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第6回 成城に住み続けた‶世界のミフネ〟

 いよいよ2021年がスタート。本年が希望と日常を取り戻す年となりますよう、心から願っております。
 さて、かつては年末から正月にかけての楽しみのひとつに映画がありました。「正月映画」と呼ばれた作品にはいつもに増した華やかさが感じられ、気持ちが高ぶったものです。これは東宝映画の例ですが、黒澤明の時代劇だったり、クレージーキャッツや森繁久彌の喜劇だったり、あるいは子供向けの怪獣映画だったり、加山雄三の若大将ものだったり、ときには円谷英二の特撮を売り物にする戦争映画もありました。どれも煌びやかな俳優たちに目を奪われたものですが、中でも特別に輝いて見えたのが三船敏郎という俳優です。
 私の三船との出会いは、59年公開の『日本誕生』という映画。監督は、黒澤明と並ぶ‶巨匠〟の稲垣浩(この方も、酔った三船にバカヤローと言われた一人)、脚本の一人はベテランの八住利雄、共演は司葉子で、三船を含め皆〈成城の住人〉と知るのは、かなりのちのことになります。日本の神話世界を、三船扮する日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と須佐之男(スサノオ)(二役)を中心に描くスペクタクル巨編の本作、ノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロ氏が長崎時代に、本作の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)のシーンを興奮して見たとの記事に接した時は、同年代ならではの親近感を覚えたものです。このシーンは無論、円谷英二の特撮によるものですが、のちに『三大怪獣地球最大の決戦』でキングギドラが登場したときは、イシグロ氏もこの映画を思い出したに違いありません。
 というわけで、今回は正月に相応しいスケールを持つ三船敏郎をとり上げます。中国の青島(チンタオ)に生まれ、大連で育った三船の家業は「スター写真館」なる写真屋さん。まるでスターになることを約束されていたかのような屋号ですが、コスモポリタン都市で育ったことも、国際スターとして活躍する下地となります。時は戦時下、三船は兵隊にとられ、足かけ七年間も軍隊生活を送ります。持ち前の反骨心から上官に反抗を繰り返し、上等兵どまりとなりましたが、家業の関係で航空写真を扱う任務を担ったことから、前線にも特攻隊にも送られることなく終戦を迎えます。これも実に運命的なことでした。
 戦争が終わると、三船はキャメラマンになろうと、戦友を頼って東宝撮影所に履歴書を出します。ところが、復員するキャメラマンが増え、その履歴書はなんと第一回目の俳優募集「ニューフェイス」選考へと回されていきます。かくして試験に補欠合格した三船は、心ならずも俳優の道を歩むことに――。最初の主役級の仕事が、成城学園の山小屋「太極荘」に寝泊まりして撮った『銀嶺の果て』(47)という映画だったことにも、奇縁を感じます。

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 戦争を経験した俳優は数多かれど、あれほどの野性味と迫力を持った役者など他にいません。三船はすぐに黒澤明に見出され、人気俳優に上りつめていきます。嫌々やった仕事が、自分の天職だったわけですから、人生とは本当にわからないものです。
 『銀嶺の果て』で仕事を共にした助監督・岡本喜八と成城で下宿生活を送った三船が、結婚後最初に持った自宅は「成城町七七七番」。なんと縁起のいい地番でしょうか。やがて、斜向かいのU氏の大邸宅と家を交換することになりますが、当初は近所に住む志村喬夫妻の家の風呂に入れてもらっていたとのことですから、三船も成城独特の垣根の低い付き合い方を実践していたことになります。

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 世界を目指す三船が、初出演した米映画『グラン・プリ』(66)で得たギャラ30万ドル。その内の5万ドル(1,800万円)を使って入手したのが、ミッチェルという、当時ですらほとんど用途のない旧式大型キャメラでした。自らのプロダクションと撮影所を成城に構えた三船が、使いもしない機材に大金をはたいたのは何故か? これも、キャメラマンになりたかった夢を諦めきれなかったからと考えれば、大いに納得です。

※『砧』813号(2021年1月発行)より転載

【筆者紹介】
高田雅彦(たかだ まさひこ) 日本映画研究家。学校法人成城学園の元職員で、成城の街と日本映画に関する著作を多数執筆。『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『山の手「成城」の社会史』(共著/青弓社)、『「七人の侍」ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)の他、近著に『今だから!植木等』(同)がある。