「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」をめぐるメモ

「あいちトリエンナーレ2019」をめぐって、私には3つの当事者としての立場がある。

まず、展覧会に長年携わってきた者として。

15年間、展覧会の企画、設計、制作からマネジメントまでを行ってきた。
文化庁の仕事もしている。
また13年間ミュージアムに勤め、中からその活動や運営を体験し、また精力的かつ真摯に、意義ある場をつくろうと頑張る人々を見てきた。私もその一人だ。
科学技術の分野が主であり美術は専門外だが、いち現代美術ファンではある。

次の立場は、政治家として歩み始めたものとして。そして、最後の立場は、いち市民として。

この3つの立場からはそれぞれ思うことがあり、そして、この当事者としての立場は今後も続く。
つまり、これからも取り組んでいくべきテーマなのだ。

以下に、「あいちトリエンナーレ」を巡って感じたことについて、時系列で記載する。


■8/3 「表現の不自由・その後」の中止を受けて。

検閲と脅迫と自粛。展覧会自体が現在進行形の一事例となった「表現の不自由展」。行政関係者が助成金に触れ知的活動に介入するのはおかしい。

ミュージアムで働いていた者として、観客とスタッフの安全確保が第一になることは理解できる。また現場で矢面にたつ方々の苦労に心が痛む。
ただし、「情の時代」というテーマのトリエンナーレの一部として試みられた「表現の不自由展」が、このまま中止に抑え込まれるのは大変残念であった。
主催者が、安全面を確保しつつ、展示やイベントなど、議論の場づくりを続けることを応援したいと考えていたが、それを実現した皆さまに、心から敬意を表したい。
そして一観客として、ありがとうと言いたい。

あらゆる立場から、経緯を検証したり議論することはよい。しかし、公的に動くべきは中止の要請や介入ではない。安全面の強化だ。
特に、菅官房長官や河村市長をはじめ、公的な資金の投入判断が、事業の目的ではなく内容面の思想信条に関わることを示唆するのはおかしい。


※なお、事業の目的の実現を目指しながら安全面の確保を検証する方法に、イギリスで開発された「リスク・ベネフィット・アセスメント」がある。遊び場の安全確保のために、行政、運営者、ユーザーなど問題に関わる異なる立場の人々が当事者として、共に判断を行うためのツールだ。


■9/26 文化庁助成金の不交付のニュースを受けて

要領に則った審査を経て採択された補助金の不交付。
「あいちトリエンナーレ」は、助成金に触れつつ政治家の介入があった事業であり、これだけの公の議論がされている。
「採択が不適正だった」というならば、この国の判断がいかに行われたのか過程を公開し、しっかりと説明し、点検されるべきだ。

大義にのっとり公の仕事を担う行政が、建前を崩してはいけない。

そして、その憤りを胸に、不交付のニュースを受けた日に「あいちトリエンナーレ」会場に再びいってきた。
SNSにあげたその時の感想をそのまま転載する。

-----------------------------
閉館間際にかけこみ、写真は17時半ごろ、「表現の不自由展・その後」の閉じた扉を埋める来場者の声と、「平和の少女像」作家のメッセージです。

愛知県立美術館しか行けなかったけれど、変わらずに佇む作品と、ますます増えた展示方法が変わった作品と、閉じた展示室と、作家たちの声明と、主催者のお詫びと、鑑賞者と、緊張しながらも温かくもてなすスタッフの方々が入り混じり、異様な状況でした。

ボランティアの方にアンケートを勧められ、そこでは普通に展覧会の評価や感想を問われるので、「異常な状況下なので、展覧会としては正当に評価できない」と書いていたら、その方が、「みなさんそんなに優しくないんですよ」と。
状況を聞いたら、同じ入場料で多数の作品が見られなくなっているからクレームも多く、「チケットを買い遠方から来て、多数の作品が見られず不満をもつ方に申し訳ない」と😢
そして、「展示再開できないのか!」「そもそも展示するのがおかしい!」「県知事と市長の喧嘩はやめてくれ」と、あらゆる立場のクレームがくると。

私は、展覧会やミュージアムという場所のもつ、現実から一歩離れ、「立場を超えて、過去、現在、未来を俯瞰して、あらゆる可能性について自由に考え発信できる」力を信じて仕事をしてきたので、その場が荒らされていることが、本当に悲しい気持ちでいっぱいです。
ボランティアの方とも今日起きたことについて話しましたが、とても悲しそうで😢

もちろん、公的資金で、展覧会のマネジメントをしてきた立場として、展覧会事業は、内容面、技術面、運営面の観点から、予算と体制とスケジュールの条件とあわせて、大義に則りつつあれこれ根回し調整して実現に落としこまなきゃいけない訳で、そのやり方はどうだったのかな、と思うところはありました。だから、検証委員会の細やかな経緯の確認は大事と思いました。
でもこれは、経緯を検証して、ただテクニカルに再発防止を考えられるような状況ではありません。

悪いのは、糾弾すべきは、テロ予告を始めとした暴力、歴史認識の問題を背景にした政治家の介入、そして、この場を守るべきなのに、公の建て前もつくれずに破壊する文化行政です。その、日本社会が抱える問題です。

お友達のみなさんには、あいちトリエンナーレに関わっているまさに当事者の方、美術関係者として私なんかより、よっぽど悩んでいる方も多くいらっしゃると思いますが、いち展覧会ラバーとして、本当に悲しくて書いてしまいました。

政治活動を始めてから特に、美術展で、アーティストの方の作品を見る度に、なんていうか、世界のあらゆることに対して個の問題として関わり、当事者になり捻り出すように表現をできること、本当に尊い行為だなぁと、再認識しています。

この荒らされた場に、それでも変わらない佇まいでそれぞれの表現を発する作品たちが本当に尊く、ますます悲しく、怒りを覚えます。
-----------------------------


■9/27, 9/30 文化庁前のデモに参加した際に、スピーチで言いたかったこと。

この問題に関して、私には3つの立場がある。そして、多くの感情が生まれ、いてもたってもいられない気持ちだ。
今日は、自分の感じることを正直にいいたく、そして他の方々の感じていることを聞きたいと思ってきた。


まず、1つ目の立場は、展示プランナーとしてずっと働いてきた者として。
私は15年間、展覧会をつくる仕事をしてきた。長年ミュージアムに勤め、そしていまは独立し、文化庁の仕事もしている。
展覧会やミュージアムという場は、立場を超えて、人々が自由にあらゆる可能性と未来について考え、語れる場所だ。
その場を守るために、そしてその意義を信じて、多くの人々が仕事をしている。私もその一人だ。
直接的に現場をつくり、運営する人々もそうだし、作品等を通じてその場で発信をする方々もそうだし、また基盤をつくる文化行政もだ。

その場がまず、暴力によって荒らされてしまっていることが、ただただ悲しい。


2つ目の立場は、政治家だ。
私は今年、公募に手を挙げて、いち市民から国会議員を目指して活動を始めた。
その理由の一つは、文化に関して政策的な見直しが必要だと感じたからだ。
そして、長期的に国の力に、一人ひとりの力になるはずの文化が、産業主導、効率化優先、合目的的で短期的な政策によって進められていることを懸念している。
さらには、現政権下での国家運営において、行政の建前が崩れてしまっている事態がおきている。
今回の問題も、その一つだ。まずは、大義にのっとり、公の仕事をする行政は、建前を守ってほしい。
不交付の過程をきちんと公表し、しっかりと検証すべきだ。


最後の立場は、いち国民だ。
この国には、歴史認識の問題がある。
今回、「表現の自由」に対する圧力として顕在化したが、その背後にあるのは歴史認識の問題であり、それに伴った政治家の介入だ。
いち国民として、私はこの問題にあまり向き合ってこなかった。
でも、最近デモなどにいっているうちに、これまで差別の最前線で戦ってきた方々と、私も含めてそうでない人々には、見えている現実の風景が全然違うのでは、ということに気づいた。
と同時に、歴史修正主義を主張する人たちは、本当にそれを信じ、日本や自分自身が貶められているといった被害者感情をもっているのではないかと、感じた。
そういう問題に対し、ただ「おかしい」と糾弾するだけでなく、なぜそのような主張をもつようになってしまったのか、その背景と構造をしっかり見つめていかなければいけないと、思う。
そして、歴史修正主義の問題は、一国民としての私も当事者であり、断固として立ち向かっていきたい。
この国に拡がる差別の風景をきちんと見つめられているか、学べているか、自分自身に問い続けていきたい。

■10/8 河村名古屋市長の再開に反対する座り込みを受けて

公的な資金は、作品そのものではなく事業に拠出されている。
「公的資金だから内容を応援している」ことに自動的になるならば、市主催のトーク出演者の発言や、図書館に設置された本全てに市民が賛同しなくてはいけないことになる。
そして、そんなことはあり得ないし個々の表現の自由は担保されて当然。

事業として、展示出来なかった作品から「表現の自由、不自由」を考える展覧会、それを含む「情の時代」をテーマにした企画なのだから、その目的において設置された個別作品がイヤだ、取り下げろという主張は、やはりおかしい。そもそもがそういう企画なのだから。


しかし、名古屋市長は本当に怒っていて、「騙された」と言い、自分が被害者だとさえ感じているようだ。
「公」に携わる首長ではなく、個人としての感情的な反応に思える。
政治家は個人の意見を大いに表面すべきだが、行動は「公」が問われる。首長としての行動ではない。

政治家は、公の仕事をする。それでは、個人が公共性を獲得できるのは、どういう時なのだろう?
分け隔てなく人々の声を聞き、個人としての信頼を積み重ねた上で迎える選挙が、そのプロセスのはずだと思える。
一方で、実際の日本の選挙では、顔写真が大きくバーン!と打ち出され、握手やキャッチーな発言やSNS戦術など、公的にどのような行動をとりたいかよりも、個人の魅力を打ち出したやり方が中心である。
その中で、いかに公的な仕事につながる内容を示し、信頼を獲得できるのか。やはり選挙ではなく、日々の政治活動こそが政治家としての仕事の本分だといえるだろう。


■10/12 ふたたび、一度展示変更、中止された作品が公開された「あいちトリエンナーレ」にて

「表現の不自由展・その後」が閉じた状態。その後、多くの作家が声明を出し、態度を表明し、いくつもの展示が変更されたり、非公開となったりした状態。
それぞれの展覧会に足を運び、そして最後に全てが公開された本来の姿で体験することができた。

「表現の不自由展・その後」の抽選にもあたり、展示を体験することができた。
そうしたら、多くの感情と問いが沸き上がった。

いったい、この閉じられていた壁の内と外では、何が違うのか。
愛知県立芸術文化センターにも、「あいちトリエンナーレ」全体では豊田市美術館にも、豊田市エリアでの展示にも、社会批判的で、強い作品が多く存在する。
その中で、「表現の不自由展・その後」として場が括られたことで発せられるメッセージは何だろうか。
また、そのキュレーションの意図と関係なく、または私にとってはキュレーションの意図に抗うようにも感じられる、個々の作品は、どのような存在なのだろうか。
まずは、空間で、その場に身をおいて体験すること。そして、個々の作品に向き合うこと。そして、全てを受け止めること。
それが自分の中に意見を醸成する一歩なのだと、実感した。

「あいちトリエンナーレ」を経て、声明を出す/出さない、展示を同じように続ける/変更するに限らず、それぞれの作家さんが、その芸術表現が、個として全てを引き受けて存在することの尊さを、改めて感じる。

また、「表現の不自由展・その後」にあたり、再開した展示運営はよく設計されていた。
展示運営の安全性は、警備だけでなく、空間に対する体験者数、体験時間、体験方法の設計で決まると考える。
そして、それは展示のメッセージや体験の質を阻害してはいけない。
もちろん、いち鑑賞者としては、時間的にも制限の鑑賞体験は残念ではあるが、抽選時点では身分証の確認もなく誰でも参加できることを保証し、エデュケーションプログラムの提供、最大限の観覧者数を確保しようという時間設計など、この状況で最善を尽くされたのだろうと思った。

「あいちトリエンナーレ」の一般公開までの当初の準備にあたっては、検証委員会でも指摘されたように、多くの反省点はあるのだろう。
しかし、その後の暴力や抑圧を受けて、再度全ての作品公開の状況を整えた関係者の皆さまに、またそれまで異様な状況下で運営を続けられた会場スタッフの皆様に頭が下がる。