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4-1 「借りる」と「返す」:5,000年前のシーソーゲームが、世界にお金と豊かさと矛盾をもたらした

「クレジットカードになさいますか? 現金ですか?」「クレジットでお願いします」
君がよくモノマネしていた、スーパーでのパパとレジ係の人とのやりとりだ。

現金なら、その場でお札やコインを出して、引き換えに商品を受け取るけど、クレジットカードなら、ピコピコと数字を入力するだけでいい。暗証番号の入力さえ不要な場合もある。

どちらにしても、パパがブロッコリーや「プチダノンりんご味」やプリキュアのカレーをクレジットカードで買うと、現金のようにその場で支払うことなく、その日のうちにパパのものになって、君とママは夕ごはんに食べることができる。

それはなぜかというと、カード会社がサミットやライフへの支払いを立て替えてくれているからだ。パパはその月に使った分を、カード会社にあとでまとめて払えばいい。カード会社は支払者(ここではパパ)のことをありがたく信じてくれていて、後からお金が入ってくるのをじっと待っている。

「かなしくなっちゃう日」があっても君が毎日幼稚園に通ってくれたのは、パパやママが迎えに来てくれることを信じていたからだったと思う。それと似たような信じ合う関係が、カード会社とお客さんの間にも築かれている。

もっとも、君が大人になるころには、現金もクレジットカードも消えてなくなっている可能性が高いけど、まあとりあえず、今はパパの話につきあってほしい。

お札やコインが目に見える「モノ」なのに対して、クレジットカードはコンピュータ上の数字のデータに過ぎない。だから、ふつうはクレジットカードよりもお金の方が原始的で、歴史も古いと思うだろう。ところが、実際にはまったくの反対だ。今から5,000年以上前、現金が発明されるよりもはるか昔から、クレジットカードは存在していた。正確には、クレジットカードと同じ「信頼関係のしくみ」が、すでに当時の人々の間で成り立っていたと考えられている。

場所は「2つの川の間」のメソポタミア。川が運ぶ肥えた土のおかげで作物がよく育った。おかげで余剰食料が蓄積され、人口も増えて早くから国のしくみが整っていた地域だ。分業が進んで、住民の交流の記録を保存するために文字が発明されたのも、このメソポタミアだった。

このように、規模が大きく人々のつきあいが複雑化した社会では、生活に必要なものをすべて自分でまかなうのは難しい。だから、それを持っている他の人から買ったり、モノとモノとを交換したりして手に入れる必要が生じた。

買おうとしてもお金がない。交換するモノもない。時にはそんな状況もあったはずだ。それでもお腹は空くし、服を着ないといけない。家が壊れたら直さないといけない。そんなときに生まれたアイデアが、「借りる」だった。ご飯にする大麦の蓄えが底をついたときは、商人から、一時的に分けてもらった。寒い冬にセーターがほつれたら、編みなおすための羊の毛を融通してもらった。家の補修のためには、必要なお金を借り入れた。

「借りる」と必ずセットになっているのは、「返す」だ。シーソーの両端が、交互に上下に動くように、借りたものは返すことで、バランスが保たれる。次の収穫の時期が来たら大麦を、春になったら刈り取った羊の毛を返したりした。お金をそのまま返せないときは、その分、家畜として飼っていた羊や牛で支払いを済ませることもあった。

このように、生活に欠かせないモノやサービスの交換をスムーズに行う必要性から、5,000年前にはすでに「借りる」と「返す」が発明され、それは借り手と貸し手の信頼関係によって支えられていた。

じつは現代では、この信頼関係こそがお金の「正体」だと考えられている。お金というと、君がよく遊んでいたでっかいスイスフランのコインや、子ども銀行のお札を思い浮かべるかもしれない。もちろん、それも一つのお金の「姿」ではある。けれど、さっきも書いたように、コインやお札の実物が生まれる遥か昔から、お金の「役割」としての信頼関係は存在していた。

別の言い方をすれば、人々の貸し借りのやり取りを、文字を使って記録し始めたことこそが、お金というアイデアの起源だと言うこともできる。

ところで、借りたものは返さないままになっていると、なんともきまりの悪い思いをする。だから、泥んこ遊びで汚れて着替えさせてもらった洋服は、ママがきれいにお洗濯をしてから、ていねいに折りたたんで幼稚園に必ず返していた。

でも、そのきまりの悪さは、どこから来ているんだろう?それを探るために、動物と植物の協力関係に目を向けてみよう。

植物は太陽の光と二酸化炭素から糖分と酸素をつくり出す。動物はその糖分と酸素を取り入れることで体内でエネルギーをつくり出し、その結果、吐き出された二酸化炭素はまた植物に再利用される。こうやって、自然界では持ちつ持たれつの交換が行われている。

水玉のチャップンはコップから君の喉をゴクゴクと通ってお腹に運ばれた。しばらく君の身体中をまわってお遊びをしていたチャップンは、汗っかきの君がかいた汗の一部となって、手のひらから君の外へ抜けていった。その一滴は風に乗って空に運ばれ、やがて雲になり、もくもくもくと重くなった雲は、雨となって地面に降り注いだ。よくお参りに行った神社のイチョウの大木は、雨水となったチャップンを根からたくさん吸収して、青空に生える緑の葉っぱをたくさん茂らせた。

ーーーこういうふうに、水の粒子一つとっても、一か所に止まることなく、姿かたちを変えながら、いろんなところを行ったり来たりしている。エネルギーは生き物の間で交換されながら、とどまることなく流れて循環しているというわけだ。

ときどき、いや結構な確率で忘れがちになるけど、人間も自然の一部ではある。だから、よく自然からアイデアを盗んで、似たようなしくみをつくり出すことがある。交換はそのいい例だ。ないものは借りてきて、役割を果たしたらお返しする。人はこれを自然から拝借した。

君たちが生きている現代、モノやサービスの交換の大部分は、お金によって仲立ちされ、お金が水の滴のように、あちこちを循環している。だから、お金は人間社会を支えるエネルギーだ。

自然界のエネルギーを増やすのは、そう簡単ではない。でも、過去400年ほどの時間のなかで、お金のエネルギーは軽々と増えて、たくさんの人々の豊かさを後押ししてきた。カレーならプリキュアもドラえもんも選べるし、プチダノンならりんごの代わりにもも味を食べてもいい。こういう「選べる幸せ」もお金によって実現されてきた。

その一方で、現代ではお金をもとにしたある「枠組み」を通じてしか、豊かさの拡大を実現しにくくなってしまっているのも事実だ。

その「枠組み」とは一体なんなのか。どうやってできあがったのか。次回からはそれを見ていくことにしよう。

参考文献
カビール セガール『貨幣の「新」世界史──ハンムラビ法典からビットコインまで』小坂 恵理訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫(2018)
フェリックス マーティン『21世紀の貨幣論』遠藤 真美訳 、東洋経済新報社(2014)
デイヴィッド・オレル『[ヴィジュアル版]貨幣の歴史』 角 敦子訳、原書房(2021)
ヤニス・バルファキス『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。 』関 美和訳、ダイヤモンド社(2019)
小林登志子『シュメル―人類最古の文明』中公新書(2005)
眞淳平『人類の歴史を変えた8つのできごとⅠ――言語・宗教・農耕・お金編』岩波ジュニ文庫(2012)


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