーケード状の看板が立った。はじめは最優秀賞を取った標語が掲げられ、3年後の91年に大沼さんの標語に切り替わった。道路上にかかった幅16㍍の巨大なモニュメントは、東京と仙台を結ぶ国道6号からも見えた。

 事故前、大沼さんが看板を目にせず過ごす日は一日もなかった。川で釣りをするにも、友だちとコンビニやゲームセンターに行くにも、看板のある道を通った。会社員になってからは毎朝毎夕の通勤で必ずその下をくぐった。

 看板のすぐ近くには、大沼家の土地があった。そこに賃貸アパートを建てたのは、大学を出ていったん上京し、地元に戻ってきた頃の勇治さん本人だった。

 この町は「東電の町」だ。原発がある限り、東電の社員が転勤でやって来る。だから空室に悩むことはない。社員たちは会社から家賃補助を受けているらしいので、それなりに高い家賃でも入居するだろう。そういうことを計算に入れた。2008年、地元の銀行から融資を受け、オール電化、高気密・高断熱の2階建てアパートを建てた。案の定すぐに部屋は埋まり、経営は順調だった。

 看板と共にあった暮らし。大沼さんが一番印象に残っているのは、妻との結納の日のことだ。

 浪江町の式場で結納を済ませた後、妻の両親ら親族を自宅に招待した。国道6号を南下し、交差点を右折。看板の下を通る時、義理の両親となる人に話した。

 「この看板の標語は、私が小学6年生の時に考えたものです」

 妻の両親も満足そうだったので、勢い込んでこう続けた。

 「ここでアパートを経営しています。東電社員が主な客なので、安定した収入源になっています。この町は原発で成り立っています。だから大丈夫です。どうか、安心して娘さんを預けてください」

 だが、自らの標語が掲げられてからちょうど20年後、安全だったはずの原発が事故を起こし、町民は故郷を離れざるを得なくなった。少年時代に「誇らしかった」巨大な看板は、「みっともなく、忌まわしい存在になってしまいました」と、大沼さんは話す。

「破滅の未来」

 愛知県安城市での避難生活中は日々の暮らしで精いっぱいだったが、ふとした時に思い出すのは、自分が考えた標語のことだった。

 「『明るい未来』は待っていなかった。結局待っていたのは、『破滅の未来』だった」

 なんの疑いもなく原発推進のお先棒を担いでしまったことを深く悔やんだ。事故が起きてからでは遅いけれど、「なかったこと」にだけはされたくない。でも東電や行政は「なかったこと」にしようとするだろう。だったら自分でやるしかない。大沼さんは双葉町に一時帰宅するたびに、看板の前で写真を撮り、標語とその背景の町の姿を記録し続けた。

 最初の1枚は2011年8月、2回目の一時帰宅の時だ。防護服に身を包んで看板の前に立ち、母の恭子さんにシャッターを押してもらった。

 〈明るい未来〉。自分のつくったこの標語が気に入らなかった。事故が起きてようやく分かった本当のメッセージを伝えたいと思った。一計を案じた。看板の前に立ち、今伝えたいメッセージを書いた模造紙を、標語に重なるように掲げるのだ。うまく撮れば、写真上では標語が置き換わる。

 こんな「訂正版」の標語をつくった。

 ・原子力「破滅」未来のエネルギー
 ・原子力「制御できない」エネルギー
 ・「脱原発」明るい未来のエネルギー

 周囲からは過剰なパフォーマンスだ、不謹慎だ、と言われたこともある。しかし、本人は至って真剣だ。

看板の前で標語を「訂正」(本人提供)

 「これは、私なりの闘いです。自分で考えた標語ですから、自分で間違いを訂正します。人が作った標語を訂正しようとは思いません。でも自分で考えたものには、けじめをつけたいんです」

 活動は国内外で注目を集め、英紙タイムズは大沼さんのことを「Nuclear poster boy」と紹介した。

消えた「土台」を探して

 この看板がすでに撤去されてしまったことは広く知られている。2015年冬のことだった。大沼さんは「現場で保存を」と要望し、約7000筆の署名を集めて町に提出したが、撤去工事は断行された。

 すでに跡形もなくなってしまったが、とりあえず看板が立っていた場所に連れて行ってもらった。大沼さんが東電社員の入居を見越して建てたオール電化アパート、まだ古びていない青色の建物の敷地に車を止めてもらった。

 外に出ると、大沼さんが「あれ~」と言って頭をかいている。

 「自信がないなあ。正確に『立っていたのはここ』っていうのが、分からなくなってしまいました」

 そんなことって、あるだろうか。一時帰宅のたびに訪れてきた場所だ。原発事故が起こるまで毎日のように見上げていた看板でもある。その位置を忘れてしまうものだろうか。でも、大沼さんは実際に首をひねっている。

看板があった場所を探す大沼さん(牧内氏撮影)

 「周囲の景色が完全に変わってしまっているんですよ。あっち(道の向かい)の体育館も壊されましたし、こっちの建物もなくなりましたから。でも、先月の一時帰宅では場所が分かったんですよ。支柱を立てていた『土台』の部分が敷地内に残っていたからです。それが今日来たら、なくなっていました。先月から土地の整備みたいな工事が始まっていました。あの工事で『土台』のところもきれいにしてしまったのかな……」

 先月までは分かったのになあと、大沼さんは悔し気だった。それを見て、私もなんとか場所を特定したくなった。昔の写真を手がかりに考えてみる。周りの建物はなくなったが、幸いにして道の両側の桜並木は健在だった。看板があった頃の写真を注意深く見る。看板の支柱のすぐ隣に映っている桜の木は、幹が途中で4本に分かれているのが特徴だ。そうすると、道の向かいにあるあの桜に違いない。そのすぐ奥に支柱がある、ということは……。

 「ここですね。看板があったのはここです」。まっさらな地面を指さして私が言う。大沼さんは納得したような、していないような表情である。なにしろ私が指さす場所には、もう何もない。平たい地面が広がっているだけだ。

 「ここですか。うーん……。先月まではっきりと分かったんだけど……。土台の位置を巻き尺で測っておけばよかったなあ」と大沼さん。

 すったもんだはあったが、場所ははっきりした。もう一度少し離れたところから、「看板があった風景」を見てみよう。道路の上、高さ約4・5㍍。今は何もない空中に〈原子力明るい未来のエネルギー〉という14文字が掲げられていた。クリスマスにはイルミネーションで明るく飾られた。それを想像しながら、町の風景を眺める。

 道の先にJR双葉駅が見える。ということはその近く、神社のすぐそばにあるのが大沼さんの自宅か。

自作の詩に込めた想い

 数日前のインタビューで看板にこだわる理由を聞いた時、大沼さんが語っていた言葉を思い出した。

 《国道6号を走ると、双葉の町並みとともに、〈明るい未来のエネルギー〉の看板が見えました。あの景観が、私の人生が入っている大切な一場面なんです。私の家族の歴史も、あの景観の中に入っています》

 《ひとは朽ちていきます。諸行無常です。町の風景もどんどん変わっていきます。だからせめて看板くらいは、当時と同じ場所で、当時に近い状態で残しておきたかったのです。人や周囲が変わってしまっても、あの看板が、いつまでも語ってくれると思ったんです》

看板跡地で語る大沼さん(牧内氏撮影)

 事故から3年後、大沼さんは所有するオール電化アパートの前に小さな看板を立て、自作の詩を掲示した。

新たな未来へ

双葉の悲しい青空よ

かつて町は原発と共に「明るい」未来を信じた

少年の頃の僕へ その未来は「明るい」を「破滅」に

ああ、原発事故さえ無ければ

時と共に朽ちて行くこの町 時代に捨てられていくようだ

震災前の記憶 双葉に来ると蘇る 懐かしい

いつか子供と見上げる双葉の青空よ

その空は明るい青空に

震災3年 大沼勇治


 撤去された看板はその後どこへ行ったのか。14個の文字板は今年3月から、同じ双葉町内の「東日本大震災・原子力災害伝承館」に展示されていることは広く知られている。「でも、それは看板のすべてではありません。看板の一部はまだ双葉町に残っています」。大沼さんはそう語り、私を町内のある場所に連れて行った。
         

【後編】


まきうち・しょうへい。40歳。東京大学教育学部卒。元朝日新聞経済部記者。現在はフリー記者として福島を拠点に取材・執筆中。著書に『過労死 その仕事、命より大切ですか』、『「れいわ現象」の正体』(ともにポプラ社)。


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