災害ボランティアを思う

 災害ボランティアを思う災害ボランティアは自発的に困った方々を助けようとしている個人あるいは集団だ。それを行政がコントロールしようとするのはどうなのだろう。東日本大震災の時も道路状況や津波被害の特殊性を理由に、市民のボランディアは来ないようにという呼びかけが行われた。今回の能登半島地震でも、道路事情などを理由に、ボランティアの公式な受付はかなり遅くなった。コントロールによって秩序は生まれるかもしれないけど、結果的には、足らないところへの支援を行政が邪魔してしまっていることにならないか。

 子どもが積み木で遊んでいるところをイメージしてみたい。丸や四角や三角の積み木が散乱している。その状態を被災地だと仮定しよう。こどもは「お片付け」で散乱した積み木を箱の中にしまっていく。部屋は綺麗になっていく。被災地に話を戻すと、ここまでは行政の仕事である。ダメージを受けた町の瓦礫を片付け、ライフラインを元に戻すなど、復旧を急ぐ。

 それでまちは復旧したと言えるだろうか。箱に綺麗に収まった積み木をじっと見ていると隙間があることに気づく。片付いたように見える被災の町にも、隙間で取り残されている人たちがいる。
 そんな隙間にいて忘れられてしまうかもしれない人に支援の手を差し伸べるのが、被災の実態をよく知る災害ボランティアである。日頃から支援を必要としている人々と接して、丁寧に支援してきた支援者である。 被災地支援には、積み木を片付けるように、見えるところをきれいにしていく活動がある。この活動があるからこそ隙間が見えてくる。そしてその隙間に落ち込んでいる人々を救おうとする人たちの活動が意味を持ってくる。

 行政がコントロールするボランティアと、自分たちの感性と視点で支援を必要とする人々、取り残されている人々を見つけ出して活動するボランティア。両方必要だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?