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小説書きの為に『ムーミン』を紐解く その2

昨日、いろいろ資料を読ませていただきました。ありがとうございます。その中で小林さんの記事や修士論文の中に前期から後期にかけて変わっていくとの記述がありましたので、今度は『ムーミン谷の仲間たち』に触れてみる事にします。Amazonのサンプル版では『ムーミン谷の仲間たち』の『春のしらべ』の章を全文読む事ができます。


『春のしらべ』の文体は昨日とりあげた『ムーミン谷の彗星』とはずいぶんと違っています。その事に関しては小林さんの記事と論文を参照していただきたいと思います。ここでは重ねて説明はいたしません。

『春のしらべ』の構成はこのようになっています。

  1. スナフキンが歌の事を考えながら林を歩いている

  2. ムーミンの事を考え始めて歌が逃げてしまう不安にかられる

  3. 小川を見つけ、夜そこで過ごしながら歌をつかまえることにする

  4. はい虫が出てきて注意力を削がれる

  5. 歌をあきらめてはい虫と話し、はい虫に名前をあげる

  6. 翌朝歩き始めるがはい虫の事ばかり考えてしまう

  7. スナフキンは戻る事にし、はい虫に再会する

  8. はい虫と別れて春のしらべをつかまえる

このお話もちゃんと時系列で書かれていました。ただ、『ムーミン谷の彗星』と違うのは、個々のエピソードどうしがちゃんと繋がっています。一連のお話にきちんとなっていて辻褄が合っていて読みやすい書き方です。


そして登場人物の描写も詳細で『ムーミン谷の彗星』とは大きく異なります。『ムーミン谷の彗星』ではスニフはただ「小さい」で済まされましたが、こちらでははい虫の事を「ざんばらな髪」の下の「おずおずとした目」が「だれにもかわいがられた事がない人間のそれのような目つき」となっています。おなじはい虫が小川で濡れた後に「毛皮がかわいてくると、それはやわらかになり、あかるい茶色」になっています。そして「茶色いしっぽが、ちょろちょろとやぶの中に」消えます。『彗星』のスニフとは扱いが大きく違っています。

また、登場人物のどちらかの考えがカッコで囲われている事も無く、この面でも普通の書き方になっているようです。


そして『彗星』では心理描写が簡易でしたが、こちらでは登場人物の心の動きがよく書かれています。心理描写の方が景観描写より多くなっているところもあります。

例えば、冒頭でスナフキンが歌の事を考えながら歩いている部分はこうです。
林を歩くのは「たいして苦労じゃない」「心には、なんの気にかかることもない」「林は気持ち良い」「お天気はすばらしい」「あしたも、きのうも、遠くはなれている」「お日さまがきらきらと赤く・・・風はやわらかく、さわやか」そして『こりゃ、歌をつくるのにもってこい』と思います。そして出てくる歌には「自信がある」ので「ムーミン谷についたときに・・・うたってみよう」ムーミントロールが『本当に良い歌だねえ』と言うことだろう」となっています。
これに対して景観描写は「まだ山の北側に雪が消え残っているあたり」と書かれているだけです。(「お日さまがきらきらと赤く」の部分は情景なので客観的な意味の景色の描写ではないです。)

その後の部分でも、歌の事から気持ちが反れてムーミントロールの事を考えてしまう心理描写に多くの文字数を割いています。
ムーミントロールの事を考え始めて「スナフキンはほんのすこし心配になって、足を止め」ます。「ムーミントロールはスナフキンを崇拝している」けれど「きみは自由でなくちゃね」と悲しみで目をまっくらにしながら言うのを思い出し、「あいつはいいやつだなあ」とつぶやきます。そして歌に注意をもどさなければと思い直し、忘れようとします。それからやっとキャンプする場所を探すのです。その間に歩いている林の事は一切書かれていません。

次の小川の描写も、景色としての描写ではなくてスナフキンの心に映る歌の一部としての小川の描写になります。
一連の小川の描写の後に「気持ちのいい川」だと書いており、清らかに澄んだ水がいろいろなところをくぐり抜けながら発する音、そしてだいぬけに一オクターブ高まるその中にしらべを見つけます。

食事の支度をしながらも、「みんな」の食事する姿を思い浮かべています。「いすやテーブルにつくのが大好き」「ナプキンを使う」「食事のたびごとに服をきがえる」のをおかしいと思いつつ、スナフキン自身は気にしないとなっています。

はい虫を見つけてからそれを無視して「しらべ」がやってくるのを待ちますが、はい虫が自分を見つめているのを「ひしひしと感じ」ます。そしておちつきが無くなります。そしてはい虫を怒鳴りつけます。

はい虫に対しては言葉で対応するも「そっけなく」答えたり「むっとした声で」言います。はい虫によって歌がだめになると「きゅっとパイプの柄をかみしめて」集中しようとしますが無駄です。

歌をあきらめた後、ムーミン谷へ行くのだろうと言われて「気がむきゃ、いくさ」と、思っている事と反対の事を「あらっぽく」答えます。そして旅の事を言われると「はらをたてて考え」ます。「どうしてぼくをひとりでぶらつかせてくれないんだ」「わかってくれないんだ」と黙ります。

あまり書いてもほとんど心理描写で全てになってしまうのでこのあたりで終わりにしておきます。しかしながら、要は『春のしらべ』での書き方は全編を通してこのようになっているのです。


そうして、読みながらある事に気付きます。スナフキンがつかまえようとしている『春のしらべ』の歌とお話が対応しているのです。

第一部 あこがれ
第二部 春のかなしみ
第三部 春のかなしみ
第四部 たったひとりでいることの、大きな大きなよろこび

結論から言うと、文章の最後の部分ではい虫はスナフキンが歌かお話をききたくないかと問うたのに答えて「いまはぼく、とってもいそがしいもんでー-どうぞおかまいなく」「ありったけ生きるのをいそがなくちゃいけないす。もうずいぶん時間をむだにしちまったもんでね」と言って去って行ってしまいます。スナフキンは「ふうん。よし、わかった」と『ひとりごと』言います。

つまり、ここで出会った二人がそれぞれに分かれて生きる「かなしみ」とその後に来る「ひとりでいることの大きなよろこび」をつかまえて歌が完結します。


話が後先になってしまいますが、歌の構成と物語の構成の対応を簡単に見てみましょう。

第一部 あこがれ
この「あこがれ」は三月のすえ、まだ山の北側に雪がきえのこっている時期に「そろそろ春が来る」というあこがれ、そして春にはればスナフキンはムーミン谷に行ってみんなと会えるあこがれを示しています。厳しく寒い冬を経てあたたかい季節(気候と心理の両方で)が来ることへのあこがれです。

第二部 春のかなしみ
これは、春になると「ひとりでぶらつかせてくれない」、つまりみんなと会う喜びと引き換えにひとりでいる事の大きな喜びが制限される事をかなしんでいます。
お話のなかでははい虫に出会う事がそれです。スナフキンは他人と会う事にあこがれていますが、あまりに親しくなったり他人を崇拝するほどになってしまう事や自分の事を詳しく話過ぎてしまう事を警戒しています。

はい虫に対して「あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、ほんとの自由はえられないんだぜ。ぼく、よく知っているがね」と言います。また、「はい虫に「ムーミントロールが冬眠からさめるがはやいか、もうあんたがうるかくるかと、まちかまえている」と言うのに対して「「気がむきゃ、いくさ」と本心を明かしてしまうのを避けます。そして「旅のことを人に話したら、ぼくはきれぎれにそれをはきだしてしまって、みんなどこかへいってしまう。そして、いよいよ(中略)思いだそうとするときには、ただ自分のした話のことを思いだすだけ」になってしまいます。

つまり、孤独な状態でいる事の中に本当の自分の「自由」があるのです。誰かに会う事は喜びである反面、自分の自由を手放すかなしみなのです。

第三部 春のかなしみ
かなしみが2つ続きますが第二部の悲しみと、第三部のかなしみは質が違います。

はい虫に名前を与えた事ではい虫は去ります。名前をもらう事ではい虫に何が起こったのでしょうか?はい虫は「かあさんの家をでて、あたらしい家をつくり」始めました。名前が無い時には自分の周りで起きていた事は単に起きていただけだったものが、名前を持つ事によって自分にとって「なにかの意味をもつ」ようになりました。つまり、精神的に独立した個人になったので個人としての自由を得たのです。そうなれば相手はいつまでも自分の近くに居続ける事はできません。その相手も自分で考えて自分で決めて自分自身でやるべき事があるのですから。

この事は「よろこび」でありながら「かなしみ」でもあります。それは親と子の関係に象徴されます。生まれたばかりの時には子は自分自身でできる事がとても少ないので親が面倒をみます。親と子はずっと一緒にいる喜びを感じていますが、成長すれば子は自分でできる事が多くなりそのうちに独立して去って行きます。

名前を与えた後にはい虫が去った後、スナフキンの耳に聞こえるのは「しゃべりにしゃべっている、あのはい虫の、しつっこい、内気なこえ」だけ。そして「どうしてあいつらは、おかあさんといっしょに家にいないんだろうな」と「おこったように」ひとりごとを言います。これはそんな悲しみを引き受ける必要があるのか、と言う意味で、スナフキンが自分自身に対しても言っていると考えられます。自由を得るにはそうした悲しみをも同時に引き受けなければならないとわかってはいても。

第四部の事は先に書きましたから繰り返しません。


『春のしらべ』はスナフキンのつかまえる歌であり、この文章そのものであった事がわかりました。とてもよく出来た文章だと思います。


小説として考えますと、スナフキンはこれ以前にも何度も冬から春の訪れを経験しているはずです。ですからこの時期における「気付き」は以前に何度か起こっていて既に知っているとしても良さそうですが、この文章ではまるで初めての経験のように書かれています。通常の小節であればこうした気付きは主人公の人生において1度切りです。このあたりが寓話と言うかファンタジーの要素でしょうか?それとも実際の私たちにもある事でしょうか?

スナフキンは、はい虫が名前をもらった後にいなくなってこう言います。「ぼくはいったいどうしたんだ。こんな気分になったことは、一度もないぞ。きっと病期になったのにちがいない」

これまでの人生で他人に去られてしまう経験が無かったと言う事もあるかもしれません。もし本当にそうであれば、それ以前に正しく誰かに出会う事をしてこなかったのかもしれません。ムーミントロール一家のように決まりきった、頭の中で想像できる良い者達だけを相手に生きて来たとも考えられます。


長くなってしまったので、このあたりで止めておきます。もしご意見があればコメントいただけますと嬉しいです。


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