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定昇込み3.7%では実質賃金は維持できない(2023年発表のものです。ご注意ください)

株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1687(2023年6月25日)掲載
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利

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 2023年春闘は、満額以上の回答が少なくないという異例の展開となりましたが、一方で、物価上昇分をカバーする賃上げ回答は一部に止まりました。今後、継続的な物価上昇が想定される中で、物価上昇とマクロの生産性向上を反映した「根拠のある賃上げ」を行っていくことが不可欠となっています。 

物価上昇分をカバーできなかった2023年春闘

 2023年5月18日、連合は「2023春季生活闘争中間まとめ~評価と課題~(案)」を発表しましたが、これによれば、5月8日時点の平均賃金方式の賃上げ(定昇相当分込み)回答の加重平均は、3,681組合で10,923円、3.67%となっています。
 こうした状況について、「中間まとめ(案)」では、「定昇込みの賃上げ率は2022年度の物価上昇分を上回った」と記述されています。しかしながら一方で、定昇相当分を除く「賃上げ分は2.14%となっている」ということですから、これでは2022年度における消費者物価上昇率(総合で3.2%)を、2023年春闘では取り戻すことができなかったことになります。
 個別組合ごとの回答を見ても、4月25日の連合「回答速報」掲載の293組合の回答について、一般社団法人成果配分調査会が独自に分類したところ、満額回答32.8%、満額を超える回答が8.5%となっており、4割以上で満額もしくはそれを超えるという異例の展開となっているものの、定昇相当分を除く賃上げ分が、ほぼ物価上昇分にあたる9千円もしくは3%以上の回答は、21.5%に止まっています。
 足元の消費者物価上昇率は、総合で3%台半ば(2023年4月前年同月比3.5%)、厚生労働省「毎月勤労統計」で実質賃金の算出に用いられる「持家の帰属家賃を除く総合」は4%程度(同4.1%)となっています。「毎月勤労統計」の一般労働者の所定内給与の増加率は、春闘のベースアップ率を反映したものとなりますから、統計上でも、実質賃金は当面マイナスが続くことになります。
 2023年度の消費者物価上昇率は2%前後の予測(政府は総合で1.7%、5月時点の民間調査機関平均は生鮮食品を除く総合で2.3%)となっていますので、当年度、すなわち2023年度ということで見れば、結果的に、ベースアップ率が物価上昇率をカバーしたということになる可能性はあります。しかしながらそのような評価をすれば、2022年度の物価上昇について、頬かむりをしていることになります。

なぜベースアップで物価上昇分をカバーしなくてはならないのか

 定期昇給や、定期昇給相当分(賃金構造維持分、賃金カーブ維持分)は、
*職務遂行能力の向上を賃金に反映させる習熟昇給
であるとともに、
*従業員の年齢の上昇に伴う、教育費など生計費の増加を賄うもの
です。従って、たとえば現行で30歳30万円、31歳30万6,000円の賃金水準だとすると、それがその会社として従業員に提供する、
*30歳、31歳それぞれの職務遂行能力に見合った、
かつ、
*30歳、31歳それぞれに必要な生計費を踏まえた、
購買力ということになります。
 30歳の従業員が31歳になった時に、3%の物価上昇があると、31歳の賃金は31万5,180円(30万6,000円×1.03)ないと購買力が目減りしてしまいます。従って、30歳→31歳の定期昇給6,000円に加え、9,180円のベースアップが必要となります。
 もし仮に、定期昇給とベースアップを合わせて3%の賃金上昇に止まるとすると、30万9,000円(30万円×1.03)にしかなりません。31歳として必要な31万5,180円に対し、6,180円不足することになり、その分、生活水準が低下することになるわけです。

経団連は物価上昇分カバーに積極姿勢を見せていたが

 一般社団法人成果配分調査会が3月1日に発表した「2023年春闘の論点」レポートでも指摘しているように、2023年春闘は労使対立というよりも、連合、経団連をはじめとする「大転換」を強く意識し、これに対応した労使と、デフレマインドから抜け出せていない従来型の発想とのせめぎあいであったと言えます。
 経団連は2023年1月、2023年春闘に対する経営側の方針として、『経営労働政策特別委員会報告』を発表しましたが、この『経労委報告』では、「長く続いたデフレと低成長にピリオドを打つ絶好のチャンス」、「大きな転換点」、「賃金と物価の好循環」などの観点から、「社会性の視座」に立ち、「企業の社会的な責務」として、「物価動向を重視した賃金引上げ」を強く企業に求めました。
 実は『経労委報告』では、連合の5%(定昇相当分を含む)の賃上げ要求方針に対し、やや批判的な記載もあったのですが、十倉経団連会長は定例記者会見においてこれを修正し、2月6日には、
*(『経労委報告』には)賃金引上げの目標値こそ明記していないが、賃金引上げを企業の社会的責務とまで位置づけ、その実現を力強く訴えている。連合が、今年の春季労使交渉の運動目標として5%の賃上げ指標を掲げたことは理解できるが、日本の企業数・従業員数の大部分を中小企業が占めているうえ、業績が業種・業界・個社により様々でもあることから、経団連が一律の数値目標を掲げるのは適切ではない。
と発言し、『経労委報告』における連合の要求方針批判の部分を事実上、修正しました。
 経団連として一律の数値目標を掲げるのは適切ではないとしつつも、連合の5%(定昇相当分を含む)の賃上げ要求方針を支持したことは、きわめて注目すべき発言であり、「経団連が一律の数値目標を掲げることはできないが、仮に掲げるとすれば5%である」と読み取ることができます。
 また、十倉会長は同じく2月6日の定例記者会見において、
*今年は、近年ベアを行っていなかった企業が実施を表明したり、大幅な賃金引上げを宣言したりする企業が出るなど、嬉しい知らせが続いており、賃金引上げのモメンタムにこれまで以上の力強さを感じている。たとえ小さなことであっても、一つひとつの行いが大きなうねりとなって、大きな行動変容に至るという「バタフライ効果」という現象がある。このような連鎖反応が起きることを期待している。今年を大きな変化の起点の年としたい。
と発言、さらに、2月27日には、
*賃金引上げのモメンタム維持・強化に向けた心強い発表が相次いでいる。トヨタやホンダが労働組合の要求に満額回答したのは、できるだけ早く多くの層に賃金引上げのモメンタムを広げようという配慮があったからではないか。こうした動きの拡大を大いに期待したい。
と発言し、マスコミで相次いで報道されていた物価上昇率を上回る大幅なベースアップ実施、満額回答の動きを支持し、他の企業がこれに続くことに期待を表明しました。
 『経労委報告』では、
*近年に経験のない物価上昇を考慮した基本給の引上げにあたっては、制度昇給(定期昇給、賃金体系・カーブ維持分の昇給)に加え、ベースアップ(賃金水準自体の引上げ、賃金表の書き換え)の目的・役割を再確認しながら、前向きに検討することが望まれる。
という記載がありました。これは、「物価上昇を考慮」することが「ベースアップの目的・役割」のひとつである、という趣旨と理解できますが、一方で、「制度昇給+ベースアップ」で物価上昇率をカバーすればよい、との誤解を招く危険性がありました。
 しかしながら十倉会長は2月17日、東海地域経済懇談会後の共同記者会見において、
*今年は物価動向を特に重視し、できればベースアップ(ベア)、ベアが難しい企業はその他の手段による賃金引上げを強く呼びかけている。
と発言し、改めて「物価動向を特に重視」した賃金引上げは、「ベースアップ」で行うことが基本であることを訴えました。
 こうした経団連の姿勢が、デフレ時代に形成された「賃金は、自社の支払い能力に応じて企業ごとに独自に決めるもの」という思い込みを変化させ、賃金の社会性、社会的賃金決定の重要性に改めて企業労使の目を向けさせることになり、全体として物価上昇分をカバーするまでには至らずとも、4割以上で満額以上の回答という成果につながったことは明らかだと思います。

労働組合の要求が低すぎたのか

 これに対して労働組合の側では、物価上昇分をカバーする賃上げ要求のできなかった組合が少なくありませんでした。生活防衛は雇用確保とともに労働組合の最大の責務のはずですが、物価を賃上げ根拠とすることに躊躇する姿勢も見られました。物価だけが賃上げ根拠でないことは当然ですが、経済情勢、企業業績、雇用動向のどれをとっても、物価上昇率よりも低い賃上げ要求の根拠となるものはなかったのではないかと思います。
 そもそも回答の5か月くらい前に連合方針が固まってしまい、消費者物価上昇率がその時点よりも上振れしたという事情はありますが、それだけではなく、物価上昇を賃上げの要求根拠に掲げると、経営側から「物価が下落したら賃下げ」と言われてしまうので、物価上昇を賃上げ根拠とすることに躊躇する、というまさにデフレマインドから労働組合が脱し切れていなかったことも原因にあると思います。
 しかしながら、日本を除く主要先進国と韓国の計7か国について、最近50年間の物価上昇率を見ると、7か国×50年間の合計350年間で、マイナスになったのはわずか4年間にすぎません。デフレを容認しないオーソドックスな金融政策が実施されていれば、物価が下落することはほぼありません。
 2023年4月に黒田日銀総裁が退任し、植田新総裁に交代しましたが、植田総裁もデフレを容認しないオーソドックスな金融政策を踏襲していくものと見られます。今回のコストプッシュインフレが収束しても、物価は継続的に上昇していくという前提に立って、労使は春闘に臨んでいく必要があります。

根拠のある賃上げを

 経団連では従来、
*社内外の様々な考慮要素を総合的に勘案し、
*総額人件費管理の下で、
*自社の支払い能力を踏まえ、
賃上げを決定するという「賃金決定の大原則」を唱えていました。個社においても、長引くデフレの中で、前述のように、「賃金は、自社の支払い能力に応じて企業ごとに独自に決めるもの」という思い込みが形成されてきたことは否定できないと思います。
 2023年の『経労委報告』でも、「賃金決定の大原則」に関する記載はありますが、従来に比べ扱いが後退し、「社会性の視座」、「企業の社会的な責務」が強調されています。
 わが国の賃金水準が、先進国の中でも低位にあり、その経済力に相応しいものとなっていないことについては、労使共通認識になっているものと思われます。2023年が、賃上げが再開された2014年の次の「大転換」の春闘であったことは間違いありませんが、2024年以降の継続的な賃上げのためには、まさに「社会性の視座」に立ち、マクロ経済の観点に立った数値的な賃上げ根拠をまず確立し、その上で、個別企業労使が産業・企業の状況をある程度反映させて賃金決定を行っていく、という手順を明確にしていく必要があります。
 経団連は『経労委報告』において、かつて宮田義二鉄鋼労連委員長(金属労協議長)が打ち出した「経済整合性論」を紹介し、これを高く評価しています。経済整合性論は、「実質的に、しかも経済成長に見合って」賃上げを行っていくという考え方で、数式で示すと、
ベースアップ率=消費者物価上昇率+就業者1人あたり(または労働時間あたり)実質GDP成長率
ということになります。
 これが実現すれば、働く者に対し、日本全体の生産性の向上に相応しい成果配分が行われ、ひいては、わが国全体の供給力に相応しい需要が創出されることになります。
 経済整合性論を労働組合全体の賃上げ要求方針の基礎に据えていくとともに、もし可能であれば、連合と経団連とで、社会的な賃上げの目安として合意していくということも、検討されるべきだと思います。

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