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鳥取電機製造株式会社(鳥取市商栄町)

昭和52年2月の創刊時から連載されていた、山陰の事業所を紹介する『事業所めぐり』をnoteで順次紹介。今回は昭和52年9月25日号より、鳥取電機製造株式会社の記事をご紹介します。
※地名、会社名など各種名称、役員、事業内容・方針、広告内容等記載内容は掲載当時のものです。



【事業所めぐり45】鳥取電機製造株式会社(鳥取市商栄町)


阪神工作所として昭和14年に神戸に創立。戦争の激化に伴い、19 年に工場疎開を行うと共に現社名に変更、終戦直前まで川崎重工㈱の艦船協力工場として活躍した。戦後は国鉄車両の部品納入工場として製造を開始。34年川崎重工㈱、39年川崎電機製造㈱と相次いで資本提携を行ったが、43 年10月に富士電機製造㈱に吸収合併され、同社の関連会社として再スタートをきった。その後も配線器具、小型交流電動機、電熱器など製鉄プラントの制御装置を中心に製造を行い、49年には販売会社として鳥電商事㈱を設立させ、51 年に現在の津ノ井工業団地に本社工場を移転した。

車両用、船舶用、産業用の電気機器などの製造販売修理工場として年間10億円以上の販売高を誇り、順調な経営を続けてきた同社だが、石油ショック以後は代表的な構造不況業種の船舶をはじめ、国鉄、製鉄プラントとも軒並みに大幅なダウン。特に列島改造論の目玉商品だった新幹線建設が宙に浮いた形になった現在、荊尾(かたらお)功社長は「49年の山陽新幹線以後は国鉄の仕事そのものの絶対量が減ってくる一方。古くなった車両の取り替えくらいで…。とにかく、石油ショックの直撃をモロに受けた感じ」と車両用電機製品を主力にしていただけに厳しい表情。

また、製鉄プラントにしても千葉、川崎、福山などの建設がほとんど終了したため、「現在でだいたい1億4、5000万トンの生産能力がありますから、これ以上の建設計画はちょっと望めない。今後は車両などのプラント輪出に目を向けていきたい」と国内での需要は既に限界に近づいたとみる同社長は、国外への輸出計画に期待する。

操業率は現在80%程度だが、ことしの末までには「100%操業に持っていくメドがついた」とやや明るさを取り戻した様子である。また、地域社会への貢献ということから叶、秋里の下水道処理施設などの制御装置の取り付けやプラントもののアフターサービスなどにも重点を置き、「プラントエンジニアとしての技術を生かした仕事の開拓を行う」と抱負を語る。いずれにしても山陰では異色の企業だけに関係者の期待は大きいが、しかし、「100%操業のメドは立ったが、ことしの売上高は8億円程度。売り上げにつながるにはまだ一年かかる」と、これからが勝負という様子である。(昭和52年9月25日号)



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