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【Jumpホラー小説大賞銅賞受賞作品】君の知らない連続殺人 後編

第五章


「……それで怪我を」

顔を顰めた柏木さんが、警察に言った方がいいんじゃないかと堅い声で言う。視線は先程からこちらの左腕に固定されて動かない。

味噌汁を被ったことで、左腕には軽い火傷を負った。今は念のため薬を塗り、包帯を巻いている。

柏木さんと会ったのはまりあの遺体が見つかった翌日のことだった。学校は休みになったが、塾に自習に行くと言えば母は特に追及しないので、そのまま家を出た。

これもいつもの通り事件の話から始める予定だったのだが、軽くではあるものの巻いていた包帯はどうしても目を引くらしく、まず初めにそのことについて訊ねられたのだ。

「騒ぎにしたくないので大丈夫です。そもそも、幼なじみの話を聞いているとわりと前からあったことのようなので……」

「いやでもそれ、立派な虐待だぞ」

「そうですか? 別に大した怪我じゃないですよ」

身体を確認したけれど、あざだらけであるとか、そういうことはない。

たしかにあの時の母は恐ろしかったが、特に、然るべきところに告げるつもりもなかった。

「いやでも、模試の自己採点が悪かっただけでそれか。ここで塾にも行かずに話してることがバレたらやばいんじゃないのか」

「まあ……それは……」

「ならもう会って話とかするのもやめた方がいい気がしてきたな、さすがに」

「それはそう、なんですけど」

 話したいことがあった。あの掲示板のことだ。

 ただ、話題は彼の従妹、胡桃さんのことだ。どう切り出したものか――。

「あ、の……柏木さんはわたしの母についてはご存知だったんですか? 例えば、こういう……激高しやすい人だったとかは」

「いや、教育熱心な人だってことは多少くるみから聞いてたけど、それ以上のことは。それに、本当にバレないのか? 僕は怖くなってきたぞ」

「大丈夫ですよ。参考書の進捗を尋ねられるので、ちゃんと進めていますし、多少の偽装工作はしてるんです」

一応は先に塾に赴き、自習スペースの利用記録を残してからここに来ることにした。塾の自習スペースは、自習利用開始時と利用終了時に記録が残り、自習時間の計測ができるようになっているのである。

しかし、計測できることになっているとはいえ、大学生バイトや受付の人が時折自習スペースを確認しに来るだけなので目を盗んで抜け出すことは容易い。他の塾生も用を足しに行ったり飲み物を買いに行ったりする時に席を離れることがあるようだが、そういう用事でいちいち記録を書き換える者は少ない。

二、三十分くらいは抜け出してもなんの問題ないだろう。

それを説明すると、難しい顔をしながらも柏木さんは「そうだったのか」と言った。

「わかったよ。……それで、聞きたいことってなんだ?」

「柏木さんはこれからも連続殺人が続くと思いますか?」

柏木さんが面食らったように目を瞬かせた。

「……いや、どうなんだろうな。何せ、かつての塾生はまだ残ってるだろうし。一応、さっき刑事を見かけたぞ。君を張ってるんだろう」

「えっ」

「あ、容疑者としてではなくて、多分保護対象としてな。四六時中というわけじゃないとは思うけど……何せ小規模な学習塾だったとはいえかつての塾生はそこそこいるだろ」

守る対象が多すぎるというわけだ。

とはいえ、わたしは『かつての塾生』でしかも『被害者たちと高校が同じ』。刑事が見守ってくれているというのは、いろいろな意味でありがたい。

「あ、でも、刑事さんからうちに連絡したりとかは……」

「それはさすがにないと思うけど……少なくとも先に君に注意喚起すると思うよ。勝手に外を出歩くのはやめろって」

「そうですか……」

 犯人は何が目的で、どれだけを殺すつもりなのか。

(殺された三名に共通する何かがあったと、それはなんとなくわかる)

何せ、わざわざ三年前の連続殺人を思い出させるように人を選んで殺害していっているのだ。

その『何か』について、掲示板のあの『自称宇野春樹』――白骨死体が宇野のものだったとわかっているので、偽物なのは確定だ――のレスが何か手がかりになると思って、今日は柏木さんに話を聞きに来たのだが。

「そもそもどうやって犯人は被害者たちのスケジュールを知ったんでしょうね……」

 一人になる時間を狙うにも、多少は標的の予定を把握する必要があるはずだ。どこかに呼び出すにしても、対象の警戒を解かねばならない。

「……それは、確かにな」

「待ち伏せされていたか、犯人に騙されて会ったか……」

あるいは、被害者の側にも二人っきりで会う理由があったのか。

例えば、犯人の秘密を握っていて、何かしら取引をしに行こうとした、とか。

「あの、柏木さん。聞きにくいんですが、その……」

「ん?」

「この掲示板、知ってましたか」

 作品メモに載せられていたURLを開き、例の掲示板を画面に表示する。

 俄かに、柏木さんの表情が強張った。

「川谷さん、君、どうしてこれを」

「これは記憶を失う前のわたしが、スマホで隠し持っていたデータです。その様子だとご存知だったんですね」

「それは……」

 この自称宇野春樹の言っていることが本当なのか出鱈目なのかは定かではない。証明する方法もないだろう。

「……考えたんです。被害者たちがどうして殺されたのか。わたしは……何か、胡桃さんの死についての秘密を、三人が握っていたんじゃないかと思っているんです」

 塾で同期の――友人の死。

それほどの秘密を共有していたからこそ――仲が良くなかったはずの『五人』は、高校で固まって過ごしていたとしたのではないか。相互に監視をするために。

そしてそうだとすれば、わたしもその『秘密』を知っていた可能性が高い。

「……胡桃を殺害したのは宇野だろう。この明らかに正体を偽っている発言者の主張を信じるのか?」

「胡桃さんを殺害したのが宇野なのは、そうでしょう。胡桃さんの殺害に使われていた凶器は、それまで犯行に使われていた凶器と一致していました。となればやはり、犯人が宇野であるのは間違いないと思います。

 でも――やはり何かがあったと思うんです。使われていた凶器が同じであって、犯人が宇野であることが明らかなのは、この自称宇野だってわかっていたはずです。それなのにわざわざこんな発言をしたということは、何か知ってるんじゃないかと思うんです」

 もしも胡桃さんの死に何か秘密があり、殺された三人がその秘密を共有していたから殺されたのならば、グループの残りメンバーである響也はもちろん、わたしも非常に危うい位置にいる。わたしが記憶喪失であるということを、犯人が知っているとは限らないからだ。

「村上さんたち被害者が犯人の弱味を握っていて殺されたのなら、三年も待つ理由がなくないか?」

「わかりません。被害者のうちの誰かが、ある日突然、秘密を暴露したくなったのかもしれない」

「それで口封じ、と……」

 となると――あの掲示板で宇野春樹を騙った者も、「グループ」の中の、誰かだったのではないかと思えてくる。そのために口封じをされたとすると。

「……記憶を失う前のわたしは、自暴自棄になっていたそうです。わたしがもしも秘密を暴露しようとしていたのなら、やっぱりわたしの『事故』は……」

 やはり『殺人未遂』だったのではないかと。

 と、そう言おうとしたその瞬間だった。

頭の中に電流が走ったかのように、脳の奥が強く痛んだ。


――お前の人生めちゃくちゃにしてやるからな。

――待ちなさいよっ!

――殺してやる。


「う……っ」

「川谷さん? どうしたんだ、大丈夫か」

突如テーブルに突っ伏したせいか、柏木さんの声に焦りが混じる。

なんだ、この声は。時折聞こえるあの声とは違う。誰が話しているかも定かではない幾つもの声が脳内を侵し、吐き気がする。

「川谷さんっ」

これは、わたしの記憶? 記憶を失う前の、わたしの――。

「待ってろ、今救急車呼ぶから。大丈夫、お母さんへの言い訳は僕が捻り出しとくよ。あとからなんか言われたら、約束じゃなくて相席だったことにしよう。幸いほぼ満席だったし不自然じゃない」

わかりました。ありがとうございます。そう言おうにも痛みと吐き気で声が出ない。

代わりになんとか頷き、目蓋を強く閉じる。

「川谷さん、しっかりっ」

柏木さんの声が遠く聞こえる。猛烈な痛みに意識が朦朧とする。

……ああ、だめだ。もう、無理だ。

サイレンが微かに聞こえてきたその刹那、ふつりと糸が切れたように目の前が真っ暗になった。


  *


母の声で目が覚めた。

といっても、それは側から聞こえてくるものではなく、扉や壁で遮られた向こう側から漏れ聞こえてくる声だった。恐らくは部屋の外にいるのだろう。

どうやらここは以前も入院した病院のようだった。病室は違うかもしれないが、部屋の造りには見覚えがある。恐らくは倒れた自分を見て、あの後柏木さんが救急車を呼んだのだろう。

病室で目を覚ますのは二度目だな。

あくまでこの身体に入り込んでからの話だが、と意味もない注釈を自分の思考に添えてから辺りを見回す。

目を覚ましたばかりだからか身体は若干だるかったが、頭痛は嘘のように消えていた。またあの声を思い出すと痛みも吐き気も戻ってきそうだったが、それほどの問題でもないだろう。

「本当にカフェなんかで何をしてたってのかしら、あの子。信じられない。今までそうやってサボっていたから今回の模試も成績が落ちたに決まってる。今までずっとそうやってわたしを騙してきたのね」

「いや、サボりというか、軽食を摂りたかっただけじゃないでしょうか。あの年頃の子なら、勉強してたらすぐにお腹が空くでしょう」

「軽食なんてコンビニで買えるんじゃありません? わざわざカフェに行こうだなんて……W大卒だっていう貴方ならおわかりになるでしょう。少しでも気を抜いていたらライバル達に抜かれていく。そういう時期なんです」

「いや、それは……」

声と話している内容から察するに、病室の外で議論をしているのは母親と、それから柏木さんか。一方的に刺々しい母の対応に困惑している柏木さんの様子が、声の調子だけで手に取るようにわかった。

「あ、目が覚めたんですね。おはようございます。体調はどうですか? 頭をおさえたまま倒れたとのことですが、頭痛の方は」

その溜息を耳ざとく聞きつけた看護師さんがこちらを見て声をかけてくる。顔に見覚えがあった。記憶喪失を告げた先生のそばにいた人だ。

「おはようございます……。もう痛みもありません」

「そうですか、それはよかった。頭を打って運ばれてきて退院したばかりだから、余計に心配だったんですが、大丈夫そうですね」

じゃあお母さんを呼んできます、と看護師が言って扉へと向かっていく。その声に僅かに隠しきれない苦笑の色が滲んでいたのは、恐らくあの声が彼女にも聞こえているからだろう。

そして、少ししてから看護師と医者が、母と柏木さんを伴って病室に入ってきた。

柏木さんの顔からは早く退散したいという感情がありありと見えていたが、一緒に看護師さんに呼ばれた手前ついてこざるを得なかったのだろう。救急車を呼んだだけで散々だな、と他人事のように思った。

「信じられない」

こちらの顔を見るなり憤懣やる方ない、という声でそう口火を切ったのは言うまでもなく母だ。

「本来塾で自習しているべきはずの時間にカフェでサボっていた挙句、倒れて他人様に迷惑かけて。あなたいったいどういうつもりなの、唯衣」

「お母さん……」

「しかも倒れたのは何かがあったわけでもなく、ただの頭痛だって言うじゃない。頭に何か悪いことがあったわけじゃないってことはつまり、本物の痛みじゃなかったってことでしょう? 偽物の痛みで倒れて病院に厄介になって、先生にまで迷惑かけて恥ずかしいったら……もしかして、これもサボりたいがための嘘なんじゃないの?」

その言い様に、さすがに驚いたのか看護師さんと先生が困惑したようにこちらと母の顔を見比べた。

柏木さんの「何もなくてよかったですね」というフォローが虚しく病室に響いたが、それでも若い看護師さんにとっては福音に思えたのか、彼女は慌ててその言葉尻に乗っかる。

「そうですよ。何もないのが一番です」

「その通りです。それに、こういう場合のそういった頭痛は、記憶が戻ろうとしてる兆しであることもあるんです。川谷さんも痛みの前に何かそういう兆候のようなものがあったんじゃないか?」

「ああ、まあ。声というか、そういうものを聞いたような気がします」

「そうか。……ではもしかしたら、記憶が戻りかけているのかもしれませんよ、お母さん」

「はあ、そうですか?」

不機嫌を表情で示しつつ、母親が低い声で応える。先生は少し気遣うようにこちらと母親をもう一度見比べたが、とりあえず、と続けた。

「一日様子を見ましょう。とりあえず明日はゆっくり休んで、何もなかったら午後辺りに退院ということで。それで大丈夫ですか?」

「ええ、まあ」

「ではそういうことにしましょう」

お大事に、そう言って病室を後にする先生たちの背中を見送る。

次いで柏木さんに目を向けると、柏木さんもこちらに視線を寄越した。疲れたような目をしていたので少し同情する。

「では、僕もここで失礼します」

「あら、そうですか。娘がご迷惑おかけして、申し訳ありませんでした。ありがとうございました」

「いえ、そんな。大したことをした訳じゃないので。川谷さん、お大事にしてください」

「ありがとうございます」

丁寧な口調で付け加えられた言葉に礼を返す。

それでは、とこちらに背を向けるその時、柏木さんが一瞬だけこちらを一瞥した。

なんだろう、と思って片眉を上げたけれども、柏木さんはその後は何も言わず、病室の出口で母親に一礼するとそのまま立ち去った。

なんだったのだろうと眉を寄せると、その次の瞬間には「ねえ」という母親の声に思考を遮られた。

「さっきも言ったけど、どういうつもりなの」

「どういうつもり、っていうのは」

「当然サボっていたことよ。あなたずっとそうやってわたしを騙していたの」

「そんなことないよ……。いつもは普通に勉強してる。昨日はちょっとお腹が空いてカフェに行きたくなっただけ」

 嘘をつくことに罪悪感はあったが、本当のことを言うとまた怒り出すかもしれない。

 そう思って、柏木さんに乗っかって誤魔化す。

「とても信じられない」

「でも、それは信じてもらうしかないから……」

がつん。がしゃん。

ベッドの傍に置いてあったパイプ椅子が、力任せに背もたれを殴られて床で僅かに跳ね、倒れた。

母の顔からは、表情が抜け落ちていた。能面のような表情に思わず目を見張って息を呑む。

「……あなた本当にやる気はあるの? あの時も失敗したのに今度も失敗するつもりなの? お母さんがどれだけあなたの未来を心配してるかわかってないの? ねえ唯衣」

「失敗……」

「そう。先日も言ったばかりでしょ? 高校受験にも失敗して、最近は反抗までして」

……あなたが悪いのよ。

味噌汁をわたしにぶちまけた時と同じように母は言う。まるで念を押すように。

下を向き、自分が倒したパイプ椅子を見下ろしながら、彼女は何かをぶつぶつと呟く。目は焦点が合っていない。はっきり言って異様だった。

次の瞬間、わたしの口からは考えてもいなかった質問が飛び出していた。


「わたしを恨んでるの?」


母が顔を上げた。こちらを見た彼女は、不思議なものを見るような目をしていた。

自分でもどうしてそんな言葉が出たのかは全くわからなかった。

「……そうね」

母が呟いた。こちらを見下ろす目はやはり焦点が合っていなかった。

「そうなのかもしれない」

だってあなたのせいだから。全部、あなたのせいだから――。

「三年前、自分が通っていた塾で殺人事件が立て続けに起き、友人が四人も死んだ。そのせいで優秀だったはずの成績が落ちた。友人が死んで、成績が落ちたのは、わたしのせい?」

「あなたは何もわかってない。唯衣は本来そんなことで成績を落とすような弱い子じゃないの。もっと力があるはずなの」

「じゃあ、記憶喪失もわたしが悪いの? 自業自得なの?」

 母はわたしを見た。そして言った。

「……ええ。そう。私のせいじゃない。だって私は精一杯やっていたもの。だからあなたのせいなのよ、全部」

「そっか」

また、口から勝手に言葉が零れた。

「――なら、もうそれでいいよ」


  *


あなたのせい、か。

味噌汁の時もそうだったが――なんだかひどく空しかった。「わたし」は、ずっとこうやって責められることに耐え続けていたのだろうか。自分を責めながら、苦しみながら。そして、耐えられなくなってきていた……。

――わからない。今は何も覚えていないのだから。

不意に病室の戸をノックする音が響いた。誰だろう、と思いつつ「どうぞ」と言うと、

「よー唯衣」

入ってきたのは響也だった。

どうして、と問う前に彼は先回りして答える。

「幼なじみだぜ。そりゃ心配するだろ」

「……そっか」

 つまりは、監視だろうか。まりあが死んで、もう「グループ」は二人っきりになってしまったが。

土産はないぞ、と響也は言って苦く笑った。金もないし、それにすぐ退院するんだろ、と。

「あと頭痛で運び込まれたって聞いたけど、大丈夫なん? あとドラマとかじゃ記憶喪失の頭痛とか、そういうので記憶が戻ったりするけど。そっちの方は?」

「ドラマじゃないからね。思い出せてないよ。頭痛はもう治まったけど」

「そういうもんだよな、現実なんて」

 冷めたように言う響也に苦笑を返す。――しかし何故、彼はわたしが倒れたことを知ったのだろう。母が教えたのだろうか。

響也を見れば、彼は軽く眉を寄せてから口を開いた。

「……おばさん、怒ってたな」

「やっぱりわかる? しばらく塾は休むことになったよ」

「そりゃわかる、俺が見舞い行くって言ったらめちゃくちゃ不機嫌だったし。……てか馬鹿お前、なんでカフェなんか行ったんだよ。その左腕のも模試の自己採結果が原因なんだろ。舌の根も乾かないうちにってこのことだよ」

「これは前も言ったけど、大したことないから大丈夫だよ。カフェはお腹が空いてただけ。特にそれ以上の理由はないし……」

「それでさすがにはいそうですかとは言えないね。おばさんはもっとそうだろ」

「そう言われても……」

 響也が壁に立てかけてあったパイプ椅子を広げてそこに腰掛ける。

「……また監視に来たんでしょ?」

「は?」

「まりあに言われたの、何も知らない方がいいって。みんなが何か隠してたことはわかってる。でも何も覚えてないから、わたしを見張ってても意味ないよ」

 まりあが死んだ。この期に及んでわたしが連続殺人の犯人ということは、恐らくないだろう。――けれど、わたしは自分が抱えていたであろう「秘密」が恐ろしい。

「何も覚えてない、ね」

「……本当だよ」

「本当に何も覚えてないなら、もう何もするなよ」響也がこちらを冷ややかに睨みつけてきた。「どうせカフェにいたのだって、余計なこと調べてたからじゃねーの」

「余計なことじゃないよ……」

 犯人はわたしたちを狙っているのだ。――あるいは、わたしだけを。

 わたしは響也の顔を睨みつける。怪しいのはお互い様だ。緑川刑事が言うには、彼だってアリバイを偽装していた。

 しばしの間無言で睨み合い――やがて、どちらからともなく視線を外した。

「……そういえば響也、少し気になったんだけど」

「なんだよ」

「わたしたちって、幼なじみなんだよね? じゃあ、わたしの父親のこともどんな人間だったか知ってる?」

「父親?」

 予想外の質問だったのか、響也が面食らった顔になった。それから眉を顰めておじさんか、と呟く。

「いや、悪いけどどんな人だったかはよく覚えてないわ。俺はあんまり親しくしてなかったから。おばさんの方が話したことあるくらいだし」

「……そうなんだ」

「でも、なんというか。気弱そうだったな。お前が高校受験失敗してキレるおばさん見て、それで喧嘩して、そのまま出て行った的な印象? お前の両親、昔からあんまり仲良くなかったからな、傍目から見ても。教育方針でよく対立してたよ」

 だから、唯衣を置いておばさんの下からいなくなったと聞かされた時も大して驚かなかった気がする。響也はどこか、どうでもよさそうに言った。

「エスカレートするおばさんを止めるくらいはできたんじゃないかって思うんだけどな。でもそうしなくて、逃げた。おばさんはどんどん変になった。うちの親が言うには昔は仲が良かったらしいんだけど、お前の教育方針で揉め出してからはもー、亀裂が入りまくったってさ」

「……なるほどね」

 わたしが生まれておかしくなった家族仲。だからこそ母はわたしを恨んでいるのかもしれない。

 戻せなくなった家族仲を、わたしの高校受験を、母はわたしの「失敗」だとした。その「失敗」を二度とさせないように必死なのかもしれない。

「まあとりあえず、大丈夫そうだから帰るよ」

「うん」

 彼は病室の入り口でこちらを振り返り、片手を上げた。

「んじゃまた明日……ああそうだ」

「何?」

「お前、紺色の手帳みたいなの知らないか?」

 紺色の手帳。心当たりがなかったので、首を振る。響也は「あ、そ」と顔を顰めると、「どこ置いたっけ、くそ」と毒づいた。そしてそのまま病室を出ていく。

 なんだったのか。

 背中を見送り、軽く息を吐いたところでぶうん、とスマホが振動した。チャットアプリの新着メッセージを告げるバイブだ。

 柏木さんだろうか。

そう思い画面を確認し、意外な名前を目にして片眉を上げた。そのまま通知欄をタップし、パスワードを入力するとトークアプリが開かれる。

『久しぶり。いきなりメッセ送ってごめんね』

 その文面から始まるメッセージはこう続いた。

『これもいきなりなんだけど、すごく大切な話があるんだ。都合がいい時でいいから、会えないかな』

 そして。

それの送り主は、渡部さんだった。



日が暮れ始める時間、バス停の前に彼女は立っていた。以前会ったバス停と同じ場所だ。

他校に通っている渡部さんもここの高校に来る時にこのバスを使うので、待ち合わせに都合がよかった。

「ごめん、川谷さん。いきなり呼び出しちゃって」

「全然。それにわざわざこっちに来てくれてるし」

「それは、そりゃあわたしが呼び出したから。こっち来いなんて言えないよさすがに」

そう苦く笑う彼女の肩が僅かに強張っている。よく見れば顔色も蒼白とは言えないがよいともいえない様子だった。

緊張していることは明らかだったが、さて、理由がわからない。急にメッセージを送ってきたことに関係するのだろうけれど――。

「渡部さん。大丈夫? 何か緊張してるみたいだけど」

「だ、大丈夫……でもすごいね、わかるんだ、緊張してるとか」

「そうでもないよ、ただ渡部さんの顔色が悪かったから。……その様子だと、あんまりいい話じゃなさそうだね」

うん、と彼女は子供のように頷いた。か細い声だった。

「実は話したいことっていうのは、響也のことなんだ」

「響也のこと?」

「うん。こんなこと話せるの、川谷さんくらいしか思いつかなくて」

「……知ってると思うけど、今のわたしは昔の記憶がないから、響也のことについて相談は乗れないと思うんだけど」

渡部は首を横に振った。「考えたんだけど、川谷さんしか思いつかなくて。というか、川谷さんに話さなきゃって思ったの……」

「そうなの? なら、わたしでいいなら聞くよ。大切なことなんだよね?」

「ありがとう。あの、これを見てほしいんだ」

「……スケジュール帳?」

渡されたのはそこらの百円ショップで購入したものらしい、紺色のスケジュール帳だった。新品というほとでもないが使い込まれているわけでもない。

たまに見る程度のものなのかもしれないが、渡部さんのような女子が使うものにはあまり見えなかった。端的に言うと、可愛くない。

そんなことを考えながらなんとはなしに裏返し――少しして思わず眉を寄せる。

「……これ、響也のものだね」

 そう言えば言っていた。

 これが響也の探し物だろう。わざわざ手帳をスケジュール帳と言い換えたのは、わたしが持ち去った犯人で、手帳を知らないかと聞けば「そのスケジュール帳なんて知らない」というように、ボロを出すと思ったからだろうか。

「そう。ついこの前、響也のうちで勉強しようってことになった時、机の横の棚に置いてあるのが見えて……つい響也がトイレに行ってる時、中身見ちゃって」

言いながら、渡部さんが身を縮こませる。

たしかにスケジュール帳は響也のものだった。濃い色なので一見しただけではわかりにくいが、裏表紙の右下に小さくサインペンで名字が記されている。

「それで、どうして持ち出してこようなんて」

「さ、最初は持ち出そうなんて思ってなかったのっ!」

弁解するように渡部は叫んだ。落ち着いて、とお座なりながらも宥めつつ、スケジュール帳に目を落とす。

「最初はただの興味で……すぐ、見たら元に戻そうと思った。でもそこに書いてあるの、予定だけじゃなくて、ちょっとした響也の思ったこととか日記みたいに書いてあって。それ見て、わたし怖くなって、思わずっ」

「渡部さん、わかったから。ほら、落ち着いて」

肩を叩くと、ごめん、と渡部さんは小さな声で呟くように言った。

彼女の取り乱しようは普通ではなかった。ここに一体何が書かれているというのか。

「……あのね、実はずっと、最近響也の様子がなんだか変だなって思ってたの。何かに怒ってるっていうか焦ってるっていうか、何かを怖がってるっていうか。川谷さんだけでなく、響也の様子も、やっぱりおかしくて。友達が亡くなっていってるから焦ってるのかなって、思ってたんだけど。やっぱりいろいろ心配で……」

 渡部さんの顔色は悪い。

「西寺春花さんが殺されたあたりかな、変だって思ったの」

「……」

エンジン音がする。ふと道路の方に目をやると、バスが近づいてきていた。

「そのスケジュール帳、川谷さんに見てほしい。できれば人のいないところで。それで……」

渡部さんはそこで口を噤んだ。

バスが停止する。

中開きのドアが開き、バス内の冷たい空気がこちらまで届いた。

「ごめん。わたしはそれ、もう響也に返す勇気ない」

「渡部さん……」

「もう行くね。ごめん、こんなことで呼び出して」

そう言って、渡さんはバスに逃げるように乗り込む。ぷしゅう。音を立ててドアが閉まる。

走り去っていくバスを見送ると、手元には紺色のスケジュール帳だけが残った。

「返す勇気がない……?」

 渡部さんの残した言葉を反芻しながら表紙をめくる。

 まだ夕方だが、大通りを歩く人はまばらだ。少しくらいなら歩きながら読んでも問題はないかな、と、ページを捲っていく。

 しばらく捲ると今月のカレンダーのページになった。そこまで書き込まれていないところを見ると、やはりこれは家でのみ使い、外に持ち出していないものなのだろう。渡部さんもこれを見つけたのは響也の家だと言っていた。

(何か重要なことが書かれているスケジュール帳なら、隠しておこうと思いそうだけど……)

 渡部さん相手だから油断したのだろうか。

(有り得るかも。渡部さんに持ち出されるのは予想外だったはず。だって、響也が警戒してたのはわたしだ。そうでなければ「グループ」のメンバー……)

 相互監視のためにできた「グループ」。

 警戒対象が多すぎて、部外者の彼女相手には油断することは十分あり得そうだ。わたしたちはただの高校生で、隠し事のプロじゃない。

 西寺さんの遺体が発見されたのは六月二十一日頃だったはず。

それを思い出しながらカレンダーを見ると、その日付の数字の下にはたった二文字、『春花』とだけ書かれていた。

カレンダーに書き込みがあるにはその翌日だった。

「『唯衣に警察が事情聴取。疑われているのは唯衣?』……。あとは」


 ――『ざまあみろ』。


 ざまあみろ、だって?

書かれていた言葉を呟いて、唾を飲み下す。

一件目の殺人について、「わたし」にも警察が事情聴取に来ていたことは知らなかったが、それについての感想が『ざまあみろ』だなんて。

 鼓動が速くなるのを感じながら大きく息を吸い込んだ。そして、再びカレンダーに目を走らせる。

 次に何かが書き込まれていたのは六月二十三日。わたしが事故に遭った日。ここには『唯衣(仮)』。

次は六月二十八日。二人目の被害者が殺害された日だった。ここには『光輝』。

さらに次は数日前。三人目の被害者が殺害された日。そこには――『まりあ』。

そしてその下には。

 

――『あと一人』。


「あと、一人……」

 一体、どういう意味なのだろう。書かれていった名前が「犠牲者」だとしたら、グループの残りメンバーという意味か。それとも、

 ――殺すべき標的という意味か。

「……っ」

 ふと、柏木さんとの会話を思い出した。

 犯人は、人目に付かないところで被害者を殺すため、被害者三人の予定を把握していた可能性が高い。そして、二人きりになった時も、警戒されにくい人物でなければならない。

 響也はどちらの条件も満たしている。

「まさか……」

 響也が、全員殺したのか。西寺さんを、清水くんを、まりあを。

(動機は?)

考えられるのは、響也の秘密を三人が握っており、口封じをしたかったという可能性。あるいは、被害者たちと響也には何かしら共通の秘密があり、それが露見するのを恐れ、これも口封じに動いたという可能性。

隠し通すために人を殺すほどの秘密となれば、やはりあの掲示板に書いてあった、柏木胡桃、その死の真相が関わっていると考えるのが自然ではないか。凶器にしたってそうだ。三年前の事件で、胡桃さんの死に関わっていたのなら、その時に使っていた刃物を知る機会もあったはずである。

――一番初めの被害者である西寺さんが、何をきっかけで殺されたのかは不明だ。

しかし、想像することはできる。

もし西寺春花、清水光輝、村上まりあと響也が柏木胡桃の死に何かしらの形で関わっていたのだとすれば――たとえば、そうせざるを得なかった状況で、宇野の手伝いをさせられたなど――。

彼女は何もかもを暴露したい、と響也に相談したのかもしれない。

そうだとすれば、以前の連続殺人から三年という時間が空いて、また連続殺人が起こったことにも説明がつく。西寺さんは三年間、自分の犯した罪について悩み続け、そして耐えきれなくなった。そういうことになるのではないか。

しかし響也はそれを拒んだ。そして西寺さんを殺害した。

共犯者の一人がそのようなことを言い出せば、他の共犯者の存在も危険に思い始めるのも思考の流れとしては不自然でもない。

そして響也は二人目の被害者・清水くんを殺すに至った。そして怪しまれぬまま、まりあを殺した。

……もちろん、共通の秘密の件から何まで、証拠も何もない妄想に過ぎない。けれども、掲示板の発言と、あのスケジュール帳の記述を見ればその妄想も現実味を帯びて来やしないか。

気になるのは、掲示板の発言を誰がしたのかということだが――。

「やっぱりわたしも、口封じの対象だったんだ」

 このスケジュール帳を見れば、わたしが二人目の被害者の予定だったことは明らかだ。おそらく、この(仮)は、あとから書き足したものなのだろう。

響也は「わたし」を、事故に見せかけて殺すはずだった。しかしわたしは死にはせず、頭を打っただけで重い怪我は負わなかった。

しかし記憶喪失と聞いて殺す必要がなくなったために、響也はわたしを殺さなかった。その代わりに、「余計なこと」を思い出さないようになるべくそばにいようと、好意的に接した。そばにいることに関しては、清水くんやまりあの協力も取り付けたのだろう。あくまで、共通の秘密があった、という仮定が正しければの推論だけれども。

「ふう……」

 響也はわたしをいつまで生かしておくつもりだろう。

 まりあも殺して、これで全員「口封じ」したのなら――今度こそ殺されるかもしれない。余計なことを思い出す前に。

 何せ、スケジュール帳には「あと一人」と書かれていた。響也以外で生き残っているのはわたし一人だけだ。

「……っ」

 怖い。

 家でも気が休まらない。外でも気が休まらない。

響也がどこかに潜んでいるかもしれない。

 ぶるりと震えた。恐ろしかった。

(……そうだ、柏木さんなら)

 相談できるかもしれない。何か力になってくれるかも。とりあえずあのカフェに入って連絡したら、また来てくれないだろうか。

 わたしはすぐさま、バス停から離れた。家には帰りたくなかったが、今はとにかく人のいる場所に行きたかった。


   *


「大変なことがわかったんですが、お時間大丈夫なら今から会えませんか」

 カフェに入り、紅茶を頼んだのちにそう切り出せば、柏木さんは時間は大丈夫だと答えた。自由になる時間が多いと言っていたが、本当に助かる。

「電話でもいいんですけど、なるべく現物を見ていただきたいと思っていて……」

『現物? 何かあるのか?』

「はい。事件の証拠になるかと言われるとあれなんですが、相当怪しいので……」

 何より、誰かと話したかった。

 カフェなので周囲に人がいるのはありがたいのだが、さすがに話し相手はいない。

 ……怖い。

 やめよう、考えるな。恐怖を誤魔化すようにして、呼び出しボタンを押した。間を置かずウェイトレスがテーブルまでやって来る。

「ご注文はいかがなさいますか?」

「アイスティーを一つお願いします」

「かしこまりました」

 息を吐き出し、ソファの背もたれに凭れる。

 そのままスマホを取り出し、例のメモアプリを呼び出した。作品メモを開き、リンクから掲示板まで飛ぶ。

 例の掲示板は、レスが千近くある中、百ほどのレスを使って自称宇野春樹についての話で盛り上がっていた。あの時は母が帰ってきたので内容をきちんと読めなかったが、今なら目を通しておく時間くらいあるだろう。

「あれ……」

 ふとそこで、とあるレスが目に留まった。

 初めは流し読みをしただけだったので気がつかなかったけれども、レスの中には『話がしたい』と発言している人もいたのだ。

 百に近いやり取りの中で、特にそのレスに触れている人がいなかったために、見落としそうになったが、件のレスにはSNSのアカウント名が貼られていたのだ。

「こういうの、掲示板に貼っていいんだ」

 個人情報だろうに。メールアドレスや電話番号でないだけましなのだろうか。

 掲示板のルールはよくわからないが、なんとなく気後れしながらも、アカウント名をコピーしてSNSアプリ内で検索する。――すると、すぐに当該アカウントがヒットした。

 かしわもちと名乗るアカウント。プロフィールにはアカウント主がジャーナリストである旨と、趣味などが書かれている。

「かしわもち、か……」

 柏、ジャーナリストときてまず想像するのは柏木さんだが、さすがにジャーナリストだけあって、つぶやきを追っても、アカウント主が誰だかを特定できるような情報を載せてはいなかった。

 掲示板にレスが貼られた六月十五日付近のつぶやきにも、気になるところはない。

(誰なんだろう、かしわもちさん)

 この国のジャーナリストなど星の数ほどいるだろうから、考えるだけ無駄だろうけれども。

 それはともかく、このかしわもちという人は結局、自称宇野と連絡を取れたのだろうか。

 DMでやり取りをしたのかを確認するすべをわたしは持たない。

(あ、そうだ。「いいね」欄を見れば何かわかったりするかも)

 SNSの投稿に「いいね」を押した場合、履歴が残る。それを遡れば、何かがわかるかもしれない。もしもDMでやり取りをしていたとするなら、少なくともかしわもちさんは自称宇野のアカウントを知ったはずだ。自称宇野のアカウントの投稿を「いいね」していたもおかしくない。

 最新の「いいね」から、六月二十日頃の「いいね」欄まで順に遡っていったところで、かしわもちさんが少々気になるアカウントに「いいね」をしていることに気がついた。カードゲーム「ウノ」のカードをアイコンにしたアカウントだ。ユーザー名はそのまま、「UNO」。

 かしわもちさんはこの「UNO」を、フォローはしていないが、頻繁に「いいね」している。

(まさかこのUNOって人が自称宇野? 安直だけど偶然にしては……)

 アイコンからプロフィールに飛んでみるが、はほぼ空欄。投稿数もフォローフォロワー数も少ない。少なくとも学校や趣味の上での友人とやり取りをする用のアカウントではなさそうだ。アカウントも作ったばかりのよう。

 投稿を遡るのは簡単だった。というより、最も気になるのは最新の投稿だ。


『今日会ってくる。いろいろぶちまけてやる』


 このつぶやきが投稿されたのは六月二十八日の朝。

 さらにもう一つ、気になる投稿があった。六月二十三日の夜。――わたしが「事故」に遭った日のことだ。


『どこで見つけてきたのか、スレについてあいつに聞かれた。お前だって我慢ならないって感じだったくせに』

『俺はもう抱えてるのが嫌になったんだよ。全部話してしまいたい』


このアカウントの最新の投稿は六月二十八日、つまり――清水くんが亡くなった日だ。

 まさか、と思ったが、そういえば緑川刑事が、「わたし」と清水くんが二人で口論している姿を目撃されているといった話をしていた。だからわたしが清水くん殺害の犯人として疑われているのだといった様子で。

(あの掲示板の自称宇野は清水くん……!)

 だとすれば「あいつ=お前」とはわたしのことか。

 そして、かしわもちさんに会いに行き――その日に殺された。

 ぞ、と背筋に悪寒が駆け巡る。

(二人で会っていたなら、他の人に見つからないような場所で殺害することも難しくない)

 スマホの液晶に視線を戻す。

 ジャーナリスト。かしわ。――嫌な予感が募る。

 柏木さんがかしわもち。有り得ない話ではない。ただの掲示板のなんてことない、胡散臭いレスにまで返答するほど執拗に、三年前の連続殺人事件――四件目の殺人について調べているジャーナリストが、どれほどいるだろう。

 あの掲示板の話をした時、彼はどんな反応をしていた? ……だめだ、思い出せない。

 あの時は掲示板の話というより、犯人像の話が話題のメインになってしまっていた。だが、確か、あの人はわたしの「この掲示板を知っているか」という質問に、明確な答えを出していなかったはずだ。

 知ってる、とも、知らない、なんだそれ、とも。

「……、」

もしも――もしも、このかしわもちという人が柏木さんだったとして、本当に清水くんを殺害した犯人だと言えるか。今回の連続殺人では、三年前に使われた凶器と同じものが使われた。それをどうやって知った? 

 いや、有り得なくはない。彼は記者だ。独自の情報源があってもおかしくはない。

(違う、犯人は響也で……)

 それも推測どころか妄想の域での所感だ。あのスケジュール帳とて、決定的なことが書かれていたわけではない。

そもそも、わたしと柏木さんが再会したのは偶然か? 彼はわたしが塾近くのカフェにいるとわかっていて声を掛けてきたのでは? 清水くんと少なからず交流をしていたのなら、わたしの行動範囲もわかっているはず。

信頼を得てから殺そうとして、記憶喪失だからと泳がせていたのだとしたら?

「お待たせしました、アイスティーでございます……お客様っ?」

 全身から血の気が引き、思わず勢いよく立ち上がっていた。

 財布の入ったカバンを席に置いたまま、スマホをスカートのポケットに突っ込んで、がむしゃらに走り出す。

「どうされましたかお客様っ」

 恐怖に駆られたまま店を飛び出して、ようやくそこでカバンを置きっ放しにしていたことに気がついた。

 まずい。柏木さんが犯人かどうかはわからないが、今は逃げなくては。ここにいると知らせてしまった。今はここから離れたい。

 いや、だが。カバンを取りに戻るくらいの時間は。

 そう思い、踵を返そうとしたところで、腕を掴まれた。悲鳴を上げる暇も、顔を見る暇もなく路地裏に引き込まれ、ハンカチで口と鼻を覆われた。驚きで思い切り息を吸い込んでしまい、嗅いだことのない臭いを感じたところで薬を嗅がされたのだとようやく気付く。

 目の前が真っ暗になった。


  *


気がつくと、ひんやりとした床の上に転がされていた。

後頭部が重く痛む。痛む場所に触れようとして、今度は手が動かないことに気がついた。後ろ手に縛られているらしい。感触は、ロープ、というよりは頑丈な紐というところか。いや、もしかしたら何重にもビニール紐を巻いて縛っているのかもしれない。

「ここは……」

なんとか仰向けになり、腹筋を使って上体を起こす。

薄暗い部屋だ。窓はあるようだが汚れたシャッターが降りており、外の様子は見えない。明かりが入ってこないので、今がいつの何時頃なのかもほとんどわからない。

誰も使っていない廃墟のような建物の一室に放り込まれたらしい。

部屋にあるのは古びたスチールのロッカーと、床に乱雑に散らばっている空き缶や空の瓶くらいだった。または、何の役に立つでもない砂利や小石。

「つけててもさ、割と気づかれないもんだよな」

背後から聞き慣れた声がした。鈍く痛む頭を押さえながらゆっくりと振り返ると。


「よー唯衣。オハヨ。気分どう?」


「……響也……?」



間章


「はっ、寝てた!」

 仕切りの向こう側、すぐ隣の自習スペースから聞こえてきていた微かな寝息が途切れたかと思うと、いかにも寝起き、といった風情の声が耳に届く。がたん、と椅子が鳴る音がし 

たので、勢いよく身体を起こしたのだろう。

さては突っ伏して寝ていたか。わたしは思わず吹き出した。

「おはよう胡桃。よく寝てたね」

「うえーっ、まじかー。今日やる予定だったこと全然終わってないじゃんっ」

 声を掛けると、起こしてくれればいいのにー、と恨みがましい返事をいただく。わたしは苦笑して、ごめんごめんと素直に謝った。

「でも胡桃、授業の時から眠そうだったから。無理に起こすのあれかなーって」

「わたしが授業眠たそうにしてるのっていつものことだから! そんなのまりあだって知ってることでしょーっ」

「それは自信満々に言うことじゃない気がする」

「おわー、土日で遊び行くなら今日ワークいっぱい進めるってお兄と約束しちゃったのにー。バレたらうるさそうだよなーあの人」

 どう誤魔化そうか、とうんうん唸っていた胡桃が、不意に「あっ」と声を上げた。

「え、やばっ。もう九時じゃん」

「えっ、嘘」

 胡桃の言葉に慌てて腕時計を見下ろすと、確かに針は九時を指している。さっきまで明るかったのに、と窓の外を見ると、当然のように日はとっぷりと暮れ、真っ暗になっていた。

 よほど集中して自習に取り組んでいたのだろう。確かに、今日は時計をほとんど見ずに学習を進めていた。受験生としてはいいことなのかもしれないが、親に連絡するのも忘れていたのは褒められたことではないだろう。

「やばー、通知切ってたから全然気づかなかったけど、親から連絡がんがん来てた。ちょっと電車が遅延してた、っと……よし」

「ええ、それ調べられたらすぐバレるでしょ」

「それが実は本当に遅れてたんだよねー」

 仕切りの上から胡桃がスマホの画面を見せてくる。確かに人身事故で、一部の路線が止まっているらしい。

 軽率にまたか、もう慣れた、と口に出すのは不謹慎だが、都内だとこういった事故は頻繁にあるのは事実だ。わたしは苦笑いすると、自分の親へ胡桃もが送ったものと同じような内容のメッセージを送る。

「お兄ちゃんに迎え来てもらおっかな」

「あれ、胡桃お兄ちゃんいたっけ」

「従兄が近くに住んでるんだよねー。最近物騒だし、たまに来てくれるんだ迎えに。今日暇かな。お兄ちゃんだいたい暇だからな」

「ひどい言い草すぎる」

「フリーの記者だから時間あるんだって。逆に深夜まで仕事することもあるらしいけど。高学歴なのに不便な生活送ってるから、学歴社会じゃないのかもね今の時代」

 冷めたことを言う。

 とはいえ確かに物騒だ。最近、中学生の殺人事件が起きている。このあたりの中学校は休校になっているところが多いし、実際にわたしの通う中学校も休校になっている。わたしも刑事に話を聞かれ、名刺をもらっていた。

「人少ないよね」

「この塾の生徒から標的選ばれてるって噂あるじゃん。ほとんどの親は子どものこと家から出してないよ」

 それはそうだ。

 楽観主義な親か、あるいは勉強のことしか考えていない親か。今も塾に来ている生徒の親はその二択だ。わたしの親は前者、胡桃も同様。――個人指導の塾なので、誰が亡くなったかは噂でしか知らないし、この塾の人間ばかりが殺されているというのも噂にすぎないのだけれど。

 自習スペースも殆ど人がいなくなっていた。胡桃とわたしのほかには二人だ。胡桃と同じように勉強中に眠ってしまったのか、突っ伏して寝ているらしい男子生徒――八上響也と、ヘッドホンをつけて黙々とシャーペンを動かし続けている男子生徒――清水光輝。彼はわたしと同じで、集中して時間に気付いていないのだろう。他の席に教科書らしきものが置いてあるのも見えたが、他の荷物もないようなのであれはただの忘れものだろう。

どちらも顔はよく見えないので誰だかはわからなかったが、こちらから声を掛けた方がいいかもしれない。

「でもなんでだろ? 自習スペースの利用時間ってもうとっくに過ぎてるはずだよね? 受付の先生たちに何か言われてもおかしくないのに」

「確かに……集中してたから見逃してくれたのかな」

 胡桃の言葉に頷くが、とりあえずは他の二人に話しかけた方がいいかもしれない。

 先生に注意されてはいないものの、本来の利用時間は過ぎている。二人の親御さんもきっと心配しているだろう。

「やだ、助けっ」

 そう考えながら椅子から立ち上がった時、勢いよく自習スペースの戸が開かれたかと思うと、中に飛び込んできた人影があった。

派手な見た目の女子生徒。西寺春花だ。

「え、何っ……」

 そこまで言おうとして、息を呑む。

 西寺さんの後ろに立っていたのはこの塾で働いている講師――宇野先生だった。いつもの通り柔和な笑顔だが、なんだか様子がおかしい。

 西寺さんはわたしたちが残っているのを見て、救世主を見たかのようにわたしの後ろに隠れた。まるで宇野先生から隠れるようにして。

「なんだ、まだ残ってる生徒がいたのか。面倒だなあ」

「え……?」

異様な空気に身体が動かない。しかし嫌な予感に痺れる。

「あっ、あの、ごめんなさい、先生」

 おかしな空気の中にいることに感づきながらも、それを破らんと一番初めに声を発したのは胡桃だった。

「わたしたち全然利用時間過ぎてることに気付かなくて。ルール破ったのわざとじゃないんです。次からは気をつけますから……」

「そうなんだ」

 宇野先生は笑みを深めた。胡桃も口を噤んで一歩後ろに下がった。

 どうしてこんな嫌な予感がするのだろう。しかしさっきからずっと直感が警鐘を鳴らしている。いわく、この場から逃げろ、今すぐに。

「でも気にしなくて大丈夫だよ」

「あっ、本当ですか。わたしたち、じゃあ……」


「次なんてないから」


 瞬間、彼はこちらに走ってきていた。

「えっ」

何が起こっているのかわからない。振りかざした手を見る。握られた何かが鈍い光を帯びる。――ナイフだ。ナイフがわたしに向かって振りかざされている。

 死ぬ?

 瞬間、宇野先生の身体が横に傾いだ。いつの間にか起き出したのか、八上くんが彼に体当たりをしたのがわかった。無我夢中だったという風情で、真っ青な顔で荒い息をしている。宇野先生はよろけたが倒れることはなく、体当たりされたのであろう腰の辺りをさすっていた。

 わたしは思わず尻餅をついた。何が起きているのかわからなかった。

「なんだよ、何が起きてるんだよ……」

「清水っ、柏木、みんな逃げろ! こいつ今村上のこと殺そうとしたんだ!」

「はあっ? え、おい、ナイフ……嘘だろ」

ようやくこちらに気がついたらしい清水くんが、慌てたように駆け出す。そして扉を開けようとするが、聞こえてきたのはがたん、という音。それは自習スペースの扉が開いた音ではなかった。

清水くんが引き戸になっている出口に縋り付きながら、なんで、と呟いた。

「なんで! なんで開かないんだっ」

「なんでって、そりゃあ鍵を掛けたからに決まってるだろう」

清水くんが唖然、とした表情でこちらを振り返った。

馬鹿だな、とでも言いたげに、宇野先生――宇野は溜息をつく。

「ただでさえ西寺さんを殺すことに失敗したんだ。余計に口封じすることになったのに、逃げ道なんて作っておく訳がないじゃないか」

「そんな……」

 西寺さんを殺す。ということは、本当にこの人が連続殺人鬼だったというのか。

わたしたちは殺されるのか。ここで。この人に? 

状況を正確に理解したことで、恐怖が全身を包んだ。この男がまたわたしに飛びかかってくれば、わたしは死ぬのだ。

嫌だ。

どうしよう。どうすれば。死ぬのは嫌だ、死ぬのは――。

「村上! 体当たりしろ!」

 清水くんの声が轟いた。全身に電流が走ったような感覚。同時に、わたしは自分が立ち上がり、低い位置から宇野に思い切りぶつかっていこうとしていることに気がついた。

「うわあああああっ」

獣と人間の合間のような雄叫びを上げ、思い切り突進する。肩にどん、という衝撃があり、宇野が「うっ」と呻く声が聞こえた。それは紛れもなく、彼にできた隙であった。

「くそっ、おまえ、何を」

 宇野が顔を歪めてナイフを握り直すのが見えた。

しかし今度は西寺さんが駆け出し、次の瞬間には彼女は宇野の背後に回っていた。

そして手に持った白い紐のようなもの――確か自習スペースの端に常に置いてある、紙ゴミ用の丈夫なビニール紐だ――で輪を作り、それを素早く宇野の首にかける。

そして、思い切り後ろに体重をかけた。

息をつく間もない、一瞬の出来事だった。

「あっ、が」

 白いビニール紐がぐい、と宇野の喉に食い込む。掠れた声を上げ、宇野が持っていたナイフはその手から滑り落ちた。

 ぶら下がるようにして思い切り体重をかける西寺さんは、歯を食いしばって赤い顔をしていた。そして彼女と背中合わせのような恰好のまま、宇野が首に食い込む紐の辺りをかきむしりながら滅茶苦茶に暴れている。

「はっ、は……っ」

 わたしたちは呆然としてそれを見ていた。

 目の前で行われているのはれっきとした殺人行為だった。

彼女は宇野を殺すために、彼の首を絞めている。支配されて脅されて命令されて、ナイフを向けられているのとは訳が違う。今、この瞬間、確実に宇野の命は削られていっている。

「あははっははは……! ふふ……」

 やってやったという高揚と危機を脱した安堵からか、西寺さんがおかしくなったように笑う。

 恐ろしい光景だった。――だが、わたしたちの心にあるのは間違いなく安心だった。

 これで解放される。死ななくて済む。

「おい! 抑えるぞ!」

 八上くんの声ではっと我に返る。そうだ、まだ宇野は暴れている。

 はっと目を見開いたわたしと胡桃は、言われるがままになんとか苦しみから逃れようともがく宇野の胴体にしがみつく。暴れる宇野の動きが鈍くなる。

必死だった。そしてまた、その場にいる全員の思考はもう正常ではなかった。だからこそ、その場にいる全員が祈った――早く死んでくれと。

やがて、宇野が急に暴れるのをやめ、がくりと手を下に下ろした。

「はあっ、はあっ、はあっ」

荒い息を吐きながら、三人がゆっくりと起き上がる。

うつ伏せに横たわった宇野はしかし、顔だけは横を向いていた。苦痛に悶絶し、限界まで見開かれた目が虚空を見つめている。

誰もが暫くの間、何も言えなかった。

「死んだんだ、よな……」

ぽつり、と。初めに固まった空気を破ったのは響也の呟きだった。

……死んだ。そうだ、殺したのだ。人を。

ここにいる全員で宇野春樹を、三人を殺した連続殺人犯をこの手にかけたのだ。

「そ、そうだよ、わ、わたしたち、殺された皆の仇を討って」

「違う! 人殺しだっ。人殺しになったんだっ」

胡桃の言葉を遮って叫んだのは清水くんだった。

人殺し。その単語に揃って息を呑む。

それはあまりにも強力な言葉で、高揚感と非日常に惑わされていたわたしたちの目を覚まさせるには十分な威力を持っていた。

頭の中が真っ白になる。代わりにわたしの口から飛び出したのは空虚な言い訳だった。

「そ、そうかもしれないけど。これは、これは正当防衛だよ、ね……だって、こうでもしなきゃわたしたち、死んでたんだよ」

「そんなの関係ない。人を殺したってことに変わりはないんだ。しかも罪にならないとも限らない。僕らは西寺を人質に取られていたし、八上と僕に至っては互いにナイフを向けもした。けどまさに殺されようとしてた訳じゃなかった、過剰防衛で逮捕されるかもしれないっ」

「じゃあどうすればよかったって言うのっ?」

「そんなの知るかっ」

清水くんがみたび絶叫し、両耳を塞いでその場に蹲った。

途方に暮れる。どうすればよかったかなんて。……今更考えてももう遅いのだ。

「なあ、じゃあさ……このまま逃げちゃわねえか?」

「はあ? 何言ってんの?」

発された言葉に、胡桃がきつく眉を寄せた。その責めるような声に反発するかのように、響也は「だって!」と子供のように声を荒げる。

「殺したのは西寺だろ、それから柏木と村上だろ! 俺たちは、清水と俺は関係ない! ただの被害者だ! このまま逃げたって何も悪くないはずだろっ」

「ふざけんな! 全部わたしたちに押し付けようってわけ⁉」

「卑怯者で結構! 俺は何も悪くない。悪いのは全部宇野じゃねえか、俺じゃないっ」

「あんたねえッ」

憤怒で顔を真っ赤にした胡桃が、拳を握り締め響也の襟を鷲掴んだ。響也が顔を歪める。

そして。

「離せよっ」

力任せに響也は胡桃の肩を押した。

小さく悲鳴を上げて大きくよろけた胡桃が、後ろに倒れる。

瞬間、がっ、と。

軽いような重いような音が響き、胡桃の後頭部が、近くにあった机の角に打ち付けられた。

「えっ……」

ずるり。

間の抜けた響也の声が聞こえるのとほぼ同時、ずり落ちるようにして、胡桃が地面に倒れた。遅れるようにして、机の角から彼女の血らしき赤色が、ぽたりと落ちる。

嘘だ。そんな。

「胡桃ッ」

何かに弾かれるようにして駆け寄った。血を流して倒れ伏している友人を抱き起こす。

だが彼女はぴくりとも動かなかった。その目は固く閉じたまま。

「あ……お、俺……そんなつもりじゃ」

いやいやというように首を振る響也が、一歩、また一歩と後退りをする。

「なんてことするの。人殺しはどっちよぉっ」

「違うッ俺はッ――」

「うるっさいなあ」

 響也の声を誰かが遮る。声の主は西寺さんだった。

 彼女は不気味な顔で笑っていた。

「ここにいたんならみんな共犯じゃん。誰が人殺しとかどーでもいいよ。それよりさ、聞いてよ。あたし、全員が殺人犯にならないで済む方法を考えた」

「は……?」


「――柏木を殺したのは宇野ってことにすればいい。それで宇野の遺体は隠そう。そうすれば宇野は逮捕される前に逃げたって誰もが思うよ」


そんな。それじゃあ。

「それじゃ響也が何もしてないってことになっちゃう! 響也は胡桃を殺したんだよ⁉ そんなの絶対、絶対に許せないっ」

「じゃあ全部警察に言うの? あたしら人一人殺してんだよ? その場にいて止めなかった男子も、警察には捕まらないかもだけど世間からは共犯扱いされるに決まってんじゃん」

 言葉に詰まった。……その通りだった。誰も何も言えなかった。

川谷さんは黙り込んだわたしを見てから、そばに落ちていたナイフをハンカチで包むように拾い上げた。宇野が握っていた、折り畳みナイフよりも少し大振りのナイフだ。

「ちょっと待てよ」

顔を引き攣らせた響也が何かを言う前に、西寺さんの言葉を聞いていた清水くんが怒りを含んだ声を発した。

ハンカチでナイフを持ったままの川谷さんがゆっくりと彼を振り向く。

「僕は本当に何もしてない。共犯扱い、それがなんだ。死体遺棄の共犯者になるくらいなら僕はこのまま警察に行く」

「――じゃあ今あたしがあんたを殺す」

即座に返されたその答えに、驚愕に目を見開いた清水くんが目に見えて固まった。上手く息ができないのか、はくはくと口を開閉させる。

「あたし、まじだよ。もう一人殺してるんだし、もう一人くらい殺せる気がするし」

 西寺さんが笑い、清水くんが後ずさる。

 ……そういえば、彼女はもともとこういう嗜虐的な笑みをする人だった。先程は追い詰められる側になっていたから忘れていたが、彼女は中学でもいじめまがいのことをしているという噂があった。

西寺さんならやりかねないと、その場の全員が思った。

清水君が強く唇を噛む。そして絞り出すように言った。

「……僕は、何をすればいい」

「話が早くて助かるう」

西寺さんはそう言い、ハンカチで包んだナイフの持ち手を響也に押し付けた。

「宇野の死体はすぐそこの公園の池に沈めよ。確か奥の方に汚くて深い池があったよね」

「あ、ある。もうここ数年くらい掃除されてなくて、もうドブ水みたいになってるところ。暗いし深いし危ないしで子供は近寄るなって言われたことあるよ、わたし……」

「たしかに村上さんの言う通り、あそこは汚くて中の様子なんてわからない。重しをつけて沈めれば浮かんでこないかも。掃除はされるにしても多分まだまだ先だろうし、誰も近づかないし、死体の隠し場所にはちょうどいい……僕は身長も高いし、宇野の死体をそこまで背負っていけってことか」

「適任でしょ」

そう言って笑った西寺さんを、清水くんは一瞬鋭く睨みつけた。しかし軽く舌打ちだけをして、「わかった」と言った。

「それじゃあさっさと終わらせよ。夜だし、しかも常に大して人気もない公園だから、道にも中にも人はいないと思うけど」

 そうして、わたしたちは人気のない公園へ向かった。遺体を捨てるためだ。人がいないか確認して、監視カメラのない道を選んで、慎重に慎重を期して。

――きっとこの時、わたしたちは全員、間違いなくおかしかったのだと思う。

 しかし、だからこそ全員が協力した。上手くいくと思っていた。

 けれど。

「……みんな、何、やってるの……?」

 ノイズが入った。――それが川谷唯衣だった。


  *


 川谷さんに死体遺棄現場を目撃されたと判断した西寺さんの行動は素早かった。

 異様な空気を漂わせたわたしたちを見て、恐怖で逃げ出そうとした彼女を捕まえた。

「なんでここにいるのあんた」

「じゅっ塾に参考書忘れたことに気がついて、それでっ」

 なるほどと思った。彼女の親が厳しい――いや、モンスターペアレントであることは塾の中でも有名な話だ。連続殺人鬼がうろついているかもしれない夜に、一人で放り出されるのだから不憫な話だった。――しかもこんな場所に居合わせてしまうなんて。

「響也もいるの? 待って、どういうこと? なんであんな……池に人なんて……」

「黙れ」

 冷ややかな口調で命令され、川谷さんが黙り込んだ。それほどに迫力のある声だった。

彼女の視線が助けを求めるように響也に注がれたが、彼は気づかないふりをして目を逸らしている。

「今見たことは誰にも言うな」

「え、でも、いや……」

「もし言ったらお前の人生めちゃくちゃにしてやるからな。ずっとずっと付きまとって、絶対に破滅させてやるから」

 川谷さんの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。

「高校もあたしらと同じところを受けろ。そうじゃなきゃお前のことも殺してやる」

 黙っていれば悪いようにはしない。そう言い、にやあ、と彼女は笑った。高校も一緒のところに行って、見張っててやる。大学もその先も――。

 川谷さんは震えたまま何も言えない様子だった。西寺さんの様子はそれほどに異様だった。そしてわたしたちも何も言わなかった。言えなかったのではなく、言わなかったのだ――川谷さんに何かを『話された』ら、不都合があるのはわたしたちも同じだったからだ。


 それから、わたしたちは『友人』になった。

 高校でもずっと一緒で、周りからは『タイプの違った仲良しグループ』だと思われるようになった。お笑い種だった。

 川谷さんは――唯衣は、西寺さん――春花の脅しによって、高校受験を「失敗」したことで、唯一慕っていた父が離れて行ってしまったらしい。さらに母親がヒステリックなモンスターペアレントになったそうだ。不憫だと思った。――そうとしか思わなかったのだけれど。

 唯衣は可哀そうだった。可哀そうな被害者。

 でもそれはきっとわたしたちだって同じだった。もしもあの時、宇野さえ現れなければ。とっとと帰っていれば。もしも、もしも、もしも――。

 だから春花も響也も光輝もわたしも、胡桃や唯衣と同じで可哀そうな被害者だった。

 ――けれども春花は殺された。唯衣は不自然に襲われ記憶喪失になった。光輝も殺された。

 そういえば、わたしたちが「宇野春樹の四人目の被害者」にした胡桃は、なぜか「刺殺されて」いたらしい。おかしな話だ。わたしたちはあの後塾に戻ってなどいないのに。宇野は死んでいるのに。一体誰が胡桃を刺し殺したのだろう。

 まあ、そんなことはどうでもいいか。

 光輝が死んでも、わたしは特に何も感じなかった。もともと好きなタイプではなかったし――否。わたしもあの日から、どこかが壊れてしまったのだろう。ビニール紐を首に駆けられて悶絶する男を抑え込んだあの時から。


「ちょっといいかな」


 だからか。

 そんなふうに名前を呼ばれて振り返り、腹に冷たい感触が刺さった時も。

 面を上げてその顔を見た時、「見た顔だな」としか思わなかったのだろう。

六章


どういうことなのか。響也がなぜわたしを。

響也は先程までこちらの手にあった紺のスケジュール帳と、それからどこで手に入れたのか、汚れた鉄パイプのようなものを持っていた。

 ――高校生連続殺人犯は、柏木さんではなく、やはり響也だったのだろうか。

「響也がわたしを殴って気絶させて、ここまで連れてきたの……?」

「そう」

恐らくここは、あのカフェからそう離れていない。

 いくらこの身体が小柄で運びやすく、路地裏のために周囲の人目もあまりなかったにしても、あまり長い距離を気絶した女子高生を運んで移動するには無理がある。

(でもどうしてわざわざ気絶させてまでここに連れてきたの? 口封じをしたいのであれば、あの場で殺した方が手っ取り早かったはず)

「お前って気弱に見えて追い詰められたら肝据わるタイプ? 今だって意外に冷静だし」

響也は笑顔だったが、薄闇の中の目は笑っていない。

「春花に脅されて、三年間ずっと逆らわずにいたのに、最近になって抗おうとし出したし。知ってるんだぜ。全部誰かにぶちまけようとしてたんだろ――まあ、それは光輝もっぽかったけど。あいつもともと初めから警察行きたがってたしな」

「……やっぱり、わたしたちの間には共通の秘密があったんだ」

 そう呟きを零した、その瞬間だった。

 があん、と。薄暗い部屋の中でもはっきりと顔色を変えたのがわかる響也が、思い切り鉄パイプの先を床に叩きつけた。

「しらばっくれてんじゃねえよ! もうとっくに思い出してんだろ!」

次に響也は鉄パイプの先をこちらの鼻先に突きつけた。

「誤魔化されるとでも思ってんのか? あのスケジュール帳だって結局お前が持ってたんじゃねぇか! 騙しやがって!」

「ち、違う! 昔の記憶なんてまだ何も思い出してないっ」

 わたしが叫ぶと、響也がふと動きを止めた。すとん、と表情が顔から抜け散る。

「……ずっと思ってたんだ。殺さなきゃって」響也がぼそりと呟いた。「でも記憶がなくなってるんなら、そうする必要もないって思った。けどお前は記憶を取り戻そうとしてずっと動いていた。俺の焦りがわかるか? お前が記憶を取り戻したら俺は終わりだ」

それは、そうかもしれない。一旦逮捕されれば最早、響也が犯した他の殺人も芋づる式に明らかになるに違いない。

……いや、そんなことを考えている場合じゃない。

響也がわたしを殺そうとしているなら、少しでも逃げ出す隙を作らなくては。

「あ、の……ねえ、今は何時頃? もう夜? わたしはどのくらい寝てた?」

「あ? 今は翌日の朝七時だよ。俺は委員会の集まりって言って家を早く出たけど。それにしてもよく寝てたよなあ唯衣。ここ連れてきてから数時間しても起きないから仕方なく一旦家に帰ったんだよ」

朝七時。薄暗いこの部屋ではわからなかったが、夜が明けてるのか。その言葉が本当ならば母は今頃さぞ大騒ぎしているだろう。

「翌日まで放置されてた時点でわかってると思うけど、ここは人なんざ来ないからな。ここは最近、建物まるまる使われてなくなって、そろそろ撤去工事が始まる廃ビルだし、あの道には監視カメラもなく人通りも少ない」

「……なんで?」

「あ?」

「なんで響也、わたしを殺さなかったの。わざわざわたしをここに連れてきた理由がわからない。殺したとしてアリバイが証明できないから? でも目撃者もいないあの状況から響也を犯人として絞るのは困難だろうし、仮にアリバイがなくても、響也みたいに普段は一人で帰る高校生ならそれも不自然じゃない。学校じゃ上手く隠して仲がいい幼なじみを演じていたから動機もない」

唯一にして絶対の動機は宇野春樹殺害という共通の秘密だが、わたしを殺せばそれを知る人間は、もうこの世にはいなくなる――響也を除いて。

「どうしてわたしも他の三人みたいにさっさと口封じしなかったの?」

そう口にした瞬間だった。

響也の顔から一瞬で色と表情が失われた。

「なに、言ってんだ、お前……」

「何って、わたしは」

 

「春花も、光輝も、まりあも、殺したのはお前だろ?」


「……は?」

 刹那、衝撃に頭が真っ白になった。彼は一体、何の話をしているのだろう。

「何とぼけてんだよっ、お前が三人とも殺したんだろうがっ。今更嘘ついて騙そうったってそうはいかねえからな。お前は全部思い出してるんだ、間違いない。俺はこんなとこで死なない、お前に殺されたりしないっ」

「ちょ……待ってよっ」

「春花が殺されたって聞いてすぐにおかしいと思ったんだ。それで光輝、まりあって連続で殺されて、じゃああとはもう俺一人しか残ってないだろうがっ」

 思わず口調を繕わずに反論してしまうが、すぐに返された響也の言葉に目を見張る。

 あと一人。

 響也のスケジュール帳の、まりあの殺された日付に書かれた文字が不意に脳裏に蘇った。

「お前はいつも邪魔する。宇野の死体を遺棄した時も、お前さえいなければ……」

「死体? ちょっと待って。宇野を殺したの?」

「まだしらばっくれるつもりかよ。宇野が春花とまりあを襲ったから、春花が宇野を殺して、柏木とまりあが手伝った。皆で遺体を池まで運んだ。お前がその場に居合わせたんだろ!」

「嘘……」

 それなら――そうだ。おかしい。

 胡桃さんが宇野春樹殺害に関わっていたなら四人目の殺人はやはり宇野の仕業じゃない。

 そうか。やはりUNOは清水くんだったのだ。それを誰かに話そうとしていた――。

「でもお前は、いつの間にか記憶喪失になってて……」

「……、」

「それでも、ずっといつ記憶が戻るかってびくびくしてた。お前の記憶が戻ったら今度こそ殺されるって。春花たちみたいに」

「待って。それなら、響也はわたしを階段から突き落としてはないの?」

「違う。俺じゃない」

 わたしの「事故」は響也の仕業ではない。それなら……。

「……春花が殺された後、一回お前のところにも警察が来たんだよ。スケジュール帳読んだなら知ってるかもしんないけどな。もうその時には俺はお前が殺したんだろうと思ってたから、喜んだよ。ざまあみろって。だって、春花のことを一番恨んでたのはお前だったもんな。……けどお前は捕まらなかった。宇野春樹が疑われてたから」

そで響也が、徐に手にした鉄パイプを見下ろした。そしてこちらに視線を移す。

 胡乱な両目に、唾を飲み下した。

「本当はもう勘弁してほしいんだよ。俺だって人殺しになんてなりたくないんだよ。お前をここに連れてきたのも、この手で人を殺すのが怖かったからなんだよ。……でもさあ、しょうがないよな? お前をここでこのまま逃したら、いつか俺を殺すだろ?」

 鉄パイプの頭がゆっくりと持ち上げられる。――このままではまずい。

縛り忘れたのか紐が足りなかったのか、幸い足は縛られていない。けれど、こんな状態で体格差のある響也から逃げられる?

(どうしよう、どうしよう、どうしよう)

 響也が上段に鉄パイプを振り上げた。まずい、来る。

「――やっぱ死んでくれよ。俺のために」

 耳元で風を切る音がした。

 反射的に上半身を捻り横に転がると、一瞬肩に痛みが走った。振り下ろした鉄パイプの先が掠めたのだ。

 うつ伏せの状態からばっと顔を上げると、逆光のせいで表情を確認できない響也がもう一度鉄パイプを握り直すところだった。

息を呑み、急いで再び立ち上がる。瞬間、もう一度頭の上に鉄パイプが振り下ろされた。咄嗟に飛び退いて避けると、勢い余った鉄パイプの先が床を抉るように叩きつけられる。があん、という腹の底に響く音がして、響也が思い切り顔を歪める。床を殴りつけた衝撃が手に伝わってきたらしい。

「あーくそ、まじいってーな。ちょこまか動くなよ、お前、ほんとないわ」

 何か、何か武器は。鉄パイプを丸腰で相手にすることなんてできるはずがない。

いや、まずは手を自由にできる何かか。隙を見て逃げ出すことができたとしても、両手が自由になっていなければ、バランスが取れず思うように走れない。

「ちゃんとホームセンターで買い足しとくんだったな、ビニール紐。手だけでいいかと思ってたけど……いや、足の方縛っときゃよかったのか? しくったわ」

 響也が両手に息を吹きかけながらぶん、と一回頭を振った。

「鉄パイプ、わりと重いんだよ。ぶんぶん振り回してたら疲れるわけ。どうせここで終わりなんだからさあ、大人しくしててよ」

深い溜息をつきつつ、響也は苛立った様子でがん、がん、と鉄パイプの先で床を打つ。

 視線をずらさず、瞬きもせず、こちらをじっと見つめたまま同じ動作を繰り返す目の前の「幼なじみ」の異様さに、慄く。

 響也が虚ろな瞳でこちらを睨んだ。ぶん、ぶん、と振り回される鉄パイプの動きは鈍く、

避けるのはさほど難しくはないが、彼の目には明確な殺意が宿っている。

彼も限界なのだろう。恐怖という根源的な感情に支配され、もう正常な判断力は彼の中には残っていないのだ。

「なんでだよ、なんでだよ、なんで殺したんだ? 三年前のことはもう完結したじゃん。終わったことだった。誰もが、あの時あったことをなかったことにしただろ。どうして春花を殺したんだ? なかったことにしたことを、なんで掘り返したんだよおっ」

 のろのろとした動きだ、だが確実に壁際に追い詰められている。

 そして足元に転がっている空き瓶に目をつける。これを割れば、うまくすれば破片で紐が切れるのでは?

「俺もいずれお前に殺されるかもしれない。そう思って、俺はずっと怯えてた。それだけじゃない。三年前のことが誰かにバレるかもしれないとも思った。お前が春花を、清水を、まりあを……三年前の塾に通っていたやつらを次々殺したから」

 だが、うまく刃物のような破片ができたとして、それをどうやって使えばいいのか。

 正気を失い、かつこちらを殺そうとしている相手を目の前に、悠長に手を縛る紐を切っていられるはずがない。それどころか、一瞬でも気を緩めたら頭を割られてしまうだろう。

しかも、使うのがガラスの破片なら、ハサミで紐を切るよりも遥かに時間がかかるだろう。それを後ろ手でやるとなると、どう頑張っても数分はかかる作業だ。

なんとかして響也の攻撃から身を守れる時間が欲しい。

「なんとか言えよおいっ」

なら、あのスチールロッカーはどうだろう。空き瓶を割り、破片を手にした後、すぐにあのロッカーに飛び込んで扉を閉める。そして紐を切り、出る時は全力で響也に体当たりしてそのまま逃げ去る。

それなりに扉も側面も分厚く作られているように見えるので、何度か鉄パイプで殴打してもすぐには壊れないだろう。……時間稼ぎはできそうだ。

「聞いてんのかよぉっ」

 もう一度振り下ろされる鉄パイプを避けた、その体勢のまま空き瓶を掴み、思い切り床に叩きつける。耳を劈く甲高い音が響いた。

 瓶が割れた時に飛び散った細かいガラスの破片が足を傷つけたが、構っている暇はない。響也がこちらの予想外の行動に怯み、硬直している隙になるべく鋭そうな大きな破片を手にし、スチールロッカーに飛び込み、内側から鍵を閉める。

「んなとこに逃げたってムダだってのがわかんないのかよっ。出て来いよっ」

 がん、と重い音が狭いロッカー内に反響する。鉄パイプでロッカーを殴ったのか、と認識するよりも早く、連続して何度も重い音と鈍い衝撃が全身に伝わる。

 早く紐を切らなくては!

 後ろ手でガラスの破片を紐に擦り付ながら、切れて、早く切れて、と念じる。うまくいかずに破片が手首や腕の皮膚を傷つけるのも構わず、手首を拘束している紐に破片を当てて上下に動かす。

「出て来いよ、唯衣っ」

 殴られる度、蹴られる度ロッカーが揺れる。

ロッカーを満たし、脳髄まで浸透する重い音と衝撃に頭がおかしくなりそうだ。

歯を食いしばりながら手を動かす。

 が、再び、がんっ、という音と共に衝撃がロッカーを襲い、思考が中断された。

ロッカーが揺れ、中でバランスを崩したことによって横の壁に身体が叩きつけられる。途端破片の先が左腕に食い込み、熱い痛みに顔を歪めた。

「いッ……」

痛い。でもやらなきゃ死ぬ。すぐさま腕に刺さった破片を引き抜き、紐に当て直した。左腕の傷口から血が流れ、手を伝って床に落ちるのを感じながら、重い音が満ちるロッカーの中、ひたすら破片を動かす。

そして次の瞬間、手首を縛る紐が僅かに緩んだ。

……いける。

息を吸い込み、ぼろぼろになった紐を力任せに引き千切る。完全には切れていないが、なんとか隙間を作り、そこから無理やり手を抜く。……よし、これで両手に自由が戻った。

血に濡れた破片を捨て、未だ血が止まる気配のない左腕を押さえて顔を顰める。傷口がじんじんと熱い。否、痛いというよりも熱い。このまま血を流し続ければ、指先から徐々に体温が失われていくだろう。ロッカー内は暗く、傷の様子はよくは見えないが、放っておいていい怪我ではないということだけはわかる。

(どうしよう……)

仕方がない。一か八かだ。

 がん、とロッカーの下の辺りが蹴られたことを認識した瞬間、足に力を入れ、ロッカーから勢いよく飛び出す。殴られ続けて歪んだ扉は思うようにはうまく開かなかったが、足を扉にかけていたらしい響也は、うまい具合にバランスを崩してよろめいた。――よし!

「なっ」

 驚きに目を見開いた響也だったが、すぐに眉を吊り上げ、バランスを崩したまま中途半端に振り上げていた鉄パイプを縦に振り抜いた。

 頭に振り下ろされても直撃しないようにと、頭上にかかげていた左腕に鉄パイプの先が叩きつけられる。骨が砕ける激痛に声にならない悲鳴が漏れた。想像以上の痛みに、目の前に火花が散る。

 ――気を失うな! 死ぬぞ!

そう自分に言い聞かせて歯を食いしばり、ロッカーから飛び出した勢いのまま、バランスを崩しかけている響也に思い切り体当たりを喰らわせる。もんどりうって倒れた響也が背中をしたたかに床に打ち付けたのを横目に、出口に向かって走り出す。

「逃げてんじゃねえよおっ」

 その瞬間、地の底から響いたような怨嗟の声が鼓膜を揺らした。

思わず振り向こうとすれば、いつの間にか足元に投げつけられていた空き缶を踏み、転倒する。倒れる際にぼろぼろになった左腕が下敷きになり、再び目の前に火花が散るような激痛に呻いた。

「はあっ、はあっ……お前はここで死ぬって言ってんだろ、なんで逃げてんだよ」

 打ち付けた背中がまだ痛むのか、鉄パイプを杖にしてよろよろと起き上がった響也が、肩で息をしながらこちらを睨み下ろす。そして一歩一歩、覚束ない足取りながらもこちらに近づいてくる。

 ――逃げなくちゃ。

 頭の片隅でそう考えるが、激痛のせいで視界も思考も白んだままで、ろくな働きをしない。

 まずい。どうすれば。どうしよう。このままじゃ。

「お前みたいな悪魔、ここで死んだ方が世のためだよ。なあそうだろ」

 白む視界で、響也を見上げる。こちらを睨み下ろす彼の目にあったのは、怒りであり、焦りであり、怯懦であり、保身への願望だった。

「わたしは死なない。絶対……! あんたなんかに殺されない!」

「なんだと」

怒りに、響也が手に持った鉄パイプをゆるゆると持ち上げたのがわかった。

やられる。

 早く立たなくては、そう思って足に力を入れたが、再び左腕に激痛が走った。一瞬にして思考が痛みに染められる。動けない。

「うああああああっ!」

 瞬間、雄叫び。喉の奥から絞り出したような声にはっとして、わたしは強く目を瞑った。またロッカーを蹴られるか殴られるかするか――と、身を強張らせた時だった。

「清水くん? いますか?」

 ――聞き慣れない声がした。

 正確には聞いたことはある。だが、まともに話したのは一度しかない。

 響也はあからさまに動揺した様子だった。鉄パイプを取り落としたようで、床で鈍い音が跳ねる。そっとロッカーの通気口から様子を窺うと、まさに人が入ってくるところだった。

「み、緑川さん……⁉ どうしてここにっ」

「君こそこんな場所になんの用事だったんですか?」

「い、いや、それは……」

 緑川刑事。助かった。……そういえば、事件の「標的」のことは、なるべく刑事が遠くから見守るように配慮されていたと聞いたが、そのせいだろうか。

「実は尾けてきていたんですよ。君の行動が不審だったから」

「い、や、まさか……だって夕方は周りをちゃんと確認して……」

「ん? いや、僕が君を尾行したのは朝のことですよ。君が妙に早朝からこそこそとどこかに行くから気になってね。そうしたら廃ビルに入ったまま出てこないじゃないですか。何をしていたんですか?」

「それは……」

 響也が視線をうろつかせる。一方のわたしは安堵で腰が抜けそうになった。……しかし助かった。これで緑川刑事が響也を逮捕してくれれば、安心して出て行ける。

「まあ、なんでもいいんですけどね」

 緑川刑事が肩を竦める。そして遅くも速くもない、自然な足取りで響也との距離を詰めた。

 そう、緑川刑事の動きそのものは速くはなかった。

しかし自然な動作だったからこそ、反応ができなかったのかもしれない。

 次の瞬間、彼はまるで抱き着くような仕草で、響也の腹に右手を突き出していた。

「え、」

 緑川刑事が身体を離す。響也は動揺の表情から一転、意外そうな顔をして、膝から崩れ落ちた。

響也の腹から飛び出しているのは――ナイフの柄。

「あ……な……」

 悲鳴はなかった。

その代わり、間抜けな声を漏らしたが最後、響也は力なくその場に倒れた。

(え……⁉ どういう……どういうこと……)

 目の前で起きたことが信じられない。通気口から見える景色は限られているが、間違いない。響也が刺された。緑川刑事に。……どうなっているのだ。

「な……んで……」

「余計なことを知る人間を生かしておくわけにはいかないでしょう。あんなことを掲示板に書き込むからいけないんだ。あんなことを蒸し返すから……。あれは君たちの中の誰かの仕業でしょう? でなきゃあんな発言が出るわけないですもんねえ……」

 倒れ伏した響也の身体から、血が流れているのが見える。

 訳がわからない。訳がわからなかったが、わたしは自由になった手で、そっとスカートのポケットからスマホを取り出す。明かりが漏れないように、音が漏れないように、細心の注意を払いながら操作する。

「あんた……が……」

「うん? 三人を殺したのかって? そうですよ。君がいろいろ教えてくれて助かりました。僕一人じゃ君たちがどう動くのかを把握できないので」

 身体が震える。……まさか、刑事が真犯人? そんな、馬鹿な。

連続殺人事件は、清水くんが書き込んだ掲示板が発端だった? それに、響也と緑川刑事は頻繁にやり取りをしていたというこなのか? わたしと柏木さんのように――。

(この感じだと、響也は三年前に起きたこと、緑川刑事に話してた……?)

 刑事相手に自分がやってしまったことについて話をしたということなのか。それとも、うまく言い包められて話してしまった? 「わたし」や清水くんが、三年前に起こったことを誰かに話そうとしていたのを察知したから、自分も誰かに暴露しようと考えたのか。

 いずれにせよ、響也と緑川刑事は、情報を交換していたのだ。皆に隠れて。

緑川刑事は悲しそうな表情で「僕もこんなに殺すつもりはなかったんですよ」とかぶりを振った。「でも君たちが悪いんだ。大人しくしてくれればよかったのに」

「あ……」

「ん?」

 響也が痙攣しながら、右手を挙げた。そして、扉の外を指す。「ゆい……が……にげ……」

「ゆい? ……ああ。川谷さんか。君ここに川谷さん連れてきてたんですか。なるほどねえ……そういえば、緑川さんが言ってましたっけ。母親から通報があったと」

 力尽きたのか、響也の手が下ろされる。手が床に落とされるばたんという音を、わたしは呆然として聞いた。……彼は外を指し示した。唯衣が外に逃げたと。

 ――わたしを助けようとして?

「彼女も不憫ですよねえ。まあ、記憶喪失もどこまで本当かわかったもんじゃないですし、この際もう彼女も始末してしまうしかないですかねー」

 足音。息を潜めて、緑川刑事が遠ざかっていくのを見守る。

 もし外まで出て行ってくれたら、逃げ出す隙ができるかもしれない。

(そろそろ行ったはず)

 足音が聞こえなくなったあたりで、ロッカーの扉の音を立てないよう、そっと開く。

 心臓がばくばくと速く動くのを聞きながら、辺りを見回してほっと息をついた――行ったようだ。

(とにかく外に逃げなきゃ……でも、響也の機転で、緑川刑事は出口に向かったはずだから)

 出口の方に行くのは危険。となると。


「ああ、やっぱりそこにいました?」


 声。が――した。

 一瞬で足元まで血の気が引いた。そうか、ロッカーから死角になる位置まで隠れていたのか。足音は誤魔化していたのだろう。

 慌ててロッカーから離れる。せめて開けた場所に行かなければ。距離を……!

「あれ。手が自由になってますね。さすがに縛っていたと思うんですが、自分で解いたんですか?」

「……どうして……ここに」

「あなたの隠れているロッカーだけボコボコになっていましたからね。八上くんが鉄パイプで殴ったんでしょう。ロッカーから出てもらわなくては困るので、自分から出てきてもらえるように一芝居打ったというわけです」

 緑川刑事が笑う。その手にはナイフがあった。てらてらと血に濡れている。

 ――響也の血だ。

「……ロッカーに入ってたままだとナイフで刺せないからですか」

「おお、そうです。その通り。よくわかりましたね」

 連続殺人に見せかけるなら、わたしたち二人とも同じナイフで刺さなければならない。

 ということは、わたしを殺すのに銃は使えないということだ。銃声は響くし、何より、連続殺人の現場で銃が使われていれば不自然極まりない。

(どうにかして時間を稼ぐ……稼いで……隙を作る)

 後ずさりしていくと、足元でじゃり、という音がした。そして、近くには鉄パイプ。

 わたしの視線の先を見ていたのか、緑川刑事が苦笑した。

「まさかその鉄パイプで応戦しようという気ですか? そんなボロボロの腕で鉄パイプなんて振るえるんです?」

「……なんで……なんでみんなを殺したんですか?」

「は? 君だってさっき聞いたでしょう。余計なことを知る人間を生かしておけないんです。僕だって殺したくなかったんですってば」

 視線を逸らさず、その場にゆっくりと屈む。少しでも目を離したら襲い掛かられそうだった。恐怖と緊張で、息が荒くなる。

「……あなたが犯人だと知って、納得する部分もあったんです。三年前の事件にも関わっていた刑事なら、宇野春樹が使った凶器を知らないはずがない。響也や彼じゃこじつけの理由しか浮かばなかったけど、犯人が刑事なら納得です」

「へえ、よく考えてる……君、本当に記憶喪失ですか?」

「記憶喪失だからこそ、わたしは自分が『何もしていない』と自分に証明したかった」

 なるほどねー、と緑川刑事がわたしから目を逸らさずに言う。

「響也から何を聞いたんですか。三年前、響也たちが宇野を殺して遺体を始末したことも聞いたんですか? 一体どうやって聞き出したんですか」

「もともと連絡先は教えてあったのでね。向こうから連絡してきたんですよ。脅されているから今まで言えなかったが、とある知人たちが宇野春樹を殺して遺棄したんだとね。自分は直接関わっておらず脅されて黙っていたっていう主張はどこまで本当か知りませんが。まあ、それ以降の付き合いです」

 つまりそこで緑川刑事は「グループ」のメンバーを知ったのか。だが――。

「どうしてそれでその「知人」たちをあなたが殺さなくちゃいけなかったんですか」

 彼は清水くんの掲示板がきっかけで、みんなを殺そうと決めた、という趣旨の発言をしていた。ということはつまり彼は、宇野を殺した「彼ら」にしか知り得ない秘密を、暴露されたら困る人物だった――だから、みんなを殺さなければいけなかった。

「彼らはあなたにとって、暴かれたら困る秘密を握っていた――それはたぶん、四件目、柏木胡桃の死が宇野春樹の犯行じゃなかったということ。それなら、

 柏木胡桃を殺したのはあなただったということ――」

 刹那、緑川刑事の顔色が変わった。眼光鋭くわたしを睨めつけ、そのままこちらに向かって突進してくる。わたしは屈んだまま、側に合った鉄パイプではなく、自分でたたき割った空き瓶の欠片を掴んだ。掌が切れる感覚。だがそんなことはどうでもいい。

 わたしはそのまま、こちらに突進してきた彼の顔に、至近距離からガラス片を投げつけた。

「ぎゃあああっ」

 悲鳴を上げ、目を押さえた緑川刑事がよろめく。

――今だ!

 慌てて駆け出し、出口を目指す。もう朝なら、外に出ればきっとどうとでもなる。向こうは銃が使えない。それに返り血を浴びているから、外までは追っては来れないはず。

「はあっはあっはあっ」

 ビルの構造はわからないが、階段を見つけ出して下に駆け下りる。追ってくる気配はあるが、すぐ後ろまで来ているわけでもない。

 嫌だ。嫌だ。死ぬのは嫌だ。痛いのも――。

 倒れ伏した響也の様子が思い浮かぶ。腹の下に血だまりができていた。傍に立ったわたしの靴の底も血で汚れているだろう。最後に助けてくれようとした様子が思い浮かぶ。わたしは響也を見捨てて逃げている――。

「あっ出口…………え」

 扉に手をかける。揺らす。――開かない。鍵が掛けられているわけではなさそうだ。それなら、扉自体に開かないように細工が施されている?

「いたた……。よくやりますね。ガラス、思いっきり目に入ったんですが……。どうするんです失明しちゃったら」

 背後から聞こえてきた声に、弾かれたように振り返る。少し距離が開いたその場所に、緑川刑事――連続殺人犯が立っていた。顔にはいくつかの切り傷。瞼が傷ついたのか、目から血を流している。

「嘘……っ」

「いやあ、入ってくる時に細工くらいするでしょ。逃げられたら困るんですから」

 そうか。だからあんなあっさりわたしを逃がしたのか。ここが開かないことがわかっていたから。

 ――どうしよう。

 蟀谷から冷や汗が垂れ、顎を伝って足元に落ちる。心臓が先程までとは比べ物にならないほどに速く鼓動する。

 死ぬかもしれない。ここで殺されるかもしれない。そんな実感が、全身を包み込む。

(にげ、逃げなくちゃ……)

 だが、足に力を入れようとした途端、怪我をした足に激痛が走った。足がもつれ、そのまま横に倒れ込む。体をひねる間もなく折れた腕を下敷きにして転んでしまい、稲妻のような痛みが全身を駆け巡った。

「がああっ」

 涙が出る。鼻水も出る。体が震える。だめだ泣くな。立て。立て。立て。

「根性ありますねー」

 上体を起こしたところで面白そうに連続殺人犯が言った。時間を。時間を稼がなくては。

「どうして……どうして胡桃さんを殺したの⁉」

「ん?」

「どうしてあなたがあの塾に行ったの? 宇野は、その時もう、みんなに遺棄されてたの?」

「――僕があの塾に行ったのは呼ばれたからですよ。胡桃さんにね」

 応えてくれたことにほっとしたのも束の間、その内容に目を見張った。

「呼ばれた?」

「ええ。宇野春樹に襲われたと。頭を思い切り机の角に打って、気がついたら、宇野もみんなも消えていたと。非常に混乱しているようでしたよ」

「それで、あなたに助けを求めた……?」

「そうです。三年前、中学生連続殺人事件の件で彼女に聞き込みをした時、名刺を渡しておいたんですよ。その時からかわいらしい子だと思っていました……だから、僕を選んでくれたと感動したんですが……」

 残念なことに彼女は僕を裏切った。彼は低い声でそう言う。

「彼女は僕を呼んで、しばらく記憶が混濁している様子でした。頭をしたたかに打ち付けたので当然ですね。それで、何があったのかを思い出したと言いました。宇野春樹に襲われた。それで宇野春樹を仲間と一緒に殺してしまったのだと」

「それで……どうしたんですか」

「君のしたことは黙っておいてあげると提案してあげたんですよ。僕の愛を受け取ってもらう代わりにね」

「は……?」

 あいを。――愛を? 

 まさか。この人は中学生に対して――馬鹿な。痛みを凌ぐ吐き気がこみあげてきて、思わず動く方の手で口を押さえる。

「けれど彼女は断った。僕は裏切られたんです。せっかく善意で提案してあげたことだったのに……それなのに……」

 だから殺しました。そこに転がったままの宇野春樹のナイフで――。

「僕は悲しかった……とてもとても悲しかったんです。わかってくれますか?」

 わかるはずがない。

 この男は、罪を見逃してやる代わりに自分の女になれと中学生に言ったのか。おぞましい。かつて自分の友人だったという柏木胡桃を思う。信頼して助けを呼んだ刑事に言い寄られて、彼女はどれほど恐ろしかっただろうか。

「ああ、そうだ。もしよければ君のことも殺さないであげてもいいんですよ」

「は……?」

 殺人鬼が笑う。柔和な笑みだったが、わたしには、化け物が笑ったらこんな顔をするのではないかという表情に見えた。

「君が彼女の代わりに、僕の想いを受け取ってくれたらですが」

 どうでしょう。君が僕を裏切らないでくれたら、それでいいんですが。

 ――その言葉を聞きながら、わたしは、目を覚ましてからのことを思い出す。

 友人は全員偽物だった。母はわたしを恨んでいる。ずっと不自由で孤独だった「川谷唯衣」は、真面目で優秀だが気弱だったらしい。西寺春花に脅されるまま、ずっと偽物の人間関係に甘んじていたほど。

 一方でそれを変えようともしていた。何も形にできていなかったが、全てぶちまけてしまおうとも考えていた。その準備を始めていた。殺してやる。許せない。めちゃくちゃにしてやる。――夢の中で聞こえた言葉はきっと、弱かった川谷唯衣なりの決意表明だった。

わたしはきっと、西寺春花を、偽の友人たちを、母を殺したかったのだろう。本当に手にかけようとは考えていなかっただろうが。……けれど誰より殺したかったのは、人の言いなりになる自分自身だったはずだ。

記憶を失っていてもなんとなくわかった。

「……あははっ」

「どうしました?」

 何故なら他ならぬ、自分自身のことだ。


「――糞くらえですよ」


 そうか、と彼は言った。「悲しいけれど、残念です」

 ゆっくりと近寄ってくる緑川の顔を見上げる。悲しげな顔をしているこの男が、どのくらい悲しんでいるのかはわたしにはわからない。

 ナイフが振り上げられる。鈍い光を放つ。目を逸らさない。

そして。

「うおおおおおっ」

 がん、と重い音が轟いて、閉ざされていた扉が蹴り開かれた。そして、目にも止まらぬ速さで緑川の持っていたナイフが弾き飛ばされ、雪崩れ込んできたスーツの男たちが彼を取り押さえる。「午前七時三十五分っ、殺人未遂で現行犯逮捕!」

 わたしはゆっくりと、立ち上がり、扉の前に立っている人を見た。スカートのポケットをおさえ、肩の力を抜く。――助かった。その実感が、安堵とともに全身を包んだ。

 そしてそのまま、気を失った。

終章


 病室で本を読んでいると、「川谷さん」と声を掛けられた。顔を上げると、見知った顔がベッドの傍までやってきている。

「柏木さん。こんにちは」

「お見舞いに来たよ。これ差し入れ。……災難だったな、川谷さん」

 ベッドの傍の椅子に腰かけた彼に、まったくですね、と笑って返す。とはいえ、わたしは助かった。満身創痍で左腕は複雑骨折という怪我を負ったが、命はある。――本当に紙一重だったが。

「それにしても、よく警察が現場に駆けつけてくれたな。ぎりぎりだったんだろう」

「あの人と追いかけっこをする前に、既に一一〇番に電話をかけていたんですよ」

 ――あの時。

 そう、まだ響也に殺される危機を脱しておらず、ロッカーに閉じこもっていたあの時だ。

 緊急連絡ボタンを押して一一〇くらいなら、すぐに押せる。

 声を出すわけにはいかなかったので、とりあえず通話中のままにして、助けを待った。今の警察の技術なら、スマホから位置を辿れるのではないかと思ったからだ。

だから、逃げることができないまでも、できるだけ時間を稼ぐ必要があったのだ。

「通話しなくても、こっちの声を拾ってくれて、異変を察知して駆けつけてくれて……。警察の人ってすごいですね。本当に助かりました」

 響也も、わたしが手ぶらだったから、スマホも持っていないと考えて思い込んだのかもしれない。ポケットの中を見なかったのは響也が迂闊だったということになるが、それでわたしは命拾いした。

「……まあ、事件もこれで終わりだな。長かったが……」

「はい。……胡桃さんを殺した本当の犯人、わかってよかった、ですね」

 そうだな、と柏木さんが空虚そうに頷く。

テレビはここ数日ずっと、現役の警察官が連続殺人に関わっていたことで賑わっていた。

 ――緑川は、本人が言っていた通り、事件の捜査中に知り合った柏木胡桃に思いを寄せていたらしい。思いを寄せて、という言葉で誤魔化してはいても、要はおぞましいことに、十以上年下の少女に劣情を抱いていたということだ。

 そして歪んだ想いを彼女に向けて撃沈。激高のまま殺した。そして偶然清水くんの掲示板を発見したことから、「グループ」の中ですべてを告白しようとする者が出てくる前に口封じをしようと、今回の連続殺人事件を決行したというのだ。

 響也は非常に危ない状態で病院に搬送され、命はなんとか助かったが今なお集中治療室におり、生死の淵を彷徨っている。そのため未だ、宇野を殺した三年前、本当は何があったのかを正確に知ることはできていない。だが、胡桃さんが塾の仲間である四人に一度見捨てられたことであろうということは、ほとんど間違いない。

緑川が捕まろうが、胡桃さんは帰ってこない。

だからこそ柏木さんは虚しそうなのだろう。

「やっぱり、柏木さんはかしわもちさんで、清水くんと会ってたんですね」

「ああ。途中で胡桃の身内だと名乗ったら逃げられたから、得られた情報なんてほとんどなかったけどな。おかげでわかったのは彼には秘密を共有する四人の「仲間」がいるってことだけだ。その時は、清水くんの反応が怪しすぎたから、君らが胡桃を殺したんだと疑ってた」

「もしかして、わたしと会ったのも」

「偶然じゃない。疑ってたから、会えないかと思って張ってた。記憶喪失なのは知らなかったから焦ったけど」

「やっぱり待ち伏せしてたんですね……」

 ということは、柏木さんも話の中で、いくつか嘘を吐いたことがあるということだ。不審者でごめん、と面目なさそうに柏木さんが言う。

 ……とはいえ、終わったことだ。わたしは苦笑して、大丈夫ですよ、とそう言った。

 しばらくの沈黙ののち、先に口を開いたのは柏木さんだった。

「――結局、君のことを突き落とした人間が誰かはわからなかったな。緑川は君に対する殺人未遂については認めなかったんだろ?」

「そうですね。でもそのことですが……わたしを突き落としたのは、母なんじゃないかと思っているんです」

「え……」

 一連の事件を受け、わたしの「事故」に関しても、警察は改めて事件として調べてくれているらしい。その際こっそり耳にした話だと、事故の日のあった夜、家でわたしと母が激しい口論をしていたと近所の人が証言したらしいのだ。そして「わたし」が家を飛び出し、件の公園の方へ走っていくのと、母親が「待ちなさいよ!」と叫びながらその後を追っているところを目撃した人もいる。

「まだ、母が犯人かはわかりません。そもそも、母親に追いかけられたわたしが焦って足を滑らせただけかもしれませんし……母の様子だと、どちらかというとそっちの可能性が高いと思ってるんです」

 それに、と言葉を続けた。

「……もし前者だったとして、母が正直に自分がやったと認めるとは思えないですし。だから、この件に関しても、わたしの記憶が戻るまでは何もわからないかもしれませんね」

「そうか……」

 柏木さんが苦笑する。

「それなら、早く思い出さなくちゃな」

「……わたしはもう、思い出さなくてもいいような気がしてきたんです」

「え?」

 意外そうに目を瞬かせる柏木さんから視線を外し、窓の外を見た。

 記憶を失ったままとはいえ、全く何も思い出さないわけではない。「以前こんなことがあったような気がする」程度の感触であれば、朧げにだが記憶が戻りつつある。

 だから別に、もう無理に思い出そうとする必要はないような気がするのだ。

 ――何せ今になってようやく、わたしは自由になれた。三年前から縛り付けられてきた柵がなくなり、新しく生まれ変わったのだから。

「わたし、多分これからは父と暮らすことになると思います。母は……母のことは心配ですが、一緒にいたら、お互いにとってよくないと思うので」

 これまで、わたしの意志も友人も、嘘と偽物に塗れていた。成績優秀な優等生も母の作った幻像で、友人たちは偽物。わたしにさえ、わたしがどういう人間だったのかはわからない。きっと、記憶を失う前のわたしにだってわからなかっただろう。長らく嘘の中で生活していた「わたし」には。

「わたしは、今までずっと、誰かに言われるままの人生を生きてきたみたいなので。少しは嘘じゃなく、本当にやりたいことを見つけたいな、なんて思ってます。友達だって、今度こそ自分で選んでやるんです」

「そうか……、うん。そうだな。それがいいんじゃないか」

 柏木さんが椅子から立ち上がり、笑った。

「僕も、前向きに生きてみるとするか。ようやく、事件もひと段落したんだし」

 簡単に忘れられることではないだろう。だが、そうできるなら、そうした方がいい。「……そうですね」

「じゃあ、僕はこれで……おっと」

 立ち去ろうとした柏木さんがふと足を止めて、こちらを振り返った。「お友達が来てるぞ」

「え?」

 わたしが目を丸くすると同時に、ベッドに駆け寄ってきた人影があった。それとすれ違うように、柏木さんが病室を出て行く。

「川谷さん、大丈夫? な、なんか響也のせいで、怪我をしたみたいな話、聞いて……」

「わ、渡部さん?」

 こちらに駆け寄ってきたのは、響也の彼女――渡部さんだった。お見舞いに来てくれたのか、手にお菓子の袋らしきものを持っている。

「ごめん、わたしがあんなスケジュール帳渡したからあ……」

「あああああ違う、違うから落ち着いて……」

 わあ、と泣き出した渡部さんに慌てる。本当に彼女のせいではない。

「だって、あのスケジュール帳渡した直後にこんなことになって……」

「大丈夫、本当に大丈夫だから。むしろ大変なことになってるのは響也だし」

「それは……そうだけど。響也のことも心配だけど、でもやっぱり申し訳なくてえ……」

 鼻をすする渡部さんを見て、わたしは眉を下げた。

 彼女はちゃんと、響也のことを好きだったのだろう。おそらく響也も彼女のことはちゃんと好きで、それでも、嘘と隠し事で自分を塗り固めていた――。

 彼女はそれでも、これからも響也のことを好きでいるのだろうか。

 ……どちらでもいいか、と思った。どちらを選んだところで、渡部さんの自由だ。

「あの、渡部さん。本当に気にしなくていいから。それと、いきなり変なこと言って申し訳ないんだけど……」

「え……?」

 渡部さんが不思議そうにこちらを見る。わたしは笑った。


「わたしと、友達になってくれないかな?」




fin


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