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第4回 『七人の侍』大蔵撮影現場の謎

 2020年7月に上梓した『七人の侍 ロケ地の謎を探る』ですが、同年9月にはキネマ旬報、映画秘宝のほか、朝日新聞に成城在住の横尾忠則さんの書評が載るなど、多くの媒体で紹介いただきました。その中に、週刊文春のコラムで小林信彦さんが書いた「成城という土地が映画史上いかに貴重かというのは、今日になれば全くわからない」という一文がありますが、まさに私は、この事実を少しでも後世に伝えるため、こうした本を出し、この連載コラムを書いています。成城にお住まいの方々には、これからも映画と成城の不思議な関係を語り続けていきますので、どうぞお付き合いください。
 さて、この映画で侍たちが命がけ(ドストエフスキー文学に見る自己犠牲的精神)で守る農民たちの村は、現在建て替え中の大蔵住宅15号棟の辺りに作られました。ところが、村の様々なシーンを撮るには当地だけでは足らず、撮影隊はいくつかの土地にロケに出向くこととなります。

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 村の全景を見下ろす伊豆の下丹那(最初に決まったロケ地。当地では野武士の騎馬が逆落としで駆け下りるショットも撮影)、麦刈りや稲を植える田畑、さらには炎上する水車小屋などを撮った同じく伊豆の堀切、水神の森でのやり取りや騎馬が杉林に突入してくるショットを撮った御殿場の二岡神社近辺、さらには防柵を設けて侵入を防いだ同じ御殿場の東田中、大きくは大蔵を含めたこの五か所で撮影したショットを黒澤は巧みに組み合わせ、まるで一つの場所で撮影したかのごとき〝マジック〟を見せています。
 筆者は、「小田急まなたび」などで映画ロケ地を案内するスタッフとともに、繰り返しこれらの地に赴き、当時の航空写真や撮影スチ―ルに写り込む山の稜線、道や畦道の様子、見物人の状況、さらには現地の方々の証言など様々な情報を総合的に勘案して、ほぼその撮影場所を特定しました。ただ、六十何年も経てば、その風景が激変するのは当たり前。山の稜線が変わってしまったり、よもやここであの戦国時代劇が撮られたとは、と驚嘆するような都会的な場所もありました。
 それでも、推測でしか述べられなかった現場がひとつだけあります。それは、杉の小道を突撃してくる騎馬を迎え撃つ「村の北」シーンを撮った場所。拙著では、水道道路沿いに建つ大蔵住宅内にある森の崖下と推定しているものの、唯一確証のないロケ地です。映画で見られる日の差し方からすると、東西に延びる森の南側を利用して撮影されたことは明らかですが、画面やスチールには何の目印もヒントも残されていません。
 それがこの度、一念が通じたものか、本作の美術スタッフ・竹中和雄さんにその場所を伺うことができました。竹中さんは松山崇美術監督(旧制成城高校卒)の助手を務めた方で、筆者の質問に、こう答えてくれました。
 「村の北は、大蔵(団地)のオープンセットの南側、水神に至るまでの山(愛宕山)の斜面を利用して撮りました。この辺りは、当時は細い木しか生えていなかったので、美術スタッフが作った杉の大木を、二の岡からこちらに移して設えました」。

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 これでは、いくら画面を見ても判らないはずです。あの杉の森や道は、なんと人工的に作り上げられたものだったのです。それに、今では子供たちが魚を捕まえている光景をよく見る小川の辺りも、当時は湧水がチョロチョロ流れ出てくるようなところ(映画では宮口精二の久蔵が剣の稽古をする)で、現在とはまるで様相を異にしていたといいます。筆者は、水道道路側の崖下でなければ、大蔵総合運動場から多摩堤通り方面へと抜ける坂道の西側「大蔵四丁目2-16」近辺かとも考えていたのですが、その位置はだいぶずれていたことになります。この度、こうした事実はまさに生き証人である映画スタッフ、あるいは目撃した地元の方々に伺うのが一番と、改めて実感したところです。

※『砧』811号(2020年11月発行)より転載

【筆者紹介】
高田雅彦(たかだ まさひこ) 日本映画研究家。学校法人成城学園の元職員で、成城の街と日本映画に関する著作を多数執筆。『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『山の手「成城」の社会史』(共著/青弓社)、『「七人の侍」ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)の他、近著に『今だから!植木等』(同)がある。