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かわいそうなんかじゃないよ

自慢話をする人は基本ご機嫌さんなのだから、出来るだけ話を聞いてあげなさいと、母は昔から私たちによく言っていた。

その人は自分が幸せであることを言いたいわけだから大抵ご機嫌さんでしょう、楽しい話なんだから深く考えずに聞いてあげればいいのよと。

けれど不幸自慢をする人の話は、聞き手のことも苦しくさせてしまうことがあるから難しいね、とも母は言っていた。その言葉は私の胸に宿っていて、ときどき顔を覗かせる。

私の家族のほとんどは、誰かから何らかの相談を受けたり、話を聞いたりする役割を持っている。

それは私の生まれた家が、誰かの話を聞くことを求められて存在している場所だからなのかもしれないし、それ以外の要素もあるのかもしれない。けれどとにかく私も小学生のころから直接、あるいは間接的に、誰かの悩みごとや相談事を耳にする機会は多くあった。

それが友達などの身近な相手であっても、父母の知り合いであっても、祖父に相談に来る人であっても関係ない。自分とは直接関わっておらず、顔もぱっと思い浮かべられないようなあらゆる人の話を、私は幼いころから毎日耳にしてきた。

そして私は、自分が幸せではなく、ちっとも満たされていないのだということを、自慢のように話す人を何人も見てきた。そういう人たちの中には、本当にうまくいかない人たちもいれば、かわいそうな自分が好きで、かわいそうな自分でいたい人たちもいるのだ。かわいそうでいたいことが悪いことだとは思わないのだけど、でもそういう人の話は聞いていてくたびれてしまうことがある。

そんなひとびとはいくら話を聞いても、何か助言をしても、根本的な解決には決して至らない。

それは彼女たちが自らかわいそうな自分でいることを望んでいるからだ。かわいそうでなくては誰にもかまってもらえないような価値のない人間だと、自分で呪いをかけているのだ。

私は言葉の持つあらゆる力と可能性を強く信じているけど、でもそういう人にかける言葉ほど空っぽなものはないのかもしれないと思う。

「あなたにはこういう素晴らしいところがあるよ」と何度言っても彼女たちはそれを否定する。

それは怪我が治ったら気にかけてもらえなくなると思い込み、傷を自らえぐったり、治すために病院へ行くことや、薬を塗ることを拒んだりするのととてもよく似ているな、と思う。

誰かに気にかけてもらえることは、本当にあたたかく心地よいことだから、私にもその気持ちはわかる。風邪をひいたときに看病してもらうあの安心感や、弱っているときに「大丈夫?」と心配してくれる相手の存在は私たちに希望と、ある種の快感を与える。

だからそういう状態を手放したくない、という人はきっと一定数いるだろうと思う。そしてそれが顕著な人々はときどき、とても生きづらそうに私には見えてしまう。

話をいくら聞いても、いくら柔らかな言葉をかけても、彼女たちは自分がかわいそうなことをあらゆる方法で伝えてくるので、じゃあ私はどうしたらいいのと思う。

話を聞きたい、力になりたいと思うことさえ、私のエゴでしかないのかもしれないと気づいてしまうから、そうなったらもう何も言えなくなる。

無理して言葉を紡ごうとするからいけないのだろうか。私は言葉を信じすぎているだろうか。

でもかわいそうなままでいなくたって、あなたは十分に愛されるべき人物であるし、私はあなたのことが大好きだから、そんなに自分を追い込んだり傷つけたりしなくてよいのに、と私は思っている。どうかそのことを忘れないでほしい。この言葉さえ彼女たちの心の最も深くて柔らかいところには届かないのかもしれないけど。結局、自分にかけた呪いを解くことができるのは自分の他にはいないのだ。

でも私は言葉を諦めたりはしない。ただ、私はそろそろ雄弁さだけではなくて、真の沈黙も手に入れる必要があるのかもしれないと思う。言葉に語りきれない言葉もあるだろう。私は今まで言葉の満ち足りた道を歩いてきたので、次は沈黙をうまく扱うことを学ぶべきなのだろう。それはもしかすると、私の20代のテーマになるかもしれない。

そんなことを考える出来事が最近あったのだった。

言葉というのは難しいな。自分が意図したのと全く異なる響きをもって他者の鼓膜を揺らすことがある。しかもそれはおそらく、自分で思っているよりずっと頻繁にあるのだ。それを肝に銘じなくてはならない。自分が大切な人にそれをしてしまう可能性もあれば、相手からされる可能性もあるということ。

そして私も無意識のうちに、自分をかわいそうな人間だと思い込まないようにしよう、と思う。

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