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(浅井茂利著作集)「新しい資本主義」と企業のはざまで揺れる経団連「経労委報告」(2022年春闘に関するものです。ご注意ください)

株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1671(2022年2月25日)掲載
金属労協主査 浅井茂利

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 2022年春闘に対する経営側の方針を示した経団連の『2022年版経営労働政策特別委員会報告』が発表されました。
 岸田内閣の「新しい資本主義」「成長と分配の好循環」という方針を受けて、「新しい資本主義の起動にふさわしい賃金引上げが望まれる」としつつも、会員各社の声を反映して、
*企業労使で自社の置かれている状況を共有した上で、一律ではなく、個々の企業に適した対応を検討することが現実的である。
*月例賃金だけではなく、諸手当や賞与・一時金など様々な選択肢の中から、自社に適した賃金引上げに向けて、企業労使で知恵を出し合うことが建設的な労使交渉。
などという従来と同様の姿勢から抜け出せずにいます。ポストコロナを見据え、わが国経済の持続的な成長と産業の健全な発展を促すためには、マクロの必要性の観点に立った賃上げに向け、経団連がリーダーシップを発揮すべきだと思います。

経労委報告は賃上げに積極的な姿勢を見せているが

 経労委報告では、
*労使による真摯な交渉・協議の結果、多くの企業で賃金引上げのモメンタムが維持され、「サステイナブルな資本主義」と「成長と分配の好循環」実現に向けた着実な一歩となることを切に願っている。
*大切なステークホルダーである「働き手」との価値協創によって生み出された収益・成果の適切な分配により、賃金引上げのモメンタムを維持していくことが重要である。このことが、「サステイナブルな資本主義」の実現に寄与し、わが国経済の持続的発展につながる。こうした考え方は、岸田総理が目指す「新しい資本主義」と軌を一にするものである。
などとして、賃上げに積極的な姿勢を見せています。しかしながら一方で、従来同様、
*企業労使で自社の置かれている状況を共有した上で、一律ではなく、個々の企業に適した対応を検討することが現実的である。
*業種横並びや一律的な賃金引上げの検討ではなく、各企業が自社の実情に適した賃金決定を行うとの「賃金決定の大原則」に則った検討が重要となる。
として、結局は企業まかせの姿勢を取り続けています。企業まかせなのであれば、わざわざ『経営労働政策特別委員会報告』など作成する必要はありません。
 そもそも経労委報告では、「社内外の考慮要素(経済・景気・物価の動向などの外的要素と、自社の業績や労務構成の変化などの内的要素)を総合的に勘案しながら、適切な総額人件費管理の下、自社の支払能力を踏まえ、労使協議を経た上で各企業が賃金を決定する」ことを「賃金決定の大原則」などと称していますが、政労使で確認してきた「生産性運動三原則」、そのなかでも「成果の公正な分配」すなわち、「生産性向上の諸成果は、経営者、労働者および消費者に、国民経済の実情に応じて公正に分配されるものとする」こそが「賃金決定の大原則」です。
 「経済・景気・物価の動向などの外的要素」すなわちマクロ経済の動向と、「自社の業績や労務構成の変化などの内的要素」すなわちミクロの状況は、同列で「総合的に勘案」すべきものではありません。賃金水準やその引き上げ額は、わが国全体の経済力、生産性向上などのマクロ経済を反映して形成される「社会的相場」の範囲の中で、産業動向や労働力需給、企業業績などの諸要素を加味して決定していくというのが基本です。
 市場経済原理の下では、価格は「市場で決まっている価格」に縛られ、それとあまりかけ離れた価格をつけることはできません。このことは、労働市場における労働力の売買でも同じことです。経団連が「自社の実情」「自社の支払能力」を強調するのは、市場経済原理に反するものと言わざるを得ません。もし、商品は(ある程度の幅を持って)一物一価の法則が適用されるけれども、労働力はそうではない、というのであれば、「労働は、商品(コモディティ)ではない」と言われることの悪用ではないでしょうか。

賃上げと一時金では消費拡大効果がまるで異なる

 経労委報告は賃上げに積極的な姿勢を見せつつも、「月例賃金だけではなく、諸手当や賞与・一時金など様々な選択肢の中から、自社に適した賃金引上げに向けて、企業労使で知恵を出し合うことが建設的な労使交渉といえよう」として、ベースアップ以外の処遇改善に誘導しようとしています。
 しかしながら、たとえば基本賃金と一時金では、消費拡大効果がまるで違います。『平成27年版労働経済白書』によれば、
*所定内給与が1%増加した場合は、個人消費を0.59%増加させる影響がある。
*所定外給与が1%増加した場合は0.09%増、特別給与が1%増加した場合は0.13%増の影響しかない。
と指摘しています。
 2021年12月号の本欄で触れているように、消費の拡大にとって必要なのは、
*所得、とりわけ恒常所得の増加(恒常所得理論)
*生涯所得に対する見通しの向上(ライフサイクル・モデル)
ですから当然です。
 ただし、2014年以降、賃上げが行われてきているにも関わらず、個人消費は拡大していません。これは、
*実質賃金が伸びていない。
*賃上げが全体に及んでいない。とりわけ、消費性向の高い、中小企業の従業員に対する賃上げが行われにくい傾向がある。
*教育費などの生計費負担が重く、そのため消費性向の高い中高年については、所定内賃金の水準がむしろ低下している。
*収入に占める定期収入の割合が低下している。
ことによるものと思われます。
 個人消費不振の理由として、よく老後の将来不安、社会保障不安が挙げられますが、内閣府「国民生活に関する世論調査」や日本銀行「家計の金融行動に関する世論調査」を見れば、若年層における「不安」の中で最も大きなものは、中高年になった時の収入や資産についてであり、「金融資産の保有目的」も、「こどもの教育資金」であることがわかります。中高年層における所定内賃金水準の低下が、若年層における消費抑制を招いていることは明らかです。
 なお、経労委報告ではかねてより、
*所定内給与の引上げによる所定外給与や賞与・一時金、退職金、社会保険料など他の費用項目への波及のほか、定年後再雇用社員の増加、正社員と有期雇用社員間の均等・均衡待遇への対応など、様々な要因によって総額人件費が増大することに留意が必要である。
*所定内給与を100とした場合、総額人件費は164.2に上る。
などと主張していますが、
*所定内給与に対する総額人件費の比率が高いのは、一時金と所定外賃金の比率が高いためである。
*定年後再雇用社員を人件費がかかるだけの「お荷物」とみなしている。
*均等・均衡待遇への対応は、当然できているべきだったことを、これまで先延ばしにしてきただけである。
と言えるのではないでしょうか。

「成長と分配の好循環」の問題

 経労委報告では、岸田内閣の「新しい資本主義」について、「経団連の『サステイナブルな資本主義』と軌を一にするもの」としています。しかしながら、「成長と分配の好循環」に関しては、
*「成長」にまずは全力で取り組むことが社会的責務と認識している。
*事業活動を通じた「分配」の原資となる付加価値の最大化にまず注力した上で、「成長と分配の好循環」に寄与していく。
と主張しています。付加価値を働く者に配分していくこと自体については、経団連も否定していたわけではないのですから、これでは従来と何も変わりません。
 長期的にわが国の労働分配率が低下傾向をたどってきたことについては、経労委報告でも認めています。労働分配率が低下するというのは、成長に見合った分配が行われていないということであり、そのためにわが国では個人消費が拡大せず、ひいては低成長が続いてきたわけですから、行うべきは、まず「分配」です。「鶏が先か、卵が先か」とよく言いますが、そこに鶏がいるのなら、次は卵だし、卵があるのであれば、それを温めてひなを孵す、ということだと思います。労働分配率の低下傾向の中では、まずは「分配」です。
 ちなみに、マクロベースの労働分配率は2016年度以降、上昇傾向となっています。賃上げの推進は安倍内閣でも行われ、労働組合は2014年から毎年、賃上げに取り組んでいます。雰囲気が変わってきたのは事実だと思いますが、主要先進国において、生産性と人件費の水準、そして労働分配率を比較してみると、よく言われるように、日本の生産性が低いのは事実ですが、人件費がそれ以上に低いため、労働分配率も際立って低い状況にあります。こうしたことからしても、「分配による成長」を図っていくべきだと思います。

エンゲージメントとジョブ型雇用について

 経労委報告では昨年と同様、「働き手のエンゲージメントの向上によりアウトプット(付加価値)の最大化を目指す」ことを強調しています。
経労委報告では、エンゲージメントのことを「働き手にとって組織目標の達成と自らの成長の方向性が一致し、『働きがい』や『働きやすさ』を感じられる職場環境の中で、組織や仕事に主体的に貢献する意欲や姿勢を表す概念」と説明していますが、これを高めるための「自社型雇用システム」として、「ジョブ型雇用」を推奨しているのは、きわめて疑問と言わざるを得ません。
 「ジョブ型雇用」の定義については、「経労委報告」では、「特定の仕事・職務、役割・ポストに対して人材を割り当てて処遇する制度のこと」と定義しています。口にする人によって定義が異なるので注意が必要で、経労委報告でも、2021年版ほど詳しい説明はしていません。だいたいのコンセンサスとしては、
*職務調査を行って職務記述書を作成し、
*それに人材を割り当てて、
*職務給制度を適用する。
ということだろうと思います。
 2021年4月号の本欄で紹介しているように、ビジネスパーソン向けの経営学の専門誌として最も権威のあるハーバード・ビジネス・レビューの2019年11月号に掲載されたM.バッキンガム、A.グッドールの論文 “THE POWER OF HIDDEN TEAMS” では、19カ国、1万9千人以上を対象にしたADPリサーチ・インスティテュートの調査結果(2019年)に基づき、
*エンゲージメントと生産性において個人差が生じる最も強力な要素は、回答者が「業務の大部分をチームで行っている」と回答したかどうかだった。職場での生の体験、つまりは一緒に仕事をする同僚と、同僚とのやり取りが何物にも勝る力を持っていた。
*チームでは、自分の担当職務が誰かの担当職務に関わり、メンバー同士で補っている。
*素晴らしいチームとチームワークは歓迎すべき条件ではなく、欠かせない条件である。
*チームとは、組織図上に記載されている指揮命令系統では説明できないものである。
*スラックやJira、Webex Teamsなどを通じて、実際の職場で機動的かつ偶発的、短期的に動く非公式で流動的なチームの実態がわかりつつある。組織が従業員エンゲージメントや業績に対処するためには、チームから生じるデータをリアルタイムでただ分析すればいいだけだ。報酬や昇進、役職などといった外的なインセンティブを軸にして職務を設計することも、少なくなるだろう。
と指摘しています。職務を厳密に設定して、それに人材を割り当てる職務給では、エンゲージメントを高めることができないのは、明らかだと思います。
 なお経労委報告では、エンゲージメントを高める施策として、「柔軟な働き方」なども掲げていますが、一方で、「柔軟な働き方ができることに対し、労働者は賃金に換算して10~20%の金額と同程度の価値を見出しているとの指摘がある」などと主張しています。「柔軟な働き方」の導入・拡大によって賃上げをしなくてよい、というような姿勢を見せるのであれば、「柔軟な働き方」でエンゲージメントを高めることなど到底不可能です。

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