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(浅井茂利著作集)貧困と格差の問題

株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1592(2015年7月25日)掲載
金属労協政策企画局次長 浅井茂利

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 この欄では、テクニカルな話題を取り上げることが多いのですが、今号は大きなテーマ、貧困と格差の問題について、少し考えてみたいと思います。

貧困は害悪である

 ILO(国際労働機関)の基本文書のひとつに、1944年に採択された「フィラデルフィア宣言(国際労働機関の目的に関する宣言)」というものがあります。この中で最も有名なのが、冒頭の「労働は、商品ではない」という言葉、そして、「一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である」という部分ではないかと思います。
 まず「一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である」ですが、この文章が表している事実関係については、まったく否足しません。貧困が結局は第2次世界大戦をもたらした、という時代背景も承知しています。しかしながらそれでも、意地悪く解釈すると、「貧困の人たちがいると、(貧困ではない)自分たちにとっても害が及ぶのでよくない」と言っているように感じられます。今風に言うと、「上から目線」の言葉のように思えます。
 「全体の繁栄にとって危険」だから貧困がよくないのではなく、「全体の繁栄」とは関係なく、あくまで貧困はよくないのではないでしょうか。戦前の最も代表的な経済学の教科書、アルフレッド・マーシャルの『経済学原理』には、「貧困は重大なほとんど純然たる害悪である」とありますが、筆者には、こちらのほうが重みのある言葉として感じられます。

労働が商品より大事にされていない場合も

 「労働は、商品ではない」の意味については、ISO26000(組織に関する社会的責任規格)に記載されている「つまり、労働者を生産の要素としたり、商品に適用する場合と同様の市場原理の影響下にあるものとして扱ったりすべきでないということである」という解釈が一般的であろうと思います。
 しかしながら、いくら「労働は、商品ではない」と頑張ってみても、現実には、「労働力」が金銭でやりとりされているのは事実です。そして、その「労働力」は、商品ほどには大事にされていない場合が少なくないように思われます。
 企業は、労働力の持ち主である従業員に対して指揮命令の権限があるわけですが、あたかも従業員の労働力以外の部分も含めた全人格に対し指揮命令権限を持っているような錯覚が生じた場合、それが原因になるのではないかと思います。
 「生産の要素」の例としては、たとえば大枚叩いて購入した工作機械に必要なメンテナンスをしなかったり、傷つけたりする経営者がいるでしょうか。いわゆるブラック企業では、従業員に対し持続不可能な働き方を強いたり、精神面で追い詰めていったりするところもあるようです。機械に必要量のエネルギーを与えなければ、動くことはありませんが、人間ならば必要量の生計費を与えなくても、自分で節約して耐えてしまうという特性もあります。
 労働が「商品(コモディティー)」とは違うという特性が、かえって労働者にとって、悪い方向に作用してしまっている現実があります。従って、そうした認識に立って、労働市場における、商品市場とは異なる市場経済原理を確立していかなければなりません。精神論でお題目をとなえていても、問題は解決しません。

滋賀県野洲市の取り組み

 本稿を執筆している際、ある子殺しの判決の報道がありました。生活に困窮して家賃を滞納し、県営住宅から退去させられる当日、母親が中学2年生の一人娘を殺害したというものです。離婚した夫の借金返済のために消費者金融から借金をしていたのに加え、中学の制服などの購入のため、ヤミ金からも借金をし、家賃を払えなくなったが、市のパート職員であったために、掛け持ちの仕事ができず、生活保護も受給できなかった、という何ともいたたまれない事件です。
 新聞報道によれば、母親は生活保護の相談で銚子市役所を訪れていたということですが、市としては、「制度の説明を聞きに来ただけ」と受けとめていたようです。興味や勉強で「制度の説明を聞きに来た」のか、必要に迫られて来たのかは、一目瞭然なので、この時点で、相談を受けた担当者が、生活保護の要件を満たしていなくとも、借入金の整理についで情報提供をしたり、利用できる公共サービスを紹介したりできていれば、悲劇は避けられたのではないでしょうか。
 本年4月から、「生活困窮者自立支援法」がスタートしましたが、滋賀県野洲市は、市民生活相談課を中心とした生活困窮者自立相談、自立支援の先進事例として有名な自治体です。
 野洲市役所では、市民生活相談課は、正面玄関から15歩のところにあります。市とは別組織である社会福祉協議会が市役所の1階に入っており、ハローワークの職員も常駐しています。
 いわゆる「縦割り行政」が「お役所仕事」の典型として批判されることが多いですが、野洲市の場合には、市民生活相談課はあくまで核となっているにすぎません。
 生活保護の相談があったような場合、野洲市では、単に生活保護が受けられるかどうかに答えるのではなく、税金や社会保険料、光熱水道費、給食費などの支払い状況、仕事の状況、健康状態、子どもは不登校になっていないか、などを本人が何も言わなくとも調べ上げ、関係する各課で情報を共有化し、生活再建のためのプランを作成していきます。先の事例で行けば、相談者の生活困窮の原因は、まずは借金と賃金の低さにあったわけですから、市役所に弁護士や司法書士が呼ばれ、債務整理が行われたことだろうと思います。ハローワークは国の組織ですが、ハローワークの職員もやってきて、もっと収入の多い仕事を紹介するということがあったかもしれません。
 このほか、家賃額を給付する住宅確保給付金、健康保険資格証明書の人のための短期健康保険証の発行、国民健康保険税の減免・免除、給食費や学用品などを支給する就学援助制度、社会福祉協議会による生活費の貸付(月20万円)といった利用可能なさまざまな支援措置が、担当の職員から提案されたと思います。食物にも困っている、という場合には、缶詰などの緊急食料も提供されたでしょう。
 仮に、長期にわたって失業している場合には、すぐに就職することが困難なことがあるので、社会福祉協議会を通じてボランティアなどに従事し、社会的な自立に向けた訓練を行います。就職の面接に来て行く服がなければ、スーツが貸し出されます。子どもたちの学業が遅れている場合には、社会人による学習支援も行われています。
 野洲市の取り組みは、費用をかけない、ということに特徴があります。緊急食料も学習支援も、ボランティアで行われています。生活保護やその他の公共サービスを支給すれば、もちろんその費用はかかるわけですが、支給すべき人には迅速に支給して、早く生活再建を果たしたほうが、本人にとってよいのはもちろん、やがて税金や社会保険料を支払う側に回るようになりますから、結果的に自治体の負担を圧縮することにもなります。野洲市の取り組みは、「おせっかい」がキーワードとなっています。個人情報の問題を心配する人がいるかもしれませんが、相談者に対しては、きちんと了解をとっているので、問題ありません。「生活困窮者自立支援法」をきっかけとして、全国の自治体がこうした姿勢を整えていくことが強く望まれます。そしてそのことが、自治体と住民との信頼関係にもつながっていくのではないでしょうか。

格差の問題

 格差の問題が、注目を集めています。格差と言えば男女間や正社員と非正規労働者の賃金格差、大手企業と中小企業の格差、地域間格差、官民格差、教育格差などといった言葉が思い浮かびます。これらのひとつ一つがきわめて重要な論点であることは言うまでもありませんが、根本的には、頑張った人が報われる社会か、裕福な家庭の子孫が裕福であり続ける社会か、ということに行きつくのではないかと思います。
 『21世紀の資本』の著者ピケティは違うようですが、欧州の知識人の本には、階層や格差を固定化させる政策を主張するものがよくあります。サッチャー首相が知識人に不人気なのも、庶民からのし上がった下克上の人であり、下克上を可能にする政策を推進したからです。規制緩和というと、日本では企業のやりたい放題というイメージでとらえている人が少なくありませんが、その本質は、参入規制や価格規制を撤廃して、既得権を打破するということなのです。
 日本では、階層が流動的な社会が望ましいというコンセンサスがあるものと思っていましたが、最近はそうも言い切れない気がします。
 旧・日経連が1995年に提唱した「雇用のポートフォリオ」は、一部の幹部社員のみが正社員で、一般職、技能職は非正規という考え方ですが、最近の労働者派遣法の見直しや、限定正社員に関する議論などを見ていると、階層固定化の動きが本格化しているように思われます。
 日本では従来、「職務給」の考え方は受け入れられていませんでした。どのような肩書き、立場であろうと、みんなで協力し、知恵を出し合い、工夫し合い、チームで成果をあげていく仕事のやり方にとって、職務給はなじまないからです。
 同志社大学の石田光男教授は、
*多様な仕事に対応しにくい。
*生産性向上にとってマイナスである。
として職務給は批判されてきたが、それでも欧米で職務給が採用されているのは、「黙って静かに決められた仕事を行う」という「職場秩序」が優先されているからだと指摘しています。現場の従業員がカイゼン提案を行ったりするのは言語道断、生産プロセスの改善はエリートの仕事であり、現場の従業員は黙々と指示に従っていればよい、職務給はそうした階級的秩序の発想に立ったシステムです。日本においても、職務給的な考え方が広まってきていますが、慎重な検討が必要です。
 大学を一部のエリート校と専門職業大学に分けるという発想も、同様でしょう。本人の能力ではなく、国の線引きによって、非エリート校出身者の活躍の場が制限されてしまうので、どの大学に入ったかがこれまで以上に重要となります。教育費をはじめとする高校までの教育環境の差が、生涯収入の決定的な要因となりかねません。
 こうした風潮は、精神論で解決できる問題ではありません。いくら経営者の倫理観の喪失や拝金主義を嘆いても、歯車を逆回転させることはできません。
 富裕層に対する課税強化も、二次的な政策です。一部の人が巨額の収入を稼ぎ、政府がそれを徴収して再配分するというのは、きわめて不健全な経済構造だからです。セーフティーネットや所得再配分が重要なのは当然ですが、最も望ましいのは、セーフティーネットや所得再配分の必要ない社会ではないでしょうか。20年にわたるデフレが、格差を拡大させてきたことは明らかです。デフレというのは、供給が需要を上回る世界ですから、労働力の過剰な状態が続くことにより、付加価値の減少以上に、勤労者への配分が減少するからです。
 格差縮小のための本質的な解決策は、本欄で何度も指摘していますが、労働組合の組織化と労働法制の強化による労使対等性の確保、そして適切な金融政策を通じて、早期にデフレを脱却し、継続的に需要が供給を上回る人手不足経済を構築することにより、勤労者への配分の拡大を促す以外にはありません。
(なお本稿の野洲市の事例については、2015年5月27日開催の金属労協2015年度政策セミナーにおける生水裕美・野洲市市民生活相談課課長補佐のご講演を参考に作成していますが、記載内容の責任は筆者にあります)

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