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第9回 小谷承靖監督と成城大学馬術部のことなど

 2020年末に亡くなられた小谷承靖(つぐのぶ)監督のことはご存知でしょうか? 疎開先の鳥取の高校から東京大学文学部仏文学科に進学。卒業後の1960年、東宝の助監督となったのは、同郷の先輩女優・司葉子さんの推薦によるものでした。当時の東宝では、縁故のない者はまず受験できなかったと監督から伺ったことがあります。
 小谷監督とは10年ほど前に親交を結び、何度か上映会とトークショーをご一緒させていただきました。様々なイベントにも呼んでいただき、中真千子(成城居住)、ひし美ゆり子、赤座美代子などの女優さん、上田正治、稲垣涌三(成城学園卒)の両キャメラマン、さらには脚本家の白坂依志夫氏(成城居住の八住利雄の子息で、成城学園出身)や重森孝子氏まで多くの映画人を紹介していただいたことで、私は今、このような一文を綴ることができています。
 加山雄三さんが日本武道館で‶若大将50年〟ライブを行った日には、これに対抗して祖師谷の小さなライブハウス「IKEDA」で、監督のデビュー作『俺の空だぜ!若大将』(70)の上映会を催したこともありました。このとき聞いた、『南太平洋の若大将』(67)で加山雄三の体のある部分を黒マジックで塗らされたという、助監督時代の秘話は忘れられません。
 小谷監督が、最初に助監督として就いたのが巨匠・稲垣浩監督です。奇しくも稲垣監督は、のちに相澤英之氏(衆議院議員)と結婚した司さんと隣人同士となり、先に名前が出た稲垣涌三氏(円谷プロや実相寺昭雄監督作品の撮影を務めた)は次男に当たります。続いて就いたのは、名匠・成瀬己喜男(祖師谷、成城に居住)。大きな影響を受けたのでしょう、自分が監督するときは、いつも「成瀬さんならどう撮るか」を意識して撮影に臨んでいたそうです。
 大林宣彦監督からは、東宝撮影所で初めて『HOUSE』(77)を撮ることになったとき、小谷監督にとてもお世話になったと聞いています。外部の者が‶東宝映画〟を撮るなど、到底考えられなかった時代のことですから、妨害や嫌がらせでなく、後押しを受けたことがよほど嬉しかったのでしょう。これは小谷監督の人間性がよく分かる逸話です。

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 小谷監督も東宝の諸先輩に倣い、成城や狛江(大林監督宅の近所)に住み続けた方ですが、『俺の空だぜ!若大将』では、かつて成城七丁目の成城ゴルフ・クラブの正面にあったドライブ・レストラン「OAK」を、最高傑作と称される『はつ恋』(75:ツルゲーネフ原作)の撮影の際には、成城大の馬場と仙川沿いの小道をロケ地に選んでいます。
 この馬場は小田急線の車窓からも眺められ、「いかにも成城」といった好イメージを発していました。匂いや排水の問題もあり、95年にはグラウンドを設けた伊勢原への移転を余儀なくされ、今この地に馬の姿はありません。ロケにヒロインの仁科明子は参加していないものの、相手役の井上純一とその父の二谷英明が馬を操るシーンが当馬場と仙川沿いで撮影されていますので、未見の方は是非ご覧ください。少年が抱く大人の女性への恋心と傷心の様子が色鮮やかに描かれていて、かの荒井晴彦氏が小谷監督に対して「最高傑作にして唯一の傑作」と捻(ひね)くれた褒め方をしていたことが思い出されます。

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 70年以上の歴史を誇る成城大の馬術部ですが、実は他大ではあまり手を染めなかった映画へのエキストラ出演を多数こなしています。黒澤明の傑作時代劇『七人の侍』(54)では、毎朝、大蔵(現在の大蔵団地)の村のセットに仙川沿いに馬を引いて出動。撮影が終わると、仙川の水で顔のドーランを落として厩舎に戻ったと聞きます。ほかにも、『隠し砦の三悪人』(58)ではヒロインの雪姫(上原美佐:結婚後に成城に居住)の替え玉、テレビ時代劇の『白馬童子』(60)では主演の山城新伍のスタンドインに扮した成城大の馬術部員たち。彼らこそ、日本映画と草創期のテレビ界の隠れたヒーローと言ってよいでしょう。

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※『砧』816号(2021年4月発行)より転載

【筆者紹介】
高田雅彦(たかだ まさひこ) 日本映画研究家。学校法人成城学園の元職員で、成城の街と日本映画に関する著作を多数執筆。『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『山の手「成城」の社会史』(共著/青弓社)、『「七人の侍」ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)の他、近著に『今だから!植木等』(同)がある。