結城宗広の最期|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載115
奥州南朝の総大将・北畠顕家は、北朝の総帥・足利尊氏と雌雄を決すべく延元2(1337)年8月に霊山(伊達市)を出陣。翌年1月に青野原(関ヶ原)まで達した。が、ここで北朝の防衛線を突破できず伊勢国(三重県)に転進。部隊を再編した顕家は伊勢から奈良、和泉国(大阪府)を通って京を目指そうとした。だが奈良の般若坂で北朝勢に敗北。軍勢が四散してしまう。顕家はわずかな兵を連れて和泉国に向かったが、長年にわたり顕家を支えてきた白河搦目城主・結城宗広は般若坂で脱落。南朝の後醍醐天皇がいた吉野