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北畠顕家の登場―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載104

 元弘3年(1333)5月に鎌倉農業組合(幕府)は滅亡した。長く組合を牛耳っていた北条氏に反発した農園経営者(武士)たちが、後醍醐天皇の勅命をうけて武力で倒したのである。

 農園経営者が組合を見限ったのは、経営権の保障や相続など農園に関する諸問題を公正に処理してくれなくなったから。農園経営者たちが後醍醐に期待したのは〝既得権益の保障〟であった。

 同年7月、後醍醐は自ら政治をおこなう〝建武の新政〟を宣言。しかし後醍醐と農園経営者の考えは当初から大きくズレていた。

 後醍醐は「優先すべきは地主(公家)の権利。武士は農園の管理人に過ぎない」と、農園経営者の存在すら否定したのである。こうなると「北条のほうがマシだった」という声が各地であがる。とくに北条氏の子会社(御内人)だった者たちは組合再興を願って集会をひらくようになった。どこで? 奥州で。奥州には多くの北条子会社が存在していたからだ。

 北条の残党は津軽で大規模な反乱を起こし、治安は悪化していく。事態を憂慮した後醍醐は一人の少年に奥州の秩序回復を命じた。若干16歳の公家・北畠顕家に。現代人からすると「無茶な」と思ってしまうが、北畠顕家は誰もが認める天才だった。幼い頃から学問や諸芸に通じ12歳で天皇の側近を務めるほどの逸材だったのである。

 陸奥国の長官(陸奥守)に任じられた顕家は元弘3年11月、国府があった多賀城に着任。まずは津軽で北条残党を討伐する。

 そのうえで「奥州に農業組合を新設する」という驚くべき決定をくだした。そもそも顕家の上司である後醍醐は組合活動を否定しており背信行為となってしまう。それでも顕家は「国にまだ土地問題を裁く法律がない以上、やはり組合が必要だ。鎌倉農業組合は制度自体は間違っていなかった」と独断で判断したのである。

 こうして建武元年(1334)1月に〝陸奥将軍府〟が発足。名称からは組合(幕府)の文字がはずされていたが、内実は〝奥州ミニ幕府〟と呼んでもいい。争乱の根源となっている土地争いを裁くことを第一とした組織だからである。

 訴訟が起こると、まず〝引付衆〟という調査員が実態を調査。その調査をもとに〝式評定衆〟という裁判官たちが審議。判決は陸奥守・顕家が下すという制度であった。

 なお引付衆と式評定衆に任命されたのは白河の結城、伊達、安積(郡山)の伊東、須賀川の二階堂など地元の武士が大半。つまり顕家は身分や家柄にとらわれない人材を登用したのである。

 結果、陸奥将軍府は奥州の武士たちに受け入れられ、予想以上の早さで治安は回復した。     
(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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