西の道

妖魔を連れて天竺へ。

▼登場人物

◆三蔵法師◆
長い黒髪の法師。
天上の世界に住んでいたが、師匠の釈迦如来の教えを馬鹿にして下界に落とされた。
性別も外見もがらりと変えられ、下界での取経の旅を命じられる。
黒髪や声、胸が大きいなど、すべて如来の独断と偏見による好みが反映されたのが三蔵であり、悟空は如来と好みが同じだと言える。

悟空の頭にはまっている緊箍呪を唯一扱うことが出来、悟空が暴れるたびに緊箍呪で抑制させている。
何故かその存在が多くの妖怪に知れ渡っており、血肉を食らうと不老不死となり、至高の力を得ると認知されている。
基本的に臆病で、何の取り柄もない、自分ひとりでは何もできない人間。


◆孫悟空◆
赤髪の猿の妖怪。
左頬に、深い妖力を込めた傷がある。

山奥に封じられていたところを三蔵に助けられてから、三蔵を「師匠」と呼び慕っている。
三蔵大好き。
様々な武器や武術と鍛え抜かれた体で数多の相手を捩じ伏せる。
三蔵と出会うまで天界も、地上も関係無く勝手気ままに暴れ、あらゆる妖怪に己の名を知らしめた。
故に恨まれることも多い。

◆猪八戒◆
凄まじいクセっ毛の妖怪。豚。
怠惰な生活を繰り返し、人里を襲っていたところを如来に見つけられて、強引に三蔵の旅の供をさせられる。
一行の中で一番小柄だが、有り余る力を駆使して不器用ながらも戦う。
悟浄と気が合う。
女好き。


◆沙悟浄◆
元々水神だったが、ひょんなことから如来に目をつけられる。
状況判断力に長け、戦闘能力も高いが戦いを好まず、三蔵を守りながら傍観するのが常。

女の子が大の苦手だが、三蔵とは気兼ねなく話せる。

◆玉龍◆
妖怪四匹と言いながら今回の話の中には玉龍の玉の字も出てこないです。
普段は三蔵の足になっている、馬に変化させられた龍の子。



始まり


「この法師を連れて天竺へ行け。そうすればお前らの罪を見逃してやる。」
天上の釈迦如来に言われ、凶悪な妖怪四匹は、法師を連れて西へ西へと天竺を目指すことになった。

旅を始めてもう数ヵ月が経つ。
何度目かの春を迎え、冷たい季節から解放された体は、とても軽やかだった。
暖かい春の陽射しに照らされながら歩みを進めていた頃ー。
「わ、おっきい街!」
八戒が前方を眺めて歓喜に満ちた声を出す。
長旅を続け、草木に包まれた広大な地へ足を踏み入れた一行。
その中心にひとつの街を見つけた。
活気に溢れた明るく大きな街だが、どこを見ても女ばかり。
街中を見て回るうち、なんとなく悟空は訝しんでいたが、そんなことなど気にも掛けない三蔵と八戒は、長い旅路での喉の乾きを訴えた。
「あー喉かわいたー」
「そうですね、何も飲めていませんでしたし…」
八戒の言葉に、思わず苦笑を浮かべながら頷く三蔵。
ふと、傍を流れる川に視線を送る。
濁りの見えぬ、澄んだ綺麗な川だ。
どうやら、この街の真ん中を流れているらしい。
三蔵が悟空を見上げて話しかけた。
食糧など口にするもののほとんどは、東西南北あらゆる場所で飲み食いしたことのある悟空の意見に、摂取するか否かの判断を委ねられる。
こんなに透き通った水なのだから、悟空も快く承諾してくれるはずだと思ったのだ。
「ここの水は飲めないのでしょうか?」
「師匠、むやみに飲まない方がいい。毒があるかもしれないだろうから」
だが、川に手をつけようとした三蔵を、悟空が引き留めた。
「そ、そうですね…迂闊でした」
口では納得したものの、八戒も三蔵も喉がカラカラに乾いている。
しかし悟空に強く言われ、二人とも渋々口にするのを止めた。
「俺、今日の宿探してくるから。悟浄、二人見張っといてくれよ」
右手で悟浄に合図をすると、返事も聞かずに人混みに消えていった。
それから少しの間、三人は川の傍で談笑していたが、喋れば喋るほど喉の乾きが酷くなっていく。
「もう無理!我慢できなーい!」
先に限界を訴えたのは八戒だった。
「だめだ、やめておけ…何があるかわからないだろ」
八戒の肩を掴んで抑えるも、じたばたと子供のように駄々をこねている八戒は聞く耳を持たない。
「やだやだやだ!死んじゃうもん!」
ついに悟浄の忠告を押しきって、八戒は川面に顔を突っ込み、喉を鳴らしながら川の水を飲んだ。
「…ぷはっ!おいしい!」
不安そうに八戒の様子を見ていた三蔵も、八戒の満面の笑みを見ると、安心して水を口にする。
「どうなっても知らんぞ…」
二人の様子を見て、溜め息混じりに悟浄が呟く。
しばらくして宿を見つけた悟空が帰ってくると、三蔵と八戒は何事もなかったようにニコニコと笑みを浮かべた。
たまにはゆっくりしたいと、一行は街を観光して歩いた。
街のあちこちを散策しているうち、違和感を覚える悟浄。
「女の人が多いんですね?男性禁制なんでしょうか」
悟浄の疑問に気付き、三蔵が不思議そうに辺りを見回す。
「さあな…でも、男に飢えてるからって誰彼構わず言い寄ってくるのは困る…」
悟空が溜め息を吐きながら呟いた言葉に驚き、八戒と三蔵が目を丸くして悟空を見た。
「えっ!言い寄られたの?」
と八戒。
「妖怪でも良いんですね…」
続けて三蔵が。
二人とも有り得ない有り得ない、と笑いながら返した。
「あのなあ……」
悟空が八戒の頬を盛大につまんで引っ張る。
「ごめんてばー!!うそ、うそ!」
頬をさすりながら八戒が謝る。
そんな他愛ない話をしていた一行を、わらわらと街の若い女たちが取り囲む。
「あの、旅のお方」
不意に話し掛けられ、悟空は妖怪の目論見ではないかと警戒し、後ろにいた三蔵を抱き寄せた。
悟空の反応とは反対に、八戒はいつも言い寄られない分、女たちに思う存分鼻の下を伸ばしていた。
「お姉さんたちかわいいね!今晩一緒に呑まない?」
「うふふ、ボク、口が達者ね~かーわいい」
少し頬をつつかれただけでデレデレしている八戒の姿を見て呆れ返る悟空。
「からかわれてんじゃねえか…」
一方の悟浄を見ると、八戒よりも多くの女に囲まれて苦い顔をしていた。
「お兄さんかっこいい~!」
「今日私の家に泊まってよお」
「美味しいものたくさんあるからぁ」
口々に誘いの言葉をかけられる悟浄。
女が不得手なのか、体を触られる度青い顔をしている。
「いや、俺は…その」
はっきり言えない性格からか口ごもり、今にも連れ去られてしまいそうな雰囲気だった。
「お兄さんも旅の人?」
悟空にも何人かが言い寄ってきたが、相手にしたくないとばかりにあしらった。
「悪い、俺急いでるから」
引き留めようとする女たちを尻目に、三蔵を抱き抱えて飯店へ走った。
「あー腹へった」
そっと三蔵を下ろして適当な席に座ると、八戒と悟浄も汗だくになりながら駆け込んできた。
「酷いよ悟空!僕たちに押し付けて逃げるなんて!」
「その割にはお前満面の笑みだったな。悟浄見てみろよ、瀕死だぞ」
ケタケタと笑う悟空にもたれかかり、ぐったりと青白い顔で悟浄が溜め息を吐く。
「嫌な予感はしてたんだ…」
「ふふ、大変でしたね」
くすくすと楽しそうに笑う三蔵に、三人もつられて微笑む。
旅に疲れても、三蔵の優しさがあるからこそ挫けずに今日まで歩いてきたのだ。
その後、街の特産物や見たことのない織物の話などをしながら、空っぽの胃袋にありったけの食事を詰め込んだ。
財布の軽さに肩を落とす三蔵。
空腹が満たされた一行は、取っておいた宿へ向かった。
「しっかしほんと、ババアの宿で良かったぜ」
「あのままどっか別なところに泊まってたら、今頃悲惨なことになってただろうな…想像しただけで震えが」
悟空と悟浄がニコニコと笑みを浮かべて安堵の会話をする。
宿に着くと、今まで積み重なった厳しい旅の疲れに倒れるように寝入った一行。
その夜、悟空と悟浄は何かの唸り声に跳ね起きた。
窓の外はまだ暗闇に覆われており、ぼんやりとした月光だけが窓からわずかに差し込む。
悟空が眠い目を擦りながら、蝋燭の火を灯す。
「う…うぅ…」
見ると、八戒と三蔵が苦しそうに悶えている。
「師匠!」
慌てて駆け寄り、三蔵の顔を撫でる悟空。
「大丈夫か?」
悟浄も八戒の体をさする。
「おなかが…」
痛みを堪えながら呟き、腹部を手でさする八戒。
三蔵もシーツを握り締めて同様に腹部の痛みに喘いだ。
蝋燭に照らしてみると、二人の腹部が膨れていることに気が付いた。
「なんだこりゃ…二人して、何か変な物でも食ったのか?」
呆れる悟空に、悟浄が言いにくそうに昼の事を話す。
「いや…昼間飲んだ川の水のせいかもしれない」
「川!?俺がやめろって言ったのにか!」
悟空の怒声に、申し訳なさそうに視線を落とす悟浄。
「すまん・・・」
聞いた途端、悟空の顔が怒りに満ちる。
「てめえ悟浄!何で止めなかった!!」
悟空が悟浄に殴りかかろうと拳を振り上げた時、八戒が床に何かを吐き出した。
「う…おえぇ…っ」
胃液に混じって流れ出た黒い異物。
悟空も悟浄も立ち止まり、暗がりの中で蠢くそれを凝視する。
ビチビチと跳ねるように脈打っていたが、すぐに煙となって消えた。
「なんだ…今のは…」
予想だにしない出来事に、思わず悟浄が呟く。
「あんなのが腹に入ったのか…?」
悟空も、黒い塊のあった場所を指先で触れながら、驚きを隠せずにいた。
「ふう…スッキリしたー」
訝しむ二人を余所に、八戒がぐぐ、と伸びをする。
「八戒、もうなんともないのか?」
八戒の肩を掴み、悟空は何度も聞いた。
「う?うん、うん、大丈夫大丈夫」
悟空にガクガクと体を揺さぶられて八戒が何度も頷いた。
落ち着きを取り戻し、不思議そうに小首を傾げる八戒を見て、二人は安心した。
だが、三蔵の容態が悪化し、悟空は表情を曇らせる。
「っ…く…う…ぅぅ……っ」
あまりの激痛の為か、顔を歪め、ぐすぐす泣きながら痛みに耐えていた。
「大丈夫か…いや大丈夫じゃないよな…待ってろ師匠、何とかするから」
そっと涙を拭うと、強く三蔵の手を握る。
出来ることなら、代わってやりたいー。
そう願ったところで、叶うわけがないのだが。
八戒のように吐き出せず、下腹部で不規則に動き、三蔵を苦しめる異物に悟空は苛立ちを募らせる。
その時、部屋の戸が開かれた。
「もし、どうなされた…こんな時間に」
夜中の騒ぎを聞きつけた宿の老婆だった。
事情を話すと、老婆は急にニタニタと不気味な笑みを浮かべた。
夜に見たせいで、不気味な笑顔だと錯覚したのかもしれないが。
「ええのう…早よ、赤ん坊産まれんかのう」
「赤ん坊…?」
唐突に発せられた老婆の言葉に驚き、思わず老婆を問い詰めた。
「ど、どういうことだ?川の水を飲んだくらいで身籠るのか?」
「そうじゃよ、この街の女は二十歳になるとあの川の水を飲んで身重になるんじゃ。へっへっへっ…そこの女子も調度良い年頃じゃろうて…。直に、産まれるわい……」
相変わらずニヤニヤと気味の悪い笑みを顔に貼り付けて老婆が笑う。
「なんだとババア!!」
悟空は理解し難い現実と老婆の話に苛立ったものの、三蔵の苦しむ最中に無駄な時間をかけていられないと我に還った。
八戒と悟浄に三蔵を任せ、宿の老婆に何か堕胎させる術は無いのかと訊ねる。
一瞬驚いたような顔をしたが、少し残念そうな態度を見せた。
「堕ろすのか?勿体無い…まあいいじゃろ…それなら、ひとつ山を越えた先の、解南山の破児洞にある落堕泉の水を飲めばいい。最近変な妖怪が独り占めしてるらしいがなあ」
「それを早く言え!」
老婆の話を聞き終わる前に、悟空は窓から筋斗雲に飛び乗り、解南山へひとっとびした。
破児洞に入るなり落堕泉を見つけた悟空は、傍にいる妖怪を脅しつける。
「おいデブ、そこの水をよこせ」
「ん~?誰だお前」
ずかずかと奥に進み、妖怪を蹴り飛ばした。
鈍い音をあげて妖怪が岩に額をぶつける。
「俺は天さえも跪く大妖怪、孫悟空様だ!頭ぁ潰されたくなかったらとっとと消えろ!!」
三蔵の体を考え、時間の余裕が無く焦る悟空。
蹴り飛ばされた妖怪は手で額を押さえ、悟空を睨みながら起き上がった。
「なんだって急に猿が来るんだ畜生…悪いが簡単に水はやれねえなあ…ん?こいつがいるということは…」
妖怪の話に耳を貸さず釣瓶でいそいそと水を掬おうとする悟空を尻目に、妖怪は大きな棍棒で背後から悟空を叩いた。
「ぐっ!なにしやがる!!」
焦っていた悟空は、小さくし耳にしまっておいた如意棒を取り出して素早く妖怪の脳天をかち割った。
これで五月蝿い奴が消えた、と清々する悟空。
しかしそれは妖怪ではなく、一本の木であった。
既に代わり身を施し、泉とともに妖怪は消えていたのだ。
「あの野郎…!!」
悟空は顔を真っ赤にし腹をたてながら、仕方なく宿に引き返すことに。
騙されたと思いながら舌打ちして部屋に戻った悟空は、三蔵の容態を確認しようと寝台に目をやり愕然とした。
「師匠……?」
怒りに冷静さを欠いていた悟空は、ひとつ深呼吸をして己を落ち着かせる。
三蔵が寝ていた寝台の傍らで、悟浄と八戒がすやすやと心地良さそうに床で寝ているのに気付いた。
「お前ら!なに暢気に寝てるんだ!」
二人を叩き起こすと、三蔵はどうしたと問い詰めた。
「悟空がくれた果物食べたら眠くなっちゃって…へへ」
「バッッッカヤローーー!!!!俺が師匠ほったらかしにして食い物なんか取ってくるか!!!」
解南山の妖怪の仕業だと勘づいた悟空は、鼓膜を揺らすほど大きな声で二人を一喝し、 忽然と消えた三蔵を探した。
「くそ…どこに行ったんだ…」
手掛かりがなく困り果てている悟空だが、部屋の隅に残っていた強い瘴気を感じ取り、窓から外へ続くそれを追って街を飛び出した。
「悟空!どこに行くの!?」
「まだ瘴気が残ってる!解南山にいた妖怪が師匠を連れていったのかもしれない!」
一人で駆け出した悟空を心配し、八戒と悟浄も急いで後を追った。
筋斗雲を使わずに瘴気を追いかけたが、悟空の姿はあっという間に闇へ掻き消えた。
遅れながらも悟空の足跡を追うと、一気に気温が下がり、辺りが雪に覆われた場所へ出た。
深い樹氷の森に到達し悟浄も八戒もぶるぶる震えていたが、寒さになど怯まず悟空はずんずん奥へと進む。
しばらく走ると、一段と強い瘴気を放つ氷の洞窟へたどり着いた。
「ここにいるのか…?」
ひんやりとした空気が立ち込める洞内を注意しながら進むと、途中に袈裟や数珠が乱雑に投げられているのが目についた。
不老不死を得られるという三蔵の噂を思い出した悟空は、最悪の事態を予想し、足を滑らせながらも、広い洞内を駆け回った。
「無事でいてくれ…っ」
洞窟内の侵入者の行く手を阻むかの如くあちこちに点在する鋭く尖った氷に全身を切られながらひたすら奥へ走ると、大きな氷柱に阻まれて行き止まりに当たってしまった。
何本もの氷柱が連なり、もはや氷壁のようだ。
しかし、もわんとした嫌な瘴気が立ち込めているあたり、この周辺に先ほどの妖怪がいることは明白だった。
「これじゃ進めねえじゃねえか…」
歯噛みしながら氷柱を握り拳で叩く。
ふと透明な氷の向こうにうっすらと誰かが倒れているのを目にした悟空は、如意棒で薄い氷に穴を作った。
奥を覗いてみると、一糸纏わぬ姿で横たわる三蔵の姿がそこにあった。
見てはいけないものを見たと言わんばかりに一瞬視線を逸らしてしまったが、今はそんな純情ごっこをしている場合ではない。
「師匠!!なんでハダ…いや今はそんなこといいんだ」
「ごく…う…?」
相変わらず陣痛の波に襲われているのか苦悶の表情を浮かべているものの、三蔵の姿を確認して胸を撫で下ろした。
三蔵も悟空の姿を見て弱々しく微笑む。
まだ血色はいいが、冷気に体がやられないうちに助けなければ。
「とりあえず、良かった…」
ほっとして瞳を潤ませた悟空は、後ろから聞こえてくる二つの足音を耳にして涙を引っ込めた。
「はあ…はあ…、悟空、早いよ…」
八戒と悟浄がヘロヘロになりながら悟空に追い付いたのだ。
「遅いんだよお前ら!」
振り返り、二人に向き直って悪態をつく悟空。
八戒が悟空の目頭が赤くなっているのに気が付く。
「あれ?悟空目が潤んでるよ?」
どうしたの、と八戒に突っ込まれて顔を真っ赤にする悟空。
「うるせえ!目にゴミが入っただけだ!」
「あ!法師さまだ!えっ?!何で裸なの!?ぶぐっ!」
ごしごしと目を擦っていた悟空ははっとして八戒をぶん殴った。
「見るんじゃねえええ!!!」
ドキドキしながら八戒を押さえつける悟空を余所に、悟浄が冷静に状況を把握した。
「悟空、法師様をどう助けたらいい?この氷柱はお前も俺も、八戒の馬鹿力でさえも壊せないと思うんだが…」
「あっ!?あ、ああ…そうなんだ…紅孩兒の野郎でもいてくれりゃ、あっという間に溶かしてくれんだろうけどなあ…」
三蔵の体を心配し、氷柱を前にやきもきしていると、三蔵のいるすぐ傍の暗がりから見覚えのある顔が出てきた。
「あっ!?てめえさっきの!!」
悟空は解南山で逃げられた妖怪を忘れていなかった。奴こそが三蔵を連れ去った張本人なのだ。
「あん?あー、お前ここまで追っかけてきたのか・・・ただの猿じゃなかったんだなぁ」
氷柱越しに悟空を鼻で笑う醜態の妖魔。
「くそ…さっき早くぶん殴ってりゃ…」
下唇を噛みながら、先ほど取り逃がしたことを悔やむ悟空。
「くっ…ははは!このドデカい氷柱はお前らには壊せまい!あの炎の妖怪である紅孩兒でさえもそう簡単に溶かせないだろうな!」
そう言い放ち、手も足も出ない悟空に見せつけるように三蔵を抱き抱えた。
「これが噂の三蔵法師か…お前が惚れるのも無理はない…食らうのも勿体無い美しさだ…」
「てめえ!汚ない手で触るな!!」
氷の檻の外で吠える悟空を一瞥し、太い指で三蔵の頬を撫でながらぷっくりと膨らんだ下腹部に触れる。
部屋で見た時よりも更に大きくなっているようだった。
「こんなまやかしのモノより、俺様の子を身籠ってほしいなあ…はああ…」
「ひ…ぃ…っいや…!ご、悟空…ッ」
妖怪の鼻息が顔にかかるたび恐怖に顔が強張る三蔵。
ぼろぼろと涙をこぼしながら悟空に手を伸ばすも、氷柱に阻まれて悟空は触れることが出来ない。
怒りに任せ、如意棒で何度も氷柱を叩くがびくともしない。
薄い部分の氷を叩くが、それさえも僅かに氷欠片が散るだけで終わってしまう。
焦る姿を楽しそうに眺め、更に悟空を罵る妖怪。
「天下の弼馬温(ひつばおん)もこの程度かあ?女の一人も守れずによく今日まで生きてこれたなあ!」
弼馬温―
無意識に口にしたこの言葉で、悟空の中に激しい怒りが覚醒した。
「ウォォォォォオオオオオオオオ!!!!!!!!!!!!!!!!」
大地を揺るがすような、低く重い獣の雄叫びが洞窟内に響き渡る。
それと同時に悟空の短い赤髪が腰につくほど伸び、頬の古傷が赤みを帯びていく。
「グオォォオォォオオオォオ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
光を失った青い瞳で対象を捉えたまま、悟空は氷柱に拳を突き立てる。
轟音を発しながら氷柱にヒビが広がったかと思うと、次の瞬間には呆気なくガラガラと崩れ落ちてしまった。
「そんな…ばかな…っ!」
予想外の展開に呆然とする妖怪。三蔵を離し、ずりずりと後ずさる。
その顔面に重い拳が食い込む。
「ガアァ!!ギガアアアァアアア!!!!!!!!」
「ひいいいい!!!」
理性を失い、ただただ妖怪をぶちのめす悟空。
ふと動きを止めたかと思うと、充血した赤く燃えるような眼で血に塗れた妖魔を見据え、鋭い爪で深く切り裂く。
断末魔をあげる間もなく、刹那のうちに解南山の妖怪は肉塊となった。
赤い海に立つ、鮮血に染まる悟空。
何の感情もない笑顔でじっと血肉を眺めていた。
今まで見たことのなかった悟空の姿に怯え、三蔵は氷の檻の隅で震えている。
強烈な恐怖が腹部の痛みを上回ったのだろう、ガタガタと体を震わせて痛みどころではなくなっている。
悟浄と八戒も恐怖に体が強張ってしまい、悟空の様子をじっと見つめていた。
不意に荒い呼吸をしながら、悟空は静かに動くのを止めた。
八戒が悟空を不思議そうに見ていると、天井から悟空の頭めがけて人の頭ほどの氷塊が落下するのに気付いた。
「あぶな…っ!!」
慌てて悟空のもとに駆け出す八戒。
しかし八戒が駆け出すのとほぼ同時に、悟空が目にもとまらぬ速さで氷塊を蹴り飛ばす。
散り散りになる氷のシャワーが降り注いだ後には、変わらず悟空が立っていた。
視界の届かない、頭上からの動きにも反応したようだ。
どうやら、動くものを反射的に攻撃しているらしい―。
「八戒、動くな」
不敵な妖笑を顔に貼り付けた悟空の異変を察知した悟浄だったが、八戒に伝わるのがほんのわずかに遅かった。
「ご、悟空?」
少し距離を置いて悟空に意思の疎通を試みた八戒。
だが夜叉のような、悪鬼の如き例えようのない恐ろしい顔を目にして後ずさってしまった。
「ひっ…」
その動きを感じ取った悟空の蹴りがめり込み、八戒は勢いよく吹き飛び、氷の壁に叩きつけられた。
「クッ…」
仲間にさえ牙を剥く見境のない行動に、悟浄が目を見開く。
悟空や悟浄に比べ八戒の体は小さく、脆いものがあった。
壁に食い込み、気絶している八戒。
悟浄は八戒を助け出そうとしたが、迂闊に動けば八戒の二の舞になる。
そう頭に考えが過り、歯噛みしながら動けずにいると、何を思ったか三蔵がずるずると這いずるように悟空の方へ向かった。
幸運なことに、悟空は三蔵には攻撃をしなかった。
「…悟空、どうしてこんな…」
弱々しく、か細い声でぽつりぽつりと話す三蔵。
悟空は眉ひとつ動かさない。眼球だけがぎょろりと動き、三蔵を見下ろす状態になる。
「どう、したの…ですか?」
八戒同様に話しかけたのだが、その行動が無意味であることを悟浄は知っていた。
先ほど見た変貌ぶり、無差別な攻撃。
それは、一部の妖怪に見られる異変なのだ。
「法師様、今の悟空は理性が破壊されている。何をしても無駄だ」
「え…」
悟空を警戒しつつ、悟浄が三蔵に話す。
音もなく声も出さず、悟空が笑っている。
だが攻撃してこないところを見ると、遠目であれば多少の動きは認識しないのかもしれない。
「妖怪の中には強力な妖力を持つ『魁驥(カイキ)』という種の妖怪がいる。俺と悟空はその種類に属する。理由はわからないが、何かのきっかけで暴走するらしい」
「じゃあ今の悟空は…」
青ざめる三蔵に、悟浄が小さく頷く。
「理性という箍(たが)が外れた、ただ暴れ続ける化け物だ」
自我が崩壊した化け物。
きっと話に聞いただけならば到底信じられなかっただろう。
だが、今の三蔵は否定か肯定かなど選べなかった。
この現状を見れば、嫌でも受け入れるしかない。
三蔵の悲し気な顔を見て、悟浄が強く握り拳を作る。
「とりあえずあの猿を殴ってくる。最悪法師様だけでも、あなただけでも助けなくてはならない。悟空が俺に気を取られている間に、堕胎させる水を探してください」
「だめです」
きっぱりと言い放たれ、悟浄は思わず目を丸くした。
「え……」
握っていた手から思わず力が抜ける。
普段大人しい三蔵の意外な態度に悟浄はぽかんと口を開けたまま次の言葉を待った。
「みんな揃って天竺に行かなければ意味がないんです。悟空も悟浄も八戒も、みんないっしょです。誰も欠けちゃいけません!」
まっすぐな三蔵の言葉に言い返せず、呆れたようにくすりと笑う悟浄。
「頑固な法師だことで…」
ホッとして三蔵も笑みを浮かべる。
しかしどうしたものかとしばらく悩んでいると、氷の崩れる音とともに八戒が意識を取り戻した。
「う…」
多少の出血はしているものの、ほとんど無傷なようだ。
「八戒!大丈…」
安心した悟浄だが、同時に悟空が八戒へ疾風の如く突進していくのに気付いた。
「くっ…!!」
悟浄は跳ねるように地面を蹴ると、急加速して悟空の目の前に立ちはだかった。
突然現れた障害物を前に、反射的に減速する悟空。
「目を覚ませ悟空!」
八戒を庇いながら説得を試みる悟浄。
だが聞こえていないかのように、悟空は二人に噛みつこうと、口端から鋭く光る牙を剥き出しにした。
「ガアアァアアアア!!!!!!!!!!」
腕の装甲でなんとか悟空の攻撃を防ぐも、数分もしないうちに削られ、抉り取られていく。
遂には跡形も無くなり、八戒も自らの武器である馬鍬(まぐわ)で応戦することに。
「このままじゃもたないよ…っ!」
焦りが二人の筋肉を硬直させる。
狩りに手間取る獅子のように、ますます苛立ち、怒りを燃やす悟空。
額に血管が浮き出るのを二人が目にした時、高く蹴りあげて八戒の馬鍬を潰し、更にその脚を素早く悟浄の肩に降り下ろした。
踵落とし―
骨の砕ける嫌な音が耳に入る。
「ぐあぁあぁあああああ!!!!!!!」
激痛に叫び、地に膝をつく悟浄。損傷した骨の一部が皮膚を貫き、血が溢れ出す。
「悟浄!!」
八戒が悟浄の傍でうろたえている。
「なんてことを…っ」
悟浄の痛々しい姿に、三蔵も顔を背けた。
獲物を仕留めたことで満足したのか、きょろきょろと周囲を見回す。
ここにきて悟空が三蔵を視界に入れた。
何に興味を示したか、目を見開いてゆっくりと近付く。
「法師さま逃げて…っ!」
ふらふらと三蔵のもとへ向かう八戒。
その行動を察知した悟空に睨まれ、八戒は震え上がり腰を抜かしてしまった。
八戒に掴み掛かる悟空を止めようと、三蔵は悟空の尻尾を掴む。
「ギイィ…!!」
だが悟空はそんなものを気にもかけず、八戒の首を締め上げていく。
三蔵はどうにかこの暴走を止められないのかと思考を巡らせる。
「縛!」
思い出したように口を開き、慌てて声にする。
すると、悟空の額にがっちりとはまった緊箍呪が、ぎちぎちと音をたてて額に食い込んだ。
「グア゙ァ゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!!!!!!!!!!!!!」
急に訪れた激しい痛みに、八戒を放り投げ、地面に転がり悶える悟空。
洞窟内に絶叫がこだまする。
緊箍呪の締め付けに吼え、暴れまわる悟空を見て胸が痛み、三蔵はぎゅっと目を瞑ったまま小刻みに震えていた。
しばらくすると、ぴたりと音が消えた。
―不意に、三蔵の頬に温かいものが触れる。
「っ……?」
恐る恐る目を開けると、三蔵の眼前に不思議そうに自分を見つめる悟空の顔が有った。
「テイ…セン」
そう呟くと、驚き、固まっている三蔵の頭を撫でてぱたりと倒れた。
「え……」
倒れた悟空を胸に抱きながらぼーっとしている三蔵のもとへ、八戒と悟浄がふらふらと集まってきた。
「法師さま、これ飲んで!」
「えっあ…二人とも…大丈夫ですか?」
水を汲んできた八戒の言葉に、はっとして二人の傷を見る。
「ああ…八戒は鎧のおかげで大したことにはならなかったんだ」
「悟浄は結構大きい傷だけどね…」
だらりと下がったままの悟浄の腕を見て、八戒が俯く。
「すみません、私がもっと早く緊箍呪を使っていれば…」
「法師様のせいじゃない。俺が迂闊だった。法師様が無事で良かったさ…」
まだ動く片手で袈裟を手渡すと、痛みをこらえながら悟浄が三蔵に微笑む。
八戒の汲んできた水を飲むとみるみるうちに腹部の膨らみが治まり、あれほど酷かった激痛も、始めから無かったかのようにどこかへ消え失せた。
落ち着きを取り戻した三蔵は、倒れたままの悟空に目をやった。
「死んじゃったのかな…悟空」
八戒がつんつんと悟空の頭をつつく。
「勝手に殺すな!」
同時に、猿の怒号が飛ぶ。
起き上がって八戒の頭を殴り付ける悟空を見て、三蔵は胸を撫で下ろした。
「悟空…」
いつもの悟空だ―。
そう認識した途端、三蔵は瞳を潤ませた。
「師匠!?あっ!おなかまだ痛いのか!?」
いつもの短く赤い髪。
「あ、いえ…悟空が元に戻って…嬉しくて」
いつもの声。
「元に戻って…?なに言ってるんだ?俺は俺だ!」
いつもの笑顔。
「さっき暴れたの覚えてないの?!僕たち大怪我したんだから!
悟浄は骨ばっきばきになっちゃったんだよ!?謝ってよ!!」
ガミガミと喋りながら八戒が悟空につっかかる。
「暴れたぁ!?俺ずっと気失ってたんだぞ!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人を見て自然に笑みが溢れる。
「いいんだよ、八戒。俺の腕一本で済んだんだから」
ぽんぽんと八戒の頭を撫でて落ち着かせる悟浄。
「悟空が暴れて悟浄が大きな怪我をしてしまったんです、ちゃんとごめんなさいってしてくださいね?」
「う…わかったよ。なんだかよくわかんねーけど。でも良かったぜ。あのクソ妖怪のとこに行けなくて…師匠が泣いてて…テイセンが俺を―」
テイセン?
三人はぽかんと口を開けて悟空を見る。
「悟空…それ、さっきも言ってたが誰のことなんだ?」
「あー…ずっと前、封印されてた俺を世話してくれたやつがいたんだ。おせっかいなやつだったけど…そいつがさっき見えたんだ」
「へえ、そんなことあったんだー」
ふうん、と八戒が適当な相槌を打つ。
「綺麗な黒髪でさ、何も食えねえ俺に毎日肉とかこっそり持ってきてくれたんだ。ある日突然いなくなっちまったんだけど、そのあと師匠が来たんだ。もしかしたら、あの子が師匠を呼んでくれたのかもな…」
妙に饒舌に喋る悟空を見て、おかしそうにくすくす笑う三人。
「頭ぶつけたんじゃない?それか股間に氷柱刺さってる?」
「うるせえクソガキ!」
悟空は自分の頭をぽかぽか叩く八戒を掴んで羽交い締めにすると、思い出したように三蔵を抱き上げた。
「そろそろ寒さ感じる頃だよな、とっとと帰ろうぜ…なんか、すんげえ疲れたし…」
洞窟を出ると、すっかり夜が明けていた。
思っていた以上に時間が経っていたらしい。
何事も無かったように月が落ち、陽が上がる。
再び天竺への旅へ向かわなければならない。
宿に戻り身支度を整えている間、三蔵はひとり悶々と悩んでいた。
―またこんなことがあるのだろうか。
本当の自分さえも知らず、無力で無知で、そしてこの体。妖怪に襲われに行けと言われているようなものだ。
怖い。怖い。考えれば考えるほど、底の見えない暗がりに引き込まれるような感覚を覚える。
力のある悟空や八戒たちにはわからないだろう。
どこにいても狙われるのだ。
そう考えると、無意識に体が震えた。
「どうした?師匠」
目線を合わせ、そっと悟空が顔を覗き込む。
不安で胸が埋め尽くされ、何も言えなかった。
「怖いのか…?」
優しく三蔵の両手を握る悟空。
大きな温かい手。
少し安心して、三蔵が胸のうちを話し出した。
「……これから先も、今回のようなことがあるのでしょうか…」
悟空が僅かに眉根を寄せる。
「ある」
きっぱりと断言され、また不安に顔を曇らせる三蔵。
当たり前だ。どれだけの数の妖魔がこの世にいるのか、見当もつかない。そのくせに三蔵の噂だけは多くの妖魔が知っている。
どこに逃げても、果てなく追い続けてくるだろう。
「でも、俺がいる」
三蔵の瞳をじっと見つめて、強い口調で続ける。
「俺がいる限り、師匠はどんな奴にも渡さない。俺は死んでも師匠を守り抜くって決めたんだ。ちっとは怖い思いするかもしれねえけど、何があっても、どこにだって俺が絶対助けに行く!師匠はいつも笑顔でいりゃいいんだよ!」
どこから沸いてくるのかと思うくらい、自信に溢れる悟空に、三蔵もこくりと頷く。
「僕と悟浄もいるからね!」
突然悟空と三蔵の間に割って入ってきた八戒に、少し驚きつつも、三蔵は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
つられて皆、笑顔になってしまう。
師匠の笑顔が俺たちの光なのかもしれない―。
そう思いながら、悟浄も顔が綻ぶ。
一行の絆が深まった日だった。

旅路は続いていく。
西へ
西へ。

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