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(1)マスコミ報道と経済の見方

2023年4月5日
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利

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 このレポート「労使のための経済の見方」については、長期にわたって継続的にご利用いただけるよう、お知らせなしで随時、内容の補強・更新をして参ります。(訂正については、お知らせいたします)


労使で共通の基盤に立って、経済情勢の判断の擦り合わせを行う必要がある

*適正な成果配分のためには、当然のことながら、経済情勢・産業動向・企業業績をどう判断するか、労使で擦り合わせを行うことが不可欠です。労使の見解が完全に一致することはないと思いますが、建設的な交渉・協議を行っていくためには、「経済の見方」について、労使が共通の基盤に立っている必要があります。

マスコミ報道の情報は重要、しかし鵜呑みにすべきではない

*労使が経済情勢の判断を行う場合、最も参考にするのは、マスコミ報道や、マスコミによく登場するエコノミストの解説ではないでしょうか。こうした情報は大変有益で、仕事の流儀として、始業時間に仕事を始める際には、朝刊にはひととおり目を通し終わっている、というのが基本だと思います。(会社、上司の指示で行えば、もちろん労働時間になるわけですが)

*しかしながら、マスコミ報道や有名エコノミストの解説をそのまま信用してしまうのは、避けたほうが無難です。大手企業・大手労組に所属されている方々や産業別労働組合のみなさんは、自社や自分の組織のことがマスコミ報道で記事になった際、内容が不正確だった経験があるのではないかと思います。かつてはよく、労働組合から出禁(出入り禁止)になった記者とか、報道機関とかがありました。そうした場合、「マスコミの人は、労働問題のことはよくわかってないからね」と思う人が多いと思います。たしかに、報道機関で労働問題を「担当」する記者はいても、「専門」とする記者は少なくなっているようです。しかしながら、労働問題に限らず、みなさんがそれぞれよくご存じの分野について、「この記事はおかしいぞ」と感じる報道も少なくないのではないでしょうか。このレポートの作成中にも、坂本龍一氏が逝去されましたが、テレビでの紹介の仕方がおかしいとネットで指摘されています。筆者は、とりあえず、すべての分野の記事が、労働問題に関する記事と同じレベルで書かれている、と考えていたほうが無難だと思っています。

*記事の中でも、公式発表されていない事柄について、関係者に対する取材に基づいて執筆された予測記事は、いくら「裏取り」をしていたとしても、結果的には間違いだったということがあるのは、やむを得ないと思います。関係者が情報を流して世論の反応を見て修正する、とか、報道されてしまったので変更する、ということもあると思います。

*また、情報発信者によるプレスリリースやブリーフィングに基づいて、その内容を紹介する記事の場合には、プレスリリースやブリーフィングが客観性のある内容であるとは限らないので、情報を受けた記者に判断能力がなければ、結果的に間違った記事、世論をミスリードする記事になりかねません。

*さらに、新聞社が会社の方針や主張に沿って材料を集め、世論を誘導するために書かれた記事については、そのこと自体は、健全な民主主義において新聞社の不可欠な役割ではありますが、読者としては、あくまで新聞社の方針や主張を宣伝する記事であって、ほかの見方もある、ということをつねに意識している必要があります。大新聞に書いてあるから、事実、真実に違いない、と思い込んでしまうことは、絶対に避けなくてはなりません。

エコノミストからの情報との付き合い方

*労働組合の中央組織である連合も、その傘下である産業別労働組合も、経営者団体である経団連も、何らかの経済政策、産業政策を打ち出す際には、自分の組織でゼロから考えだすというよりは、色々な経済学者やエコノミストの見解を参考にしつつ、組み立てていくことが多いのではないでしょうか。経済学者やエコノミストは、いわば政策の「素材メーカー」であって、連合や産別、経団連は、それを仕入れてきて、わかりやすく嚙み砕き、具体的な政策のかたちにする、「政策のセットメーカー」ということになります。それが「最終消費者」である個人個人の支持を受けて、政府に取り入れてもらえれば、政策が実現した、ということになるわけです。連合や産別、経団連には、経済学者やエコノミストのさまざまな見解がある中で、最も適切と思われるものを見抜く眼力が求められるわけです。

*企業労使や個人個人も同様で、的外れな経済学者やエコノミストの見解を信用して行動すると、当然、期待していた効果が得られず、むしろ損失を被り、あとから出直しを余儀なくされ、同業他社よりも遅れをとってしまうということになります。

*経済学は、1776年にアダム・スミスが『国富論』を発表して以来、革命や世界大戦、ハイパーインフレや金融危機、大恐慌など、人類がさまざまな経験を重ねる中で組み立てられてきたものですから、オーソドックスな経済学が形成されています。それが100%正しい、と断言するつもりはありませんが、かなりの程度、役に立つものになっていると思います。たとえば2008年のリーマンショックが、1929年の大恐慌のように長期化しなかったのは、やはり大恐慌の経験を経て形成されたオーソドックスな経済学のおかげです。日本では、オーソドックスな経済学に基づいた対策がきわめて小規模だったので、リーマンショックの打撃は、震源地である欧米よりも大きくなってしまいました。(オーソドックスな経済学がどのようなものかについては、次号で取り上げる予定です)

経済学者やエコノミストの価値観の違いの問題

*オーソドックスな経済学が確立されているのに、経済学者やエコノミストにさまざまな見解があるのは、ふたつの理由があると思います。まず第一に、統制経済を是とするか、市場経済を是とするかという価値観の違いがある、ということです。日本では、1989年の米ソ冷戦の終結以前はマルクス経済学が主流で、現在のオーソドックスな経済学は「近代経済学」と呼ばれ、少なくともアカデミックな世界では、隅に追いやられていたといってよいと思います。米ソ冷戦終結後は世界経済全体の市場経済化が進みましたので、マルクス経済学者はかなり少なくなっていると思いますが、そのかわり、マルクス経済学者ではないけれども、統制経済に親和的で、大きな政府や規制強化を主張し、自由貿易に反対する人々は少なくありません。筆者には、どちらが正しいかを判断する能力などありませんが、少なくとも市場経済の中で、産業の健全な発展と国民生活の継続的な向上を果たしていこうとするならば、政府も、企業も、労働組合も、そして個人個人も、統制経済的な考え方ではなく、オーソドックスな経済学に基づいて、経済情勢を判断し、経済活動を行っていくほうがよいのではないかと思います。

*一方で、何でも自由にするのが、正しい市場経済だと考えている人たちがいます。これも統制経済的な考え方と同様に、オーソドックスな経済学とは異なるものである、と思います。市場経済が有効に機能するためには、市場経済に参加する者の対等性を確保する必要があり、そのためのルールや保障が不可欠です。たとえば、ある場所に「市(バザール)」が立つとします。もし、バザールの出店者のやりたい放題にしていたら、力のある出店者は、競争相手を客のいない隅のほうに追いやってしまうかもしれません。圧倒的に安い値付けで、競争相手が商売できなくなるようにするかもしれません。そんなことが行われれば、やがてバザールは、少数者が粗悪な商品を高価格で売りつける場に変貌してしまうことは避けられません。ジョン・マクミランの著書『市場を創る』には、「貧困を嫌悪している政治的に極左の人々は、貧困を固定化する政策を支持している。市場を尊重する自由放任主義の熱狂的な支持者たちは、市場の崩壊を引き起こすシステムを提唱している」という言葉があります。弱者のため、として行われている政策が、実はもっぱら強者のためになる政策であったり、市場経済原理の旗を押し立てて行われた政策が、実は市場への参加者の対等性を破壊しようとしているものであったりすることは、よくあることです。筆者は、「市場経済原理・主義」と「市場経済・原理主義」とはまったく違うものである、と考えています。

*労働市場では、市場参加者、とくに使用者と労働者の間で、
・労働者は、通常の業務において、使用者の指揮命令に従って勤務しているという立場の非対称性。
・従業員は解雇されれば、直ちに生計の維持が困難になるが、使用者は、通常の場合、ひとりの従業員が退職しても企業の存続が危うくなることはない、というリスクの非対称性。
・使用者は、すべての従業員の賃金を把握し、他社の賃金情報も容易に入手し得るのに対し、従業員は自分の賃金しか理解していないという情報の非対称性。
があります。従ってこれを補完し、労使対等性を確保するために、労働組合による団結権・交渉権・争議権が確保され、労働基準法などが設けられているわけです。解雇規制の緩和などが提案された場合、従業員個人への影響とともに、労使対等性を損なうことにならないかどうかも、よく検討する必要があります。

ビジネスとしての経済学の問題

*第二に、野心ある経済学者やエコノミストにとって、本が売れる、マスコミに頻繁に登場する、ということがきわめて重要だということがあります。「居並ぶ経済学者がうなずきあっていたら、あなたは多分、かえって目を離してしまうだろう」という言葉があるように、本を売る、マスコミに呼ばれるためには、オーソドックスな見方とは異なる見方を提供する必要があるわけです。

*たとえば、オーソドックスな政策が打ち出され、世論調査で賛成が6割、反対が3割、「わからない」が1割であったとします。そうすると、オーソドックスな主張をする経済学者で6割の支持者を分け合うよりも、オーソドックスではない主張を展開し、3割の支持者を総取りしたほうが、ビジネスとしては成功ということになります。また、経済学者の賛成が9割、反対が1割であった場合、新聞が政策に対する賛否両論を紙面に載せようとすれば、1対1という場合が多いですから、1割のほうに所属していれば、それだけ出番が多くなるわけです。

*異論といっても、あくまでオーソドックスな経済学に基づいて、見過ごされている視点を提供するのであれば、建設的な議論につながるのですが、
・現実とかけ離れた判断や、政策に実現性がない、あるいはマイナスの影響について考慮されていない。
・どんな状況下でも、どのような問題についても、同じような主張を繰り返している。
・一流の経済学者だが、専門外の分野については、的外れな主張をする。
・特定の組織、機関が打ち出した政策には、基本的にすべて反対する。特定の組織、機関が政策を転換すると、自分の主張も転換する。
こうした経済学者、エコノミストも見られるのではないかと思われます。

*「世界で一番読まれている経済学の教科書」と言われているグレゴリー・マンキューの『マンキュー経済学Ⅰミクロ編』(邦訳2000年版)では、「エセ経済学者たち」という小項目があり、「誰でも『エコノミスト』を自称して、経済の諸問題を簡単に解決する方法を発見したと主張できる。そうした流行は、政治家にしばしば受け入れられる。政治家は、困難で持続的な問題に対する簡単で新奇な解決法を、熱心に求め続けているからである。注目を浴びたり自己利益を図りたいためにおかしな理論を使う山師によって生み出される流行もある。また、自分の理論が正しいと信じている変人がつくり出す流行もある」と指摘しています。(なお、最新の邦訳2019年版では記載はありません)

*労働組合として、また経営者として経済情勢の判断や経済政策の是非を検討する場合には、あくまで「オーソドックスな経済学の観点から見て、どうか」ということを基準にすべきであると思います。

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