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どうか優しいままでいて

高校生だったとき、日直のたびに回ってくる学級日誌に文章を書くのを楽しみにしていた。

特に2年生のときは、毎回ふわっとした内容のよく分からない文章を書くことを意識していた。掴みどころのない感じ。空を泳ぐような、なにか遠い世界を空想しているような。

それは、私のページを読んでくれるかもしれないクラスメイトたちに「この人はよく分からないな」「変な人だな」という印象を与えたいという、すごく純粋な気持ちから起きたことだった。

学級日誌は朝礼のときに先生から渡されて、放課後には書き終えてまた先生のところへ提出しに行かなければならない。だから、なにを書こうか毎回少し考えはするのだけど、時間はそんなになく、あまり凝ったものは書けない(ときどき授業中の時間まで使って書いていたことはナイショ)。

だからこそ、ぱっと書く文章をいかに夢みがちなものに仕上げるかということを、33日に1度回ってくる日直の日に楽しんでいた。

すると何人かのお友だちが、「いつも日誌を楽しみにしてるよ」と言ってくれることがあり、それがとても嬉しかったことを覚えている。

けれど3年生になると日誌が少しおざなりになって、日々のこと、最近あったことを直接的に、淡々と、そっけなく書いてしまう日が多くなった。

すると2年生のときからクラスが同じだったある女の子が、「また前みたいな文章は書かないの?また読みたいな、私あなたの書く言葉が好きだよ」と言ってくれて、その嬉しさときたら、自然に口元がほころんでしまったほどだ。

彼女がそれを覚えているかはともかく、私は覚えている。だってとても嬉しかった。私の不安定な文章を読んで、好きだと伝えてくれるその心が。

noteを始めてから、私は周りにいてくれたひとびとについてのこと、ぽつぽつと思うことがあるたびに、そしてその機会を与えられるたびに、少しずつ、少しずつ綴ってきた。これからもきっと書くと思う。

けれど、どれも実生活での私を知っている人に読まれても構わないと思いながら書いている。私、ここに読まれて困ることは何も書いていない。

誰かとこんなことがあって、空をびゅいっと飛べそうなくらい幸せだったとか、本当はあのときこう思っていたけどどうしても言えなかった(あるいは言わなかった)とか、この人のこういうところが好きだったとか、そういう手放したくない思い出や感情を残しておきたいから言葉を紡いでいる。書くことは祈ることとよく似ている。私にとって、書くということは単なる記録や表現ではないのだ。

私は、自分がささやかに使っているInstagramのアカウントのページに、noteのリンクをしれっと貼りつけている。

それは私を全く知らない人に向けてnoteを書きたい、けれど私のことを知ってくれている人にもこそっとnoteを読んでほしいという、相反する密かな祈りがあるからだ。

もちろん、Instagramのストーリーで「note書いたよ、読んでね」などとアピールするようなことはしない。

誰かが私のプロフィールのページを見たとき、ふとリンクが貼ってあるのに気づき、タップして覗いてみたらnoteのページがあったから、ときどき暇な時間に読みにきているよ、という人がいてくれたら1番理想だし、嬉しいと思うからだ。

保育園くらいのときから私とともに育ってきてくれたひとびとは、私がある時期からずっと文章を書くことに夢中になっていることを知っている。だからたとえここに何を書いていたとしても、「またあの子は文章を書いているな」とごく自然に思ってくれていることだろう。

その関係はとても優しく、けれど同時に危険でもある。そこに甘えていたら私は成長しない。

だから私は表向き、こっそりnoteを始めた。自分で始めたことなのに、私を全く知らない方々が私の文章を読んでくれているのは不思議で、そして本当に幸せでありがたいことだと思う。

それと同時に、私の貼りつけたリンクを辿って私の文章を読んでくれている人々の存在も私の心に希望を抱かせる。

ときどき、保育園からの同級生とか、高校で3年間同じクラスだった女の子とか、妹の友人たちが、「noteを読んでいるよ」と私にそっと教えてくれることがある。それが私には跳びはねてしまいそうなほどうれしいことで、ありがとうと思いながら書いている。

私はまっすぐでいることが1番の取り柄の女の子だから、たとえnoteであっても嘘はつかない。

誰かに鬱屈とした思いを抱いていても、それを丸ごと抱きしめて生きている。それを文字に書き起こしてなにかべつのものに昇華させたり、ときどき眺めて胸に痛みを伴う記憶を思い出して、くりかえし傷ついたりもする。けれどそれはかっこ悪いことじゃないから、方法は違えどみんなしていることのはずだから、わざわざ隠したり偽ったりはしない。

だいすきな米津玄師さんの、ある曲の歌詞に、「痛むことがいのちならば、愛してみたいんだ痛みもすべて」というのがある。私はそれを聴いたときにはっとして、私も実はそう思っていたのだと気が付き、今もその言葉を胸にきゅっと握りしめて生きている。

だからもし実際の私と関わってくれ、私の書く記事を見てくれている人が、私が思っているより多くいるのならここで伝えたい。

私はもしかしたらいつかあなたのことを、それとなくここへ綴るかもしれない。あるいはあなたの知っている、あなたの大切な人のことをここで語るかもしれない。

それを目にすることで、もしあなたを傷つけてしまうようなことがあればごめんなさい。もしすでに傷つけてしまっていたら、ごめんなさい。

けれど私は、どんなことを書いているとしても、その人のどこかが大好きだから書いています。あなたの一部が私の中に確かに生きていて、ときどき顔を覗かせてくれるから、あなたが私の一部をつくってくれたから、あなたのことを書きます。

だからどうか許してほしい。優しいままでいてほしい。

そんな身勝手なお願いも許してください。そしていつか、また会いましょう。

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