印刷の自由万歳

表現の自由と暴力 (3)

I-2 革命とナポレオンの言語統制

I-2-A)暴力の嵐のなかで

・人権宣言
1789年7月14日、民衆が圧政の象徴であったバスティーユ牢獄を襲い、革命が始まりました。
同年8月26日に布告された人権宣言の第11条には書かれていました。

「思想及び主義主張の自由な伝達は、人間の最も貴重な権利の一つである」。

しかしこの第11条ではまた「自由の乱用」はダメと明記されてもいました。

・暴力を求める言葉、暴力に虐げられる言葉
革命になって表現の自由を獲得したジャーナリストは、言葉を用いて、人々に行動を、ときには暴力を求めました。
反革命派の新聞は、ドイツやオーストリアの君主にあてて、どうかパリに軍隊を派遣して革命勢力をやっつけてください、とアッピールしました。
他方、革命派の新聞は、パリの民衆にあてて、貴族たちを殺さなければいけない、と暴動を勧めました。

ただジャーナリストはまた暴力によって狙われました。
革命派のジャーナリストも、反革命派のジャーナリストも、殺されました。
民衆は反革命派のジャーナリストを殺害し、首を切断し、街を練り歩きました。民衆は言いました、我々は「表現の自由の乱用」を取り締まっているだけだと。

・「自由の敵」の「表現の自由」は認められるべきか
ロベスピエールが独裁を始めるようになると、政府が積極的に「表現の自由の乱用」を取り締まるようになります。
1793年9月17日の法律が、発言や文章によって「自由の敵」、即ち革命の敵とみなされた者は逮捕されると定めました。
政府は反体制的ジャーナリストをどんどんギロチンに送るようになりました。
「自由の敵」の「表現の自由」を奪おうというわけです。

しかし不思議と新聞の数は減りません。
ロベスピエールが権力を握ったとき、パリには66の新聞がありました。
彼が権力の座から落ちたとき、パリにはまだ51の新聞がありました。

・情報公開と透明性の原理
また興味深いのが、ロベスピエールが情報公開に積極的だった事実です。
革命裁判所がギロチンに送った人の名前、無罪になった人の名前、すべて公表されました。
20世紀の独裁者ヒトラーは強制収容所の存在を隠し続けました。
しかし18世紀の独裁者ロベスピエールは大量虐殺を隠さなかった。
何故でしょう。
二つの理由が推測できます。
まず1つ。おそらく心の底から自分たちが良いことをしている、反革命派は殺されて当然だ、と信じこんでいたから。

もう1つ。ロベスピエールは隠し事を嫌ったから。
そもそもロベスピエールは、革命後の世界で大事なのは透明性の原理だ、と考えていました。
悪い国王がいなくなったいま、みんな、自由で平等で、善良な市民なのだから、お互い隠し事はすべきじゃあない。
みんなの幸福という目的さえ同じなら、政策の違いは堂々と意見を出し合うことで乗り越えていけるはずだ。みんなが信じあうことが大切だ。
こうロベスピエールは考えていました。
それはロベスピエールだけでなく、当時の民衆もが大切にしていた考え方でした。
だから民衆の政治集会で、選挙はいつも拍手や挙手でおこなわれました。
誰が誰に賛成したか反対したかが分かる、公開投票だったのです。

21世紀の日本では、自由は隠れることで実現されると思われています。
だから選挙はカーテンの陰に隠れて、コソコソと為されます。
また多くのSNS愛好者は、匿名を用いることで、即ち実名を隠すことで、ホンネを吐露する自由を享受しています。

もしも革命期のフランスの民衆が、タイムマシンで現在の日本にやってきて、匿名が氾濫する社会を見たら、驚くことでしょう。

いずれにせよロベスピエールの独裁と20世紀の独裁はずいぶん違いました。
むしろ20世紀の独裁に似ているのは、次に見るナポレオンの独裁です。

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