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大学受験の1年間を振り返って

なにか大きなきっかけがあったわけではなかった。高校2年生の夏に塾へ入り、なんとなく自分は来年受験生になるものだと思っていた。だから高2は今までで一番と言っていいほどサッカー観戦のためにいろいろなところへ行った。しかし年が明け2022年になると気持ちが受験へと向かっていった。最後のサッカー観戦はカタールW杯最終予選のベトナム戦だった。あの時から比べると自分は学力的に飛躍しているはずだ。でもそれは学力的にだけではないのだと思いたい。もちろん合格のために毎日頑張っていたのだが、そのほかにも受験を通して自分を高めたい、成功体験をつくりたい、といった願望、欲望があったのも事実だ。ここではこれからの受験生むけに、そしてなによりも自分に対する備忘録として記していきたい。

なぜ受験をするのか。

今は一般受験とよばれる学力試験による方式以外にも推薦受験という方法もある。学校の成績で受験勉強をせずとも進路を決めることもできた。そうすれば早く大学が決まり多額の塾代もかからず夏以降は自由の身となる。僕のクラスは大体7割が推薦で進路を決めていた。それでも僕は高2の二月から本格的に受験勉強を始めた。決して成績が絶望的だったわけではない。それでも塾に身を置いていたからか自然と一般受験の道へと進んでいた。YouTubeで勉強法やモチベーションの動画を見漁っていたのもその時期だった。1年後のミライのために1年間を犠牲にする。そんな経験後にも先にも受験期だけだと思う。だから僕は第一志望合格の前に1年間やりきる、情けない自分を変えたいといったものが動機となっていた。

受験勉強(前半期)

前半期は完全にインプットメインの勉強。英単語、古文単語、英文法、日本史の一問一答。こういった勉強をしていると今までの自分の勉強が全く役に立ってなかったことがよくわかる。まずは質より量なのだ。量をこなしていくなかで効率的な勉強法が見えてきて質が担保される。単語も文法も鼻から理解しようという気持ちでやってはいけない。何度も何度も繰り返していくうちに自然と身についていくものであってそれがわかるのは過去問演習が始まる秋以降になってからだ。このインプット期に焦ってはいけない。無理に問題演習に走ってはいけない。勉強している間はなんのためにやっているのか目的を見失ってしまいがちだが根気強くやり続けることが成功の秘訣であり受験勉強としてだけではなく今後の将来にも活きてくるのだと思う。例えば筋トレやピアノといったものはいきなり結果が出るわけではない。強い気持ちがないと続けることができない。継続できる人と途中で挫折し誘惑に負けてしまう人の差が評価される人とそうでない人との違いなのだと思う。
しかし春からいきなり10時間勉強といった量を確保できるわけがない。今までコツコツとやってきた人間ならわかるが1年間で都合よく合格しようという人ならばまず継続することが大切だ。充実した勉強が4月からできるはずがない。だから4~7月は机に向かわない日がないことを目標に頑張ってほしい。僕だって夏までは16時頃に学校が終わって20時頃には家に帰っていた。それがだんだんと閉室時間まで勉強できるような体になっていくのだ。

受験勉強(夏休み)

夏休みで僕の合否は決まったのだと今になっては感じる。この期間で塾に行かなかった日はほとんどなかったし11時に塾が開いてから最後まで完全に閉じこもっていた。それでも勉強内容は1学期と同じ。夏で基礎に漏れがないようにということがよく叫ばれるが個人的にはその必要はないと思う。実践演習を何度も繰り返していくことで出題のストックが増え解答の引き出しが増えるから無理に完璧を目指す必要はない。受験は長い。夏に理想的な勉強ができているからといって2月にその知識が身についているとは限らないのだ。それを僕は身をもって体感した。

受験勉強(後半期)

9月からのお数か月が受験生にとってなによりも大切なのだと思う。夏までに勉強の習慣と基本的なインプットを終え演習に入る。この演習こそが受験を通して将来につながる最たるものだと感じている。なぜかというと演習は問題を解くことが目的ではなく解いたあとになぜ間違ったのか、次にどういう思考回路で、どういう方法で解けばいいのかということを分析する必要があるからだ。これはいくら塾の授業を取っていてもどれだけ質の高いチューターと話しても自分の考えが明確でないと上手くいかない。これこそ受験で学ぶ大切なことなのだと思う。現代文で考えるとわかりやすい。評論などは自分の考えを聞いているのではなく筆者が記した文章から主張を捉えられているかが問われている。だから自分の思考に落とし込むのだ。文章を文章のまま考えても答えはでてこない。逆説には三角の印を振るなどテクニック的なことはたくさんあるのだがそれは表面的なことにすぎない。もっと本質的に文章を掴む必要がある。それには語彙が必要だし綸旨の展開を正確に理解しなくてはいけない。ただなんとなく読んでいては必ず誤った解釈になってしまう。だからなんで間違ったのか、どういった捉え方をしたからこの答えになってしまったのかを分析することが必須になってくる。ここに受験の本質があるように僕は感じる。問題を発見し、なぜ誤ったプロセスになってしまったのかを考え、正しいルートを考え、そこに近づくために自分はなにをしなくてはいけないのか。この能力は大人になっても必要となるはずだ。
トライ&エラーを繰り返して知識を増やし効率的なやり方を見つけスキルを上げていく。ここに僕は希望を見いだしたのだ。秋以降はこの繰り返しになる。例えば日本史は問題を解けば解くほど知識が増え前後関係が理解できややこしい単語も覚えてくるようになる。この時期にやってはいけないことは後回しにすることだ。そこで出てきた問題はそこで解決する。この意識を強く持っていてほしい。

直前期

こうして偉そうに勉強法を語ってきたが僕は全く上手くいかない人間だった。なんどやっても覚えられない、身につかない、点数がでない。この繰り返しだった。とくに英語長文はこっちの選択肢がなぜダメなのか、なぜその答えでなくてはいけないのかがわからず5.6割しか取れなかった。それは年をまたいでも同じで、焦りが出てきた。さらにそのタイミングでコロナにかかり自分の受験生生活は終わったのだと絶望的な状況になったのも年明けすぐのことだった。共通テストで大爆死し自分の自信が壊れかけ今までの時間はなんだったのかと悔しさがあふれ出した。本当にこの頃は辛かった。普通は1,2月でラストスパートをかけるべきなのだが僕はここにきて急ブレーキが起きた。受験を初めて1年近くになるとなぜか直前という時なのにやる気が剥がれ自分を追い込めなくなっていた。受験がマンネリ化してしまったのかもしれない。

受験仲間

僕は誰のために受験勉強をやっていたのだろうか。その答えは迷うことなく自分のためである。自分の明るい将来のために自分を律して挑戦しているはずなのだ。しかしそうやって自分に問いかけないといけないほど自分は誰かのために勉強をしているのではないかと思ってしまうことが多々あった。

同じ塾に同じ学校の同級生が数人いた。彼らとは夏ころから一緒に帰るようになった。帰り道は受験の話が主でそれが唯一の息抜きのようになっていた。

しかし彼らはカッコいい。

僕ばカッコいい人に憧れを抱きやすい性格なのかもしれない。彼らは自分よりも結果が出ていて勉強も会話も人間力も自分より優れていた。僕が勝手に感じている偏見にすぎないのかもしれないが、自分に対する劣等感が僕の中にあった。僕は明るくないし優しくないし正直でない。でも彼らは笑顔で会話を盛り上げる。18歳ってこうあるはずだよなと思いつつ、こうあれない自分が情けなかった。高1,2で僕は高校生らしいことなど何にもしてなかったのだ。どこか自分に閉じこもって臆病だったのだ。ということを彼らとの関わりを通して感じるようになった。他者への憧れ、自分への蔑み、過去の自分への後悔が自分を包んでいったなかでの受験生生活だった。勉強と向き合わなくてはいけないはずなのに僕はそういった人間的な部分での悩みがあった。でもいつか人は色気づく時が来る。それが僕の場合17歳の春だったのだ。周りに比べるとかなり遅い。これが僕の高校生活が薄暗かった原因だった。
忘れもしない11月23日。日本対ドイツの日。僕はアベマでW杯をつけながらいつものように彼らをと一緒に帰るため外で待っていた。するとそのうちの1人が女子と一緒に出てきた。そしてそのまま僕を横目に駅へと向かっていった。高3ならば当たり前のことなのかもしれないが僕にはなんとも言えない胸騒ぎがあった。まず、同じ塾でいつも一緒に帰っている人にそんな関係性があったなんて知らなかったし自習室の籠っている身からするとなんでそんな関係性を築けるのか不思議でしかたなかった。嫉妬なのかもしれない、でも裏切られたという感覚もあったのかもしれない。彼はなんにも悪いことをしていないのに僕に憎い気持ちがあったのは否めない。結局僕はいまだに馴れ初めを聞けていない。でも彼はやはり立派な人間だった。浮かれて受験をおろそかにすることはなく誰よりも努力していた。こういう人間だからモテるのだと思う。自分を律してメリハリをもって勉強をする彼はやっぱりカッコよかった。しかし彼だけ合格して勉強だけをやってきた僕が落ちる未来が怖くてしかたなかった。彼は勉強も恋も充実させていて僕は落ちたらなにもない未熟な人間のままなのではないかと怖かった。
受験に全力を注がなくてはならないのにこうやって人間関係のことばかり気にしてしまう。こんなんじゃダメだと思っていた。だけど彼らがいなかったら僕はきっと受験を投げ出してしまっていたと思う。彼らの存在が自分を高めて勉強しなくてはならない環境にしてくれたのだと思う。だから彼らには感謝しかないのだ。

合格発表

正直自信はなかった。というのも第三希望の学校が1番最初に出て不合格だったのだ。そこから最後の試験までの3日間が人生で最も辛かったどん底の時間だった。もうどこも受からないんじゃないかとか周りにはなんて言い訳しようとか後期はどこ受けようとか、高額な塾代を親に出してもらっておきながらなんでもないような大学だったらどうしようとか、なにに対しても自信が持てず最悪の日々だった。最後の入試の日、受験番号を書くそのては震えていてたぶん人生で一番へたくそな数字の2を書いた気がする。その時点で第一志望の合否は発表されていたのだがまだ試験が残っていたため見てはいなかった。試験が終わって学問の神様が祭られている神社にいった。家で見た合格発表がふるわなかったため縁起をかついでそこで発表を見た。何度も祈りながら浪人だけはできなかったので、どこかしら受かってくれという願いがなによりも優先だった。

結果は合格だった。

全く信じられなかった。実は国語の記述で空欄をつくってしまいもう無理だと思っていた。合格の文字を見た時はうれしさよりも戸惑いが強かったと思う。僕は急いで家に向かい親に報告した。親は受かると全く思っていなくこちらもただただ驚いていた。でもこういった態度だったからこそ無駄なプレッシャーを感じることなく試験を受けられたのかもしれない。

この1年から学ばなくてはいけないこと

僕はこの1年間多くのものを犠牲にしてきたと思う。最たる例はサッカーを絶ったことでありDAZNを解約したこと。なんでもないように感じる人が多いかもしれないが自分にとってはやはり大きな決断だった。惨めな思いもたくさんしてきた。辛い時期もあった。でも決して誘惑に逃げ投げ出したりするようなことはなかった。そのことは胸を張ってもいいはずだ。僕はこの1年間で自信を身につけたかった。成功体験が欲しかった。結果が出なくとも「やりきった」と言えるような既成事実を望んでいたのだと思う。しかし合格発表が出てから1週間ほどが経ったが僕はなにもできていない。経験を積むことも趣味に没頭することも友人と遊びまくることもしていない。これだとまたなんでもない日常に、何者でもない自分に戻ってしまう。受験が終わったらやりたいことがあれだけあったはずなのに、いざ受験が終わると怠惰な日々になってしまっている。せっかく1年間粘ってきたのに、やるべきことに背を向けてしまっている。この状況から抜け出すためには勇気が必要なのだと思う。行動する勇気、積極性をもって生きていくことが今までの自分との別れを導くはずだ。