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2023年春闘を振り返る

2023年8月29日
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利

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 2023年春闘は、満額以上の回答が少なくないという異例の展開となりましたが、一方で、物価上昇をカバーする賃上げ回答は、一部に止まりました。今後、継続的な物価上昇が想定される中で、マクロの生産性向上と物価上昇とを反映した「根拠のあるベースアップ」を行っていくことが不可欠となっています。 

物価上昇をカバーできなかった2023年春闘

 2023年7月5日に公表された連合の回答集計(最終)によれば、平均賃金方式での賃上げ分(定昇相当除く)の加重平均は5,983円(2.12%)となりました。前年(2022年)の集計を4,119円、1.49%ポイント上回ったことになりますが、過年度(2022年度)消費者物価上昇率3.2%には及ばず、実質賃金を維持することができませんでした。

 連合の共闘連絡会議「回答速報」で紹介されている大手組合の回答状況(5月10日)について、一般社団法人成果配分調査会が独自に分類したところ、346組合中300組合が回答を引き出しており、うち満額もしくはそれを超える回答が121組合(40.3%)という異例の展開となっているものの、賃上げ分が9,000円もしくは3%以上の回答は、64組合(21.3%)に止まっています。

 こうした賃上げ結果について、連合の「2023春季生活闘争まとめ~評価と課題~」では、「2022年度の消費者物価(総合)は3.2%と、要求検討時点の見通しより上振れした」と指摘し、「連合最終集計における賃上げ分は2.12%となった」として、「賃上げ分」が消費者物価上昇率を下回ったことを明らかにするとともに、厚生労働省「毎月勤労統計調査」のデータから、「足元の物価上昇は賃金の伸びを上回っており、物価を加味した実質賃金はマイナスとなっている。次年度以降も賃上げを継続することで中期的に実質賃金を向上させていく必要がある」と整理しています。

なぜベースアップで物価上昇をカバーしなくてはならないのか

 労働組合だけでなく、経営側も含めた「労使」の最大の責務は、従業員の雇用と生活の防衛です。物価上昇をカバーするベースアップを実施せず、従業員に生活水準の低下を強いることができるのは、企業の存続が具体的な危機に瀕している場合だけのはずです。減益になってしまうから、とか、単年度で赤字になってしまうから、というのは、物価上昇をカバーするベースアップを行わない理由とはなりません。

 定期昇給を含めた賃上げでは物価上昇をカバーできている、という場合もあるとは思いますが、定期昇給や、定期昇給相当分(賃金構造維持分、賃金カーブ維持分)は、
*職務遂行能力の向上を賃金に反映させる習熟昇給
であるとともに、
*従業員の年齢の上昇に伴う、教育費など生計費の増加を賄うもの
です。従って、たとえば現行で30歳30万円、31歳30万6,000円の賃金水準だとすると、それがその企業として従業員に提供する、
*30歳、31歳それぞれの職務遂行能力に見合った、
かつ、
*30歳、31歳それぞれに必要な生計費を踏まえた、
購買力ということになります。

 30歳の従業員が31歳になった時に、3%の物価上昇があると、31歳の賃金は31万5,180円(30万6,000円×1.03)ないと購買力が目減りしてしまいます。従って、30歳→31歳の定期昇給6,000円に加え、9,180円のベースアップが必要となります。

 もし仮に、定期昇給とベースアップを合わせて3%の賃金上昇に止まるとすると、30万9,000円(30万円×1.03)にしかなりません。31歳として必要な31万5,180円に対し、6,180円不足することになり、その分、生活水準が低下することになるわけです。

 2023年春闘では、そんなに多くはありませんでしたが、物価上昇への対応として、ベースアップではなく、インフレ手当を一時金、もしくは月額手当として支給した企業もありました。

 しかしながら、一時金はまさにとりあえずの一時的なもの、ということになりますし、月額手当の場合も、期間限定を想定している場合が多いのではないかと推測されます。

 今回の物価上昇の特徴は、コロナ禍に端を発した素材・部品の供給制約、ロシアのウクライナ侵攻に伴う資源価格の高騰という、コスト要因によるもの、すなわちコストプッシュインフレです。コストプッシュインフレの場合、コストプッシュ要因が収束すれば、物価は下落し、物価水準が元に戻るのではないか、と考えがちです。

 もし、そのとおり、物価水準が一時的に上昇したものの、短期間で下落し、元の物価水準に戻った場合には、臨時のインフレ手当で対応が可能です。しかしながら、物価上昇が仮に2022年度の1年間だけで、そのあとは物価が上昇しなかったという場合でも、物価が元の水準に下落しない限りは、永久にインフレ手当を支払い続ける必要があります。2022年度の物価上昇に対応するための手当を永久に支払い続けるのが合理的でないことは明らかです。

 さらに、1年間だけではなく継続的に物価が上昇していく場合には、賃金の目減り分がどんどん累積していくので、インフレ手当を膨らませなくてはならず、現実的ではありません。

 たとえば基本賃金30万円、3%の物価上昇が5年間続いた場合には、5年後のインフレ手当は、月額約48,000円にする必要があり、インフレ手当の割合が大きすぎて、賃金体系が歪んだものになっていまいます。

 2023年春闘において、インフレ手当で対応した企業は、これを早急に基本賃金に組み込んでいかなくてはなりません。

経団連が物価上昇のカバーに積極姿勢

 一般社団法人成果配分調査会が3月1日に発表した「2023年春闘の論点」レポートでも指摘しているように、2023年春闘は労使対立というよりも、連合、経団連をはじめとする「大転換」を強く意識し、これに対応した労使と、デフレマインドから抜け出せていない従来型の発想とのせめぎあいであったと言えます。

 経団連は2023年1月、2023年春闘に対する経営側の方針として、『経営労働政策特別委員会報告』を発表しましたが、この『経労委報告』では、「長く続いたデフレと低成長にピリオドを打つ絶好のチャンス」、「大きな転換点」、「賃金と物価の好循環」などの観点から、「社会性の視座」に立ち、「企業の社会的な責務」として、「物価動向を重視した賃金引上げ」を強く企業に求めました。

 実は『経労委報告』では、連合の5%(定昇相当分を含む)の賃上げ要求方針に対し、やや批判的な記述もあったのですが、十倉経団連会長は定例記者会見においてこれを修正し、2月6日には、
*(『経労委報告』には)賃金引上げの目標値こそ明記していないが、賃金引上げを企業の社会的責務とまで位置づけ、その実現を力強く訴えている。連合が、今年の春季労使交渉の運動目標として5%の賃上げ指標を掲げたことは理解できるが、日本の企業数・従業員数の大部分を中小企業が占めているうえ、業績が業種・業界・個社により様々でもあることから、経団連が一律の数値目標を掲げるのは適切ではない。
と発言し、『経労委報告』における連合の要求方針批判の部分を事実上、修正しました。

 経団連として一律の数値目標を掲げるのは適切ではないとしつつも、連合の5%(定昇相当分を含む)の賃上げ要求方針を支持したことは、きわめて注目すべき発言であり、「経団連が一律の数値目標を掲げることはできないが、仮に掲げるとすれば5%である」と読み取ることができます。

 また、十倉会長は同じく2月6日の定例記者会見において、
*今年は、近年ベアを行っていなかった企業が実施を表明したり、大幅な賃金引上げを宣言したりする企業が出るなど、嬉しい知らせが続いており、賃金引上げのモメンタムにこれまで以上の力強さを感じている。たとえ小さなことであっても、一つひとつの行いが大きなうねりとなって、大きな行動変容に至るという「バタフライ効果」という現象がある。このような連鎖反応が起きることを期待している。今年を大きな変化の起点の年としたい。
と発言、さらに、2月27日には、
*賃金引上げのモメンタム維持・強化に向けた心強い発表が相次いでいる。トヨタやホンダが労働組合の要求に満額回答したのは、できるだけ早く多くの層に賃金引上げのモメンタムを広げようという配慮があったからではないか。こうした動きの拡大を大いに期待したい。
と発言し、マスコミで相次いで報道されていた物価上昇率を上回る大幅なベースアップ実施、満額回答の動きを支持し、他の企業がこれに続くことに期待を表明しました。

 『経労委報告』では、
*近年に経験のない物価上昇を考慮した基本給の引上げにあたっては、制度昇給(定期昇給、賃金体系・カーブ維持分の昇給)に加え、ベースアップ(賃金水準自体の引上げ、賃金表の書き換え)の目的・役割を再確認しながら、前向きに検討することが望まれる。
という記載がありました。これは、「物価上昇を考慮」することが「ベースアップの目的・役割」のひとつである、という趣旨と理解できますが、一方で、「制度昇給+ベースアップ」で物価上昇率をカバーすればよい、との誤解を招く危険性がありました。

 しかしながら十倉会長は2月17日、東海地域経済懇談会後の共同記者会見において、
*今年は物価動向を特に重視し、できればベースアップ(ベア)、ベアが難しい企業はその他の手段による賃金引上げを強く呼びかけている。
と発言し、改めて「物価動向を特に重視」した賃金引上げは、「ベースアップ」で行うことが基本であることを訴えました。

 こうした経団連の姿勢が、デフレ時代に形成された「賃金は、自社の支払い能力を第一に、企業ごとに独自に決めるもの」という思い込みを変化させ、賃金の社会性、社会的相場形成の重要性に改めて企業労使の目を向けさせることになり、全体として物価上昇をカバーするまでには至らずとも、4割以上で満額以上の回答という成果につながったことは明らかだと思います。 

労働組合の要求が低すぎたのか

 これに対して労働組合の側では、そもそも物価上昇をカバーするベースアップ要求のできなかった組合が少なくありませんでした。物価だけがベースアップの根拠でないことは当然ですが、物価は最重要の根拠であるとともに、少なくともマクロでは、経済情勢、企業業績、雇用動向のどれをとっても、物価上昇率よりも低いベースアップを正当化する材料はなかったと思います。雇用と生活の防衛が労働組合の最大の責務であるにも関わらず、経営側に対し、物価上昇をベースアップ要求の根拠として主張することのできなかった組合も見られたようです。

 これには、
①労働組合が物価上昇下での闘争に慣れておらず、これまでと異なる要求内容、要求根拠を掲げることに躊躇があった。
②物価上昇を賃上げの要求根拠に掲げると、経営側から「物価が下落したら賃下げ」と言われてしまうので、物価上昇を賃上げ根拠としない、というデフレマインドから労働組合が脱し切れていなかった。
③連合や金属労協の闘争方針、産別の要求基準が固まったのち、物価上昇率がさらに高まった。

ということが背景にあると思います。

 ①については、
*経済情勢が様変わりとなったのだから、要求根拠も変わって当然。
*要求の基本的な考え方は変わっていない。これまでは物価上昇が小さかったので、要求根拠の中での比重が小さかっただけ。
というどちらかの理屈で経営側に理解を求めれば、反論は不可能だと思います。

 ②については、デフレを放置しないオーソドックスな金融政策が行われていれば、物価が下落することはないという認識を、労使で共有化する必要があります。たとえば、日本を除く主要先進国と韓国の計7か国について、最近50年間の物価上昇率を見ると、7か国×50年間の合計350年間で、マイナスになったのはわずか4年間にすぎません。まさに「百年に1度」の出来事です。

 2023年4月に黒田日銀総裁が退任し、植田新総裁に交代しましたが、植田総裁もデフレを放置しないオーソドックスな金融政策を踏襲していくものと見られます。今回のコストプッシュインフレが収束しても、物価は継続的に上昇していくという前提に立って、労使は春闘に臨んでいく必要があります。

 コロナ禍の再来のような非常時には、単年度で物価がマイナスになる可能性も皆無ではありません。しかしながら、そのような場合には、所定外賃金の減少や一時金の抑制で対応が可能です。非常時における物価下落のわずかな可能性を恐れて、ふだんのベースアップを遠慮していれば、働く者への配分が過少になることは避けられません。

 ③については、たとえば連合の闘争方針が事実上固まるのが、10月末から11月初めにかけてですから、単組が回答を引き出す3月中旬に対し4か月以上も前、ということになります。これでは、経済情勢が変化して経済情勢と闘争方針にずれが生じてくる可能性は高くならざるをえません。2023年春闘では、連合は、過年度(2022年度)の消費者物価上昇率を2.6%と想定していましたので、これならば、3%のベースアップで実質賃金の維持・向上を図ることができる計算となるわけですが、実際には3.2%となってしまいました。

 リーマンショック直後の2009年春闘でもそうでしたが、連合や金属労協は、たとえ11月、12月に闘争方針を機関決定していたとしても、経済が大きく変動している場合には、1月の産別の要求基準決定において柔軟な対応を促すような方針修正が行われてしかるべきだと思います。プラスの場合でも、マイナスの場合でも、経済情勢と乖離してしまった要求を掲げ続けることは、労働運動全体に対する社会の信頼を損ねることになりかねません。

賃金の社会性、賃金水準とベースアップにおける社会的相場形成の観点

 経団連では従来、
*社内外の様々な考慮要素を総合的に勘案し、
*総額人件費管理の下で、
*自社の支払い能力を踏まえ、
賃上げを決定するという「賃金決定の大原則」を唱えていました。長引くデフレの中で、経営側のみならず労働組合においても、「賃金は、自社の支払い能力を第一に、企業ごとに独自に決めるもの」という思い込みが形成され、かつ、「企業に支払い能力はないもの」という認識が刷り込まれてきたことは否定できないと思います。

 しかしながら、2023年の『経労委報告』では、「賃金決定の大原則」に関する記載こそあるものの、従来に比べ扱いが後退しており、また、
*賃金引上げのモメンタムを維持・強化し、賃金と物価が適切に上昇する「賃金と物価の好循環」へとつなげていかなければ、日本経済再生は一層厳しくなるとの危機感を強く抱いている。こうした「社会性の視座」に立ち、経団連は、今年の春季労使交渉を、デフレからの脱却と「人への投資」促進による構造的な賃金引上げを目指した企業行動への転換を実現する正念場かつ絶好の機会と位置付けている。
*「人への投資」をさらに促進し、イノベーション創出と労働生産性の向上などを通じて「構造的な賃金引上げ」と「分厚い中間層の形成」の実現に貢献していくことが、経済界・企業に対する社会的な期待であり、責務である。
*経団連は、様々な考慮要素のうち「物価動向」を特に重視しながら、企業の社会的な責務として、賃金引上げのモメンタムの維持・強化に向けた積極的な対応を様々な機会を捉えて呼びかけていく。
などといった記載が見られ、「社会性の視座」、「企業の社会的な責務」が強調されています。

 日本で働く勤労者には、
*日本経済の成長に相応しい生活水準の向上を享受する権利
*日本の経済力に相応しい生活を送る権利

があるはずです。政労使で合意している「生産性運動三原則」は、
*雇用の維持拡大
*労使の協力と協議
*成果の公正な分配
からなっていますが、このうち「成果の公正な分配」については、「生産性向上の諸成果は、経営者、労働者および消費者に、国民経済の実情に応じて公正に分配されるものとする」とされています。個別企業の支払い能力ではなく、国民経済すなわちマクロ経済の実情に応じた成果配分が求められているわけです。

 賃金水準は、労働市場における労働力の価格ということになりますが、労働力の価格も、「一物一価の法則」から逃れられません。本来、市場経済原理の下では、個別企業ごとの「支払い能力」は、賃金の決定要素にはならないはずです。実際、賃金水準やベースアップは、個別企業といえども、
*マクロ経済の状況に即して形成される賃金水準やベースアップの社会的な相場の幅の中で、
*産業の状況や個別企業の事情を一定程度反映して決定されていく、

というのが、現実の姿です。わが国で主流の職能給よりも、いわゆる「ジョブ型」でクローズアップされている職務給のほうが賃金水準の社会的な相場を形成しやすいということがあり、「脱職務主義」「職能給化」の進む米国では、賃金水準の社会的相場形成との両立が課題となっています。

 かつて、労使の賃上げ交渉に対し、マスコミが「百円玉の春闘」と揶揄していた時代がありました。百円玉何個かのベースアップしか取れないという意味ではなく、個別企業ごとに労使交渉を行っても、それによって変動する幅はせいぜい百円玉何個分かだけ、という意味です。しかしながら、国民経済=マクロ経済の実情を反映した成果配分を行おうとすれば、当然、個別企業ではそのような交渉になるわけで、まさに「百円玉の春闘」こそ、正しい賃金交渉だということになります。

 わが国の賃金水準が、先進国の中でも低位にあり、その経済力に相応しいものとなっていないことについては、労使共通認識になっているものと思われます。2023年が、賃上げが再開された2014年の次の「大転換」の春闘であったことは間違いありませんが、2024年以降の継続的な賃上げのためには、まさに「社会性の視座」に立ち、マクロ経済の観点に立った数値的な賃上げ根拠をまず確立し、その上で、産業労使・個別企業労使が産業・企業の状況をある程度反映させて賃金決定を行っていく、という手順を明確にしていく必要があります。

根拠のあるベースアップ

  経団連は『経労委報告』において、かつて宮田義二鉄鋼労連委員長(金属労協議長)が打ち出した「経済整合性論」を紹介し、これを高く評価しています。経済整合性論については、賃上げ抑制論との誤解がありますが、前年要求や前年実績を上回る賃上げ要求をしていた時代が終焉を迎え、「実質的に、しかも経済成長に見合って」賃上げを行っていく、すなわち、実質生産性の向上に見合って実質賃金を引き上げる時代となったことを宣言したものです。

 経済整合性論を数式で示すと、
   ベースアップ率
   =就業者1人あたり(または労働時間あたり)実質GDP成長率
    +消費者物価上昇率
ということになります。(逆生産性基準原理)

 これが実現すれば、働く者に対し、日本全体の生産性の向上に相応しい成果配分が行われ、ひいては、わが国全体の供給力に相応しい需要が創出されることになります。厚生労働省『平成27年版労働経済の分析』では、「逆生産性基準原理」について、「標準的な経済理論が想定する世界と等しいもの」と評価しており、またIGメタル(ドイツ金属労組)も同様の考え方で要求を行っています。

 経済整合性論(=逆生産性基準原理)を労働組合全体のベースアップ要求方針の基礎に据えていくとともに、もし可能であれば、連合と経団連とで、ベースアップの社会的な目安として合意していくということも、検討されるべきだと思います。

支払い能力論

 前述のように、個別企業ごとの賃金水準やベースアップといえども、
*マクロ経済の状況に即して形成される賃金水準やベースアップの社会的な相場の幅の中で、
*産業の状況や個別企業の事情を一定程度反映して決定されていく、
というのが現実の姿です。どうしても支払い能力のない企業は、まずは、
①取引先に適正な価格設定を求め、
②カイゼンを徹底し、
③間接材料費や間接経費におけるムダ金を排除する

必要があります。

 長引くデフレの中で、経営側のみならず労働組合においても、「賃金は、自社の支払い能力を第一に、企業ごとに独自に決めるもの」という思い込みが形成されてきましたが、そもそもは、マクロ経済の状況に即したベースアップの社会的な相場が「ゼロ」だから、そこから先は個別企業の支払い能力を反映して決定していく、ということだったのが、「支払い能力第一」に変質してしまったのだろうと思います。

 今回の物価上昇は原材料、資源価格の上昇がきっかけなので、それによる企業の負担増が重く、賃上げができないというような主張も見られました。たしかに、原材料や資源価格の上昇分を販売価格に転嫁できていない場合、企業の利益が圧迫されることは否定できません。しかしながら、だからといって、それを従業員に押し付けてよい、従業員の生活水準の低下によって利益を確保してよい、ということにはなりません。原材料や資源価格の上昇分について、取引先に適正な価格転嫁を求めていくことは、公正取引による産業の健全な発展という観点から不可欠と言えますが、労働力の再生産費用(生計費)の上昇についても、労働力の購入者である企業は、価格への転嫁(ベースアップ)を受け入れていく必要があります。

 むしろ、経営者が何としても従業員の生活を防衛する、物価上昇をカバーするベースアップを絶対行う、という強い気迫を持っていなければ、取引先から「人件費を削ってなんとかする会社」とみなされてしまい、取引先の価格引き上げ拒否を自ら招き寄せてしまう、ということも考えられます。

 ベースアップは「人への投資」である、と言われます。「人への投資」は、狭義では能力開発投資を指しますが、広義では人件費全体のことを意味します。人件費の引き上げによって従業員のモチベーションやエンゲージメントを高め、能力発揮や生産性向上を促すことが期待できますので、まさに人件費の引き上げは「人への投資」にほかなりません。注意しなくてはならないのは、ベースアップは「人への投資」だから物価は関係ない、と考えてしまうことです。物価上昇をカバーできないベースアップは、むしろ「人へのマイナスの投資」になってしまい、モチベーションやエンゲージメントの低下を招き、能力発揮や生産性向上を損ないかねないことに留意する必要があります。 

格差是正について

  賃金格差については、わが国では主に、
①主要先進国の中で、人件費が経済力に相応しい水準に達していない。日本の付加価値生産性は低いが、人件費がそれ以上に低いため、労働分配率が最低水準となっている。
②国内における規模間、産業間、企業間の賃金格差
③正社員と非正規雇用で働く者との賃金格差

という3つの問題があります。

 逆生産性基準原理の数式である
   ベースアップ率
   =就業者1人あたり(または労働時間あたり)実質GDP成長率
    +消費者物価上昇率
は、あくまで現行の成果配分が適正であることを前提としており、現行の配分が適正ではない場合には、これに格差是正分を加えていく必要があります。すなわち、
   ベースアップ率
   =就業者1人あたり(または労働時間あたり)実質GDP成長率
    +消費者物価上昇率+格差是正分

ということになります。

 ①については、「支払い能力がない」という甘えを許したことが、企業の弱体化を招いた可能性があります。製造業における売上高人件費比率を見ると、欧州諸国で15~20%程度となっているのに対し、日本は10%強の水準に止まっており、日本企業は、低賃金・低生産性を脱して、高賃金が高生産性を産み出す企業体質に転換していく必要があります。

 ②については、消費者物価の上昇に伴ってベースアップの額が大きくなれば、企業ごとの差が拡大して、賃金水準の格差拡大につながることは否定できません。中小企業を中心に、これまで以上に賃金水準重視の取り組みが重要となります。とりわけ留意しなくてはならないのは、中期的な賃金水準目標を掲げて計画的な賃金引き上げを図っていくとしても、賃金水準の社会的相場が毎年上昇していきますので、目標も毎年引き上げていかなくてはならない、ということです。

 ③に関しては、2023年度の法定の地域別最低賃金で、全国加重平均43円、4.5%と、ベースアップ率を大きく上回る引き上げが行われることになります。各企業では、人手不足に対応し、初任給の大幅引き上げが行われているものと思われますが、企業内最低賃金についても、「18歳初任給準拠」を基本として、必要な引き上げを行っていくことが不可欠です。

 産業ごとに設定する法定の「特定最低賃金」については、かつて経団連では、地域別最低賃金に屋上屋を架すものとして、その制度的な廃止を主張していました。近年は、地域別最低賃金の大幅な引き上げに伴い、特定最低賃金がこれに追いつけず地域別最低賃金の水準を下回ることによって無効となり、特定最低賃金の事実上の消滅を前提とした対応を示していました。しかしながら2023年度の『経労委報告』では、「現時点で本当に必要な(特定)最低賃金を関係者間で確認し、当該最低賃金は適正な水準で存続させる」とし、はじめて「存続」に踏み込んだ記載を行いました。関係労使においては、「適正な水準」の確保に努めるとともに、特定最低賃金の消滅を前提に、無効な水準のまま据え置かれている特定最低賃金についても、こうした情勢の変化を受けて、「適正な水準」で復活させる必要があります。

ベースアップの配分と賃金カーブ是正

  一部のマスコミなどでは、「ベースアップは全員一律」という思い込みがあるように見受けられます。あるいは、ベースアップに反対する人々が、「ベースアップは全員一律だから、そんな不合理なことはできない」というロジックを展開しているのかもしれません。

 一般的には、ベースアップは全員一律ではなく、労使で配分交渉が行われますが、ベースアップ原資が1人あたり500円とか1,000円といった金額であれば、配分交渉の余地が少ないので全員一律ということもあります。また、物価上昇をカバーする分については、定率にすべきであると言えます。

 近年は、人手不足を背景に初任給の大幅引き上げが行われていますので、これに合わせて若年層の賃金を引き上げていかないと、先輩の賃金が初任給を下回ることになってしまいます。初任給引き上げの原資はもとより、こうした若年層のカーブ是正の原資についても、当然、ベースアップとは別枠でなくてはなりません。

 賃金カーブのもうひとつの問題は、中高年層の賃金水準に関してです。「わが社は成果主義賃金なので、賃金カーブなどというものは存在しない」という企業も多いと思いますが、従業員の生計費が年齢を経るに従って増加する構造となっている以上、そのような表面的で建前の議論は通用しません。

 わが国の賃金水準が1990年代後半以降低下し、国際的に見て低水準となってしまった要因のひとつとして、成果主義賃金制度の導入によって多くの中高年従業員に早い段階で賃金の天井が設けられ、ゼロ定昇、マイナス定昇が適用されて、それ以前の世代に比べ賃金水準が低下してしまった、ということがあります。

 職務給が機能しないことはわかり切っており、米国では「脱職務主義」「職能給化」が進んでいるというのに、昨今の「ジョブ型」議論において職務給が推奨されているのには、中高年の賃金水準を一層引き下げる意図があるものと思われます。しかしながら、人手不足の時代に、中高年の賃金をさらに引き下げて、社内で腐らせたり、社外へ追い出したりする余裕があるのか、大変疑問です。もし仮に、賃金水準に見合った活躍ができていないように見受けられる従業員が多くいるとすれば、それは従業員や賃金制度ではなく、活躍を促せていない企業のほうに問題があると考えるべきです。

 中高年の賃金水準引き下げは、若手従業員にとっても将来不安に直結し、モチベーションの低下と社外流出につながります。エンゲージメントとは、「企業や職場におけるチームでの活動に参画しているという意識と、仕事に対する熱意」のことですが、将来の仕事や収入、働き方に対する安心感を高めることによってこそ、人材の確保・定着を図り、エンゲージメントを高めることができるものと考えられます。

 人権デュー・ディリジェンス

  組合員の雇用と生活の防衛が労働組合の最大の責務ですが、もうひとつ、「人権の確保」を忘れてはなりません。金属労協は2023年春闘の闘争方針において、「人権デュー・ディリジェンスのプロセスへの労働組合の参画」を掲げていますが、すでに、人権デュー・ディリジェンスに関する労使専門委員会を立ち上げる方向となっている企業もあります。

 人権デュー・ディリジェンスは、企業が、
*ステークホルダーとの情報交換や協議を通じて、
*なかでも、取引先などバリューチェーン企業と相互に人権の状況を点検し合い、人権確保を要請し合うことを通じて、
*その活動における人権侵害を撲滅する仕組み
ですが、事業活動の担い手である従業員は、ステークホルダーの中でも特別な存在であり、人権デュー・ディリジェンスの実効性を確保するためには、労働組合の参画が不可欠です。社内の人権デュー・ディリジェンス委員会などに労働組合が参加したり、人権デュー・ディリジェンスに関わる労使専門委員会を設置したりする取り組みを広く拡大させていく必要があります。

以 上

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