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スモール・イズ・ビューティフル

 「大は小を兼ねる」という言葉があります。大きい者はそれ自体の役割の他に、小さなものの代わりとしての役目もはたすが、小さいものは大きいものの代わりにはならないという意味です。中国漢代の政治道徳論文集『春秋繁露』の中にある一文が由来のようです。

 戦後日本の目覚ましい復興はまさにこの考え方の上に成り立ってきました。焦土と化した祖国に残された政府も国民もひたすら経済成長の為に突き進んできたのです。

 すべてのことが経済成長最優先で決められました。工業化推進のため学校教育は均質な労働者を大量生産することに重点がおかれ、金太郎飴のようなサラリーマンが世に溢れ返った。

 企業は製品を大量生産しひたすら規模の拡大に血眼になりました。見上げるような巨大本社ビルや大工場が成長のシンボルだったからです。とにかく国内総生産(GDP)が大きくなればなるほど豊かになり幸せになれると誰も信じて疑わなかった時代だったのです。

 その象徴が1960年に池田勇人首相がぶち上げた「所得倍増計画」でしょう。10年間で月給が倍になるという誰にも分かりやすい政策で国民に強烈にアピールしました。結果は高度経済成長の波に乗ったこともあって10年を待たず7年でその目標を達成しましたから、国民は拍手喝采でした。国民一人当たりの消費支出は10年で2.3倍になり「東洋の奇跡」とまで讃えられたのですから。

 しかし、その華々しい奇跡の裏側では四日市喘息、水俣病などの深刻な公害問題、都市への人口集中、農業の荒廃、拝金主義の蔓延、貧富格差の拡大などさまざまな問題が起きていました。そしてついに1972年、衝撃的なレポートが発表された。

 マサチューセッツ工科大学(MIT)のデニス・メドウズを中心とした若手研究者グループの研究報告書『成長の限界』です。報告書では、このまま私たちが経済成長を続けたら人口増加、食料不測・資源欠乏、環境汚染悪化などによって人類社会は100年以内に制御不能な危機に陥ると警告しました。

 ほぼ同じ頃、英経済哲学者E・F・シューマッハーは名著『スモール・イズ・ビューティフル』を出版。その中で予言した石油危機が1973年に現実のものとなり、世界経済は大混乱に陥りました。

 そうした苦い経験から「大は小を兼ねる」という考え方に疑問を持つ人が増え環境問題にも関心が高まりましたが、未だに経済成長神話そのものは歴然と生き続けているのが現状です。

 成長を目指すこと自体は悪いことではないかもしれmせん。しかし我々がかつて無尽蔵にあると思っていた水、空気、エネルギーなどの天然資源がじつは有限であることを忘れてはいけないのです。地球の表面の7割は水面に覆われていますが、私たちが容易に利用できる河川や湖水の淡水はそのわずか0.01パーセントでしかありません。そこに77億人超の人間が生活しているのだから、問題が起きるのは当然でしょう。

 私たちが着ている洋服にサイズがあるように、すべての物事には適正な規模があると思います。例えば、適正な都市人口はどのくらいでしょうか。誰も正確には言い当てられないでしょうが、シューマッハーは50万人が上限だと分析しています。それを超えてニューヨーク(800万人)、ロンドン(898万人)東京(1400万人)のような巨大都市になってしまうと、人々は犯罪の恐怖、孤独感、ストレスなどの深刻な問題に苛まれるようになるというのです。
 企業経営でも同様な事がいえるでしょう。かつてインタビューしたことのあるヴァージン・グループ創設者で会長のリチャード・ブランソン氏は、企業の規模を自分の「目や考え方が届く範囲内」に抑えるように努力していると言っていました。規模拡大ではなくサービスの向上こそが経営者、従業員、そしてもちろん顧客にとって一番良い結果をもたらすからだというのです。

 かつてアフリカ大陸北岸にカルタゴという農業と貿易で繁栄した古代都市国家がありましたが、あえなく滅亡してしまいました。理由は国民が財力を増やすことばかりに血眼になり、政治、文化、倫理などを進歩させる努力を怠ったからです。

 ただし、カルタゴの悲劇は経済成長を目指したことにあったのではありません。それ以外のモノを何も追求しなかったことにあるのです。精神文化の衰退が国家を滅ぼしたともいえるでしょう。

 我々も経済成長拡大一辺倒から「スモール・イズ・ビューティフル」を再考すべき時代に入っているのです。古代アテネの哲学者エピクロスも言っています。「贅沢な暮しを維持するためにあくせくするのは、その暮らしから得られる喜びを上回る苦痛である」と。(終)

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