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シフトした世界(小説の書き方)

 私は実際のところ最近の小説をあまり読んでいません。資料として一部読む事はあります。そして私は小説そのものよりはその構造の方に興味がありますから、これから書く事はそんな人間の視点からになります。

 直接的にはこちらのおおまさんの短い文章を読ませていただいて書いています。ただ、『ビッチマグネット』は読んではいません。

 私は、みなさんのように最近読まれている、そして書かれている小説について何もわかっていませんので全てをカバーして言っているという事でもないと思います。それでも、ちょっと感じるところがいくつかあります。

1)中心点はどこか

 面白いなと感じるのは、昔ながらの一般的な小説は、かなりな異常な世界や異常な人間やその行動を書いていても、読者のいる場所は「正常」なポイントでした。多少コンテキスト依存はあったにしても、読む人が一般人であって、一般に正常と言われる感覚の持ち主であると想定されて書かれていました。一般の正常から異常を見る形です。

 最近の小説は読者も一般の正常ポイントからシフトしたところに居て、異常なところからさらに異常なところを見ています。たぶん、書き手と読み手が昔よりも重なっていて、つまりは書く人も他人の作品を読み、読む人は他人の作品を読んで書いているというようなエコシステムが出来ているからではないかと考えます。ぞろぞろと皆で少しづつある方向に歩いて行けば先にどんどんと進む事ができるという事です。

 もちろん、それは批判で言っているのではありません。そうしたシステムが出来ているのだろうと考えているというのみです。

 どうしてそのように感じるかと言うと、小説の中のセリフ「血なんて・・・」「物事を信じる事で・・・」「正論ってのは・・・」「大人なんて・・・」は、その登場人物が正常ー異常のラインのどこかにいて言っているセリフというよりは、外から俯瞰している感じがするからです。登場人物ですから現場にいての発言なのでしょうが、心理的に立っている位置は現場ではないのです。鳥のように飛んでいるか神様のように天から見ている視点と似たものです。

 付け加えて言わせていただくと、これを鑑賞しているおおまさんも俯瞰して見ています。小説を読んでいないので何とも言えませんが、この作品には主人公に入り込んで読むような書き方というのはあるのでしょうか? それとも俯瞰的に読む事が前提になっている書き方なのでしょうか? このあたりはもう少し研究が必要そうです。

 話は違いますが、少し前の『シン・ゴジラ』という映画作品がありました。一般公開で大衆が観ていた『ゴジラ』の派生作品で現代的な表現方法が使われたのが面白いなと感じました。現代的な表現方法というのは前述の登場人物の俯瞰的なセリフ遣いです。登場人物は当事者でありながらほとんど慌てたりしないでいつもクールなセリフを吐きます。それに比べると(さらに古いですが)織田裕二の『事件は“会議室”で起きてるんじゃない! “現場”で起きてるんだ!』は過去の表現方法に属すもので対局です。

2)登場人物

 『鬼滅の刃』等もそうですし、最近は妹、姉、弟のような登場人物がよく使われます。これも古い人間からしますと少し不思議に感じられます。

 身近な人物である家族は通常は、日常の中では生まれたときからずっと一緒にいますので突然どうにかなってしまうという事は少ないのではないかと考えます。多少異常なところがあっても家族内ではそれが普通になってしまっていてそれほどインパクトが無いと思うのですが、物語の中ではそれがあります。まあ、自分か兄弟の性的成長があれば面白いエピソードは生まれる事がありますから無いとは言えませんが。ただ性格まで変わる事も無いだろうとは思われます。

 これも前項で書いたように実は「中心点ずらし」なのだと考えます。それはSFのやり方と同じで、「〇〇がもし△△だったら」というやり方です。日常にいる「弟」という人物とワードを「異常」とぶつけて強調しているです。つまりは、一般人の視点から行われる普通の設定にはなっていないわけです。昔のソフトバンクのCMであった「お父さんが犬」の設定の方により近い感じのものです。

 つまりは、塔所人物が異常なのではなくて、その土台の設定のところから実は異常、異常に見えにくいシフトした正常なのです。


 ありがとうございました。勉強になります。
ポストモダンを感じます。

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