見出し画像

【一首評】〈第7回〉ばあちゃんの骨のつまみ方燃やし方 YouTuberに教えてもらう/上坂あゆ美

 老人ホームで死ぬほどモテたい、その歌集の冒頭に出てくるこの歌は、私を歌集の世界へ引き込むのに十分すぎるほどの引力を有していた。

 その引力の正体は、内容の奇抜さから来るインパクトだろうか。あるいは大きく首を振って肯定するほどでもないが、心の片隅にある「心当たり」を絶妙にくすぐってくるようなシンパシーだろうか。

 私は両親から多くのことを教わって育った。箸の持ち方、漢字の書き順、交通ルールの重要性。それは多くの人にとっても例外ではないだろう。私たちは皆、両親や祖父母、親戚といった家族から多くのことを学んで育っている。当たり前である。あまりにもありふれた、わざわざ誰も見向きしないごく当然の現実である。そしてそれは、ライオンが狩りの仕方を子に教えるように、ツバメが子に飛び方を教えるように、ヒト動物の隔たりもなく、この世界に浸透した摂理ですらある。
 しかし私たちは全てを知っているわけではなく、教わる機会のなかったささやかな疑問にいずれ直面する。そのような場合でも、ときに子は抱いた疑問の答えを家族に求め、ときに自ら解決を図り、その姿を親は見守る。
 親から子へと知識やノウハウを継承する「教育」という概念は、家族という集団が持つ機能の一部なのだ。

 というのは少し前までの話で、現在の社会では知識や答えを求める際に必ずしも家族を頼る必要がないという点において、家族が持つ本来の機能は失われつつある。この歌にもあるように、本来見ず知らずの他人から教わるはずのない火葬や納骨の手法をYouTube一つで知ることができる時代が到来しているからである。この変化は少しずつ私たちの日常を侵食しているものである。

 この歌はその変化に対して何かを訴えているわけではない。ただ、何気なく見過ごしている異質な変化を私たちの眼前に突きつけているだけにすぎない。だからこそ、家族の機能が失われつつあることへの憂いや喪失感が、おばあちゃんが亡くなったことに対する心情とストレートに重なり、ただ事実を述べること以上のインパクトとシンパシーを生み出しているのだろう。それと同時に。私たちは突きつけられた事実に対して何を思うかという解釈の余地が生まれ、それがこの歌の意味深さを増大させているのだろう。
 
 そしてこの歌には作者のセンスや技術が詰まっている。
 心地良い韻律を保ちながらも、多くを語らず自然と火葬・納骨の様子を想起させる言葉の配置。形骸化する家族の機能を、火葬・納骨の方法をYouTubeから学ぶというストーリーで表現する着眼点。下の句の冒頭に「YouTuber」という葬式に似つかわしくない存在を配置することにより、前提となる情景の説明にすぎない上の句に、下の句との落差を生じさせるための加速装置としての役割を付与している構成。

 このような作者の歌人としてのセンスと技術が、ただ一つの事実、あるいはエピソードを書き連ねただけの31文字を一つの「作品」に昇華させているのである。

 特別目新しい表現技法を用いているわけではない。

 特別前衛的なメッセージが込められているわけではない。

 ただ、自らのセンスと、それを伝える最低限の言葉。

それだけでわずか31文字の中に無限の可能性が秘められた「作品」を生み出す芸当は、私が理想とする現代短歌の完成系の一つである。 4年 S.H

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?