アニメ『黒子のバスケ』を観て
・2次元の若者と、リアルな若者のギャップ
としをとるということは、からだが昔のようには動かなくなるということでもあります。
家の階段を上ると、足が痛む。
ジャケットを着ようと思うと、腕があがらない。
毎朝、老眼鏡をかけて、飲むべき薬を数えて、今日を生きることに、ため息をつきます。
そんな私ですが、
スポコンって、やっぱり、いいなあ、と思いました。
『黒子のバスケ』を観て、目頭が熱くなってしまいました。
生き生きと、飛んだり跳ねたりする若者たち。
良いものです。
アオミネー、おまえの繊細さ、俺には分かるぜー❕、とか、
アカシくん、君も僕と同じような生まれ育ちなんだね💖、とか、
ノリにノリまくって、テレビにかじりついていました。
優秀な選手の悲哀や孤独、
それほど優秀ではない選手のバスケとチームへの愛、
それらが両方、しっかり描かれていました。
なによりも、
「強くなりたい」
「勝ちたい」
「もう、逃げませんから」
そんな選手らの言葉を耳にして、とても気持ちが良くなりました。
なんて、なんて、人間らしいんだろう、そう、思いました。
そう、みんな、「強くなりたい」、
その一心で、努力したもんね。
厳しい練習を重ねたもんね。
星飛雄馬も、矢吹丈も、岡ひろみも。
最近、読んだnoteで、幾人かの、2次元ではない、現実に存在する若者が、
「弱いままの自分を肯定してください」とか、
「かわいそうって、ひとから思ってもらいたい」とか、
マジに、おっしゃっていたので、
私は暗鬱たる気持ちになっていたのです。
だからこそ、「強くなりたい」と、熱い涙を流す2次元の坊やたちが、とてつもなく愛おしくなりました。
・何のため、誰のため、強くなるのか、戦うのか
練習で、試合で、選手はしばしば心、傷つきます。
そして戦えば、結果的に、必ず、誰かが負け、夢、破れます。
それにもかかわらず、何故、戦うのか。
そこに大義があれば、戦いは正当化されるでしょう。
自分自身をも含めた、世のため、ひとのために、戦っているのか。
大義が普遍的であればあるほど、その戦いは多くのひとから称賛され、さわやかで、気持ちの良いものになります。
『黒子のバスケ』では、「悪役」が一人、登場します。
学校の理事長です。
彼はスポーツマンシップに則って戦うことよりも、勝利することを優先させます。
学校の志願者数を増やすコマーシャルのためにです。
私はこのシーンを見ていて、おそらくこの理事長は大手広告代理店の元役員ではなかろうかと想像しました。
もちろん学校のコマーシャルなどといった目的に、普遍的な大義などあろうはずもなく、この学校の試合は必ず勝つけれども、後味の悪い、ひとを暗鬱とさせる、気持ちの悪いものになっていきます。
そう、もしかしたらどなたかがおっしゃっていたように、真理はシンプルなものなのかもしれません。
そう、勝利か敗北かは、2番目の問題なのだよ。
1番大事なのは、傷つきながら戦うことなのだよ。
そのことの大切さを、『黒子のバスケ』はあらためて、子供にも、私みたいな老人にも、実に分かりやすいかたちで、表現してくれた。
感謝です。
私も、まだ余命が許す限り、2次元の中高生に負けないように、
自分自身も含めた、世のためひとのために、正々堂々、戦いたいな。
自分の外部の世界に働きかけていくことを忘れたくない。
心身ともに弱くなっていき、自分が強くなれないなら、
ひとに強くなってもらおう。
それが老人の戦い方だ。
そうだとも! 「強くなりたい」と涙する若者を探して、サポートしよう!
地球は広い。たとえ日本にいなくても、どこかにいるだろうさ。
そして老人から若者へと、つまり過去から未来へと、パスをまわそう!
クロコっち、
僕も、がんばるよ!
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