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女性になりたいという男性とは、いったい何者なのだろうか?

『クイーンになろうとする男』から     

 日本語翻訳版のあとがき

 本稿は、生物学的女性の権利を守る会が、著者の承諾を得て翻訳したマイケル・ベイリー『The Man Who Would Be Queen』所収のあとがきを転載したものです。『クイーンになろうとする男(The Man Who Would Be Queen)』をお読みになりたい方はここをクリックして、当会までご連絡ください。makibaka1225@gmail.com
 
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キャンセルされた『クイーンになろうとする男』
 
 本書は、現在絶版になっている。ネット上では誰でも読めるが、いかんせん、それは原書のPDF、つまり全て英語なのである。どうしてもこの本を読みたかった私たちは、最初は自分たちが読むために、そしてまもなく、他の人にも読んでほしいと思って翻訳作業をすることとなった。幸い、著者のマイケル・ベイリーさんから、日本語翻訳の許可をいただくことができた。というわけで、『クイーンになろうとする男―ジェンダー変更とトランスセクシュアルの科学』は、日本ではこれが初お目見えである。
 なぜ、本書が紙の書籍としては絶版になっているかというと、キャンセルされたためである。何があったかについては、アリス・ドレガー著『ガリレオの中指:異端者、活動家、正義の探求(Galileo's Middle Finger: Heretics, Activists, and the Search for Justice)』(みすず書房・刊) に詳しく書かれている。キャンセルされた理由を一言で言うなら、「正しいことを書いたから」である。マイケル・ベイリー(以下敬称略)は、トランスセクシュアル(著者注:『クイーンになろうとする男』で著者はトランスセクシュアルの定義を「異性の一員になりたいという願望を持つ成人」として使用しているので、本稿もそれにしたがう。)にとって良かれと思って正しいことを書いたのだが、あいにくそれはトランス権利活動家にとっては「不都合な真実」だったのだ。ことの真相等に関しては、『ガリレオの中指』に譲るが、ベイリーに対するトランス権利活動家からの訴えは、全てでっち上げであったということだけは、この場で述べておきたい。
 
サッカーの好きな女の子は心が男の子なのか?
 
 さて今日、「性の多様性」教育がある程度浸透しているせいか、セックスとかジェンダーとかに関連する概念について、人々は混乱しているように思う。「サッカーの好きな女の子は心が男の子だ」と発信するトランス権利活動家が出てきたり(サッカー女子の方は反論した)、「男性向けのAVを見て女性の裸体に興奮する私はレズビアンでしょうか」などという人生相談が新聞に載ったり(もちろんそれは回答者によって否定された)、とにかくややこしいことになっているのだ。ひと昔前なら、サッカーが好きな女の子やファッションが好きな男の子がいたら、男女の性別役割分担意識をなくしていこうという観点から、教育者によって「そういう女子や男子がいてもいいんだよ」と当事者は大いに励まされたのではないかと思うし、女性がポルノの中の女性に興奮した件は、過激な性描写のレディースコミックの話題とともに「女性はレイプされたがっているのか」「違う、性的ファンタジーとリアルなレイプは全く違う」などという議論につながったであろう。「サッカー女子は、本当は男の子なのだ」とか「女性の裸体に興奮する女性はレズビアンだ」という理解はまず考えられなかったと思うのだ。しかし、今では話が逆だ。「女はこうである」「男はこうである」という規範から外れると、何か別の者なのではないかと見なす風潮に変わったのだ。本当に何か別の者だったなら良いが、そうでない人までそうだと思い込まされるのは、悲劇ではないだろうか。間違った事実に基づいた対処法は、問題を解決しないのだから。
 かくいう私たちも混乱している。私たちは、生物学的性別(sex)は生殖のシステムであり、男女の2つしかなく、生涯不変だと考える。しかしそれ以外の要素(性自認、性表現、性的指向)が入り乱れ混在して、しばしば理解が妨げられる。はっきり言おう。私たちを一番困惑させているのは、女性になりたいという男性なのである。そのような人々は一体何者なのだろうか。
 
●「心が女性」「脳が女性」とは、どういうことを指すのか
 
 女性になりたいという男性についての一般的な説明は、「女性の脳を持ちながら、間違った、ペニスのある男性の身体で生まれた」とか、「身体は男性だが、心は女性」というものだ。日本では「女性の脳を持って生まれた」よりも「心が女性」の方がよく使われているように思うが、「男性の着ぐるみを着た女性」という言い方が一番分かりやすいだろう。これらは、性同一性障害(GID)についての説明であったと思う。ともかくこの説明に乗っかれば、「内面は百パーセント女性であるから、手術などを受けて身体の外側を変えたなら、もうすっかり女性同然と考えて良いのだな」という理解にすんなりいくのだ。だが、「心が女性」とか「脳が女性」とは、どういうことを指して言っているのだろうかという疑問が湧く。外側である身体ではなく、内面が女性だというのであれば、いわゆる「女らしい」、「男らしい」と言われる性格特性の問題になる。「女らしい」、「男らしい」とは、男女それぞれのステレオタイプのことである(以下のサイトからピックアップした項目を挙げるhttps://thenewbacklash.blogspot.com/p/1-sex-vs-gender.html)
 
女らしさのステレオタイプ
【資質】
    quiet      (静か、穏やかな、黙っている)
    obedient     (従順な、素直な)
    empathetic    (共感的な)
    selfless        (無私無欲) 
         submissive   (服従)
【興味】
    Fashion       (ファッション)
    Romance     (恋愛もの)
    Gossip      (噂話)
    Language    (語学)
【褒め言葉】
    Pretty, Sweet    (可愛らしい、優しい)
【願望】
    physical beauty (精神ではなく)物質的な美
    desirability      (性的魅力があること)
    Relationships  (人との結びつき)
    Babies     (赤ちゃん)
 
男らしさのステレオタイプ
【資質】
    active          (活発な、積極的)
    confident         (自信に満ちた)
    aggressive       (押しの強い、攻撃的な)
         dominant         (支配的)
【興味】
    Sports        (スポーツ)
    Guns          (銃)
    Cars         (車)
    Math and Science (数学と科学)
【褒め言葉】
    Smart         (頭の良い、賢明な)
    Strong        (体力のある、強健な)
【願望】
    Independence (独立)
    Power      (権力)
    Career      (生涯の仕事) 
    Wealth     (富)
 
ステレオタイプにぴったり当てはまる人はほとんどいない
 
 この男女のステレオタイプは、いわゆるジェンダー、社会的に作られた性別による規範である。これは、生物学的性別(セックス)をベースにしている。ところで、これらの性別のステレオタイブに完璧に当てはまる個人はどれくらいいるだろうか。また、性別のステレオタイプのこの部分は自分については当てはまらない、むしろ反対の性別の特性に近いという人はどれくらいいるだろうか。女性のステレオタイプは、見ての通り、男性に対して従属的な性質、男性の性欲の対象または、男性のケア役割を担うように作られているように思われる。これらに完璧には当てはまらない女性、これらのステレオタイプが嫌な女性にとっては、自分の生まれつきの個性を抑圧するものだと感じられるだろう。だから、ステレオタイプの押し付けを女性差別であるとして拒否する女性がいてもおかしくはない。従来は、そういう人たちは、「女性である私を男性と平等に扱え」と言ったかもしれないが、「私は男性だから男性として扱え」とは言わなかっただろう。今だったら、女性として生きるのはしんどい、女性でいるのが辛いと感じた女の子が、女性である事実を忌避したいという無意識の動機を、自分では性別違和だと思って周囲に表明するということも当然起こるだろう。
 ベイリーは、ある専門家からあけすけにこう言われたという。「性同一性(筆者注:原語はgender identityで、性自認と同じ)とは、『自分自身を男性または女性であるとする内的感覚である』と定義されている。一体どういう意味なんだ?」。要するに性自認・性同一性(gender identity)の定義は、専門家にも意味が分かりかねるようなものなのである。このような定義では何の説明にもなっていないのだ。「性自認とは何か」が分かるのは「自分の性自認は~だ」と表明したその人だけであり、周りがその人に性自認の説明を求めることは良しとされないようである。性自認(gender identity)とは基本的に自称だとしか言いようがないように思える。
 ともあれ、ベイリーも、「性同一性(gender identity)はおそらく二元的で白黒の特性ではなく、ピンクのフリルのついたドレスが大好きで、男の子になることを想像できない女の子と、女の子になることを考えただけでぞっとする極めて男性的な男の子の間には、間違いなく内面の経験に段階的変化がある」と述べている。女性の中には男性的な女性もいれば女性的な女性もいる。男性もまた然りなのである。
 
とても女らしい男の子は、大きくなったら何になるのか?
 
 さて、前置きが長くなった。本題に入りたい。女性になりたいという男性は一体何者なのだろうか。彼らが手術などを受けて身体の外側を変えたなら、もうすっかり女性同然と考えて良いのだろうか。個々人は「男らしさ」「女らしさ」のステレオタイプにぴったり当てはまるものではないということを念頭において考えよう。
 本書の第1章に登場する超女性的な少年ダニーの女らしさは、1歳未満から発揮された。遊ぶのは、女の子かおとなしい男の子であり、幼稚園に行くと、女の子とままごと遊びをするダニーは、他の男の子からのいじめにあう。ダニーは、女性のステレオタイプにぴったり合っているのだろうか。いや、性格はそうではなさそうだ。幼稚園の先生がこう言っている。「彼は偉そうな態度で、要求することが多いのです。自分が遊んでいる女の子に、こうしろ、ああ言えと命じるのです。一言多いのです。 他の子からからかわれると、無視するどころか、相手を刺激するような言い方をするのです。先日、誰かが彼のことを女の子と呼ぶと、彼は『間抜けで、きたならしい男の子より、女の子になりたい』と言ったのです。彼のふてぶてしさに感心しましたが、その一方で、こんなことをしていたらもっと大変なことになると思ったのです」。ダニーの【資質】は、active(活発な、積極的)、confident(自信に満ちた)、aggressive(押しの強い、攻撃的な)という、男性のステレオタイプに当てはまっている。【資質】は男らしいが、ただ、【興味】が女らしいのである。たいていの場合、幼少期から女らしい好みを示す男の子がいたら、GIDではないかとまずは疑うだろう。だが、ダニーは、GIDの診断基準には達しなかった。男らしい活動を拒否することは確かであるが、自分のペニスについて訴えたことは一度もなかったからだ。とはいえ、「ペニスを持ちたくないという願望を示さないが、乱暴な遊びが嫌いで、ステレオタイプな男性のおもちゃ、ゲーム、活動を拒否する」という場合にも、性別違和の基準を満たすことがあるので、ダニーのような男の子に小児期GIDという診断が下される可能性がある。これに対して、女性的な男の子に小児期GIDという診断は存在すべきではないと考えるゲイの人たちが出てきている。女性的な男の子の多くは、成長してゲイの男性になるからである。葛藤がありながらも時間が経てば健康なゲイの男性に成長する男の子を、早まってGIDと誤診をすることへの懸念である。
 
女らしい男の子は女性になるのか?それともゲイの男性になるのか?
 
 だが、女性的で同性を好きになる男の子が、必ずゲイの男性に成長するわけではない。トランスセクシュアルになることも多い。本書に登場するフアニータがそうである。同じように女性的な男の子であり、思春期に男性を好きになることが分かった人が、ゲイの男性になる場合とトランスセクシュアルになる場合とでは、何が違うのだろうか。ある同性愛型トランスセクシュアルは、「私の文化はとてもマッチョで、男性の女っぽい行動に対して寛容ではないの。女性になる方が簡単よ」と語った。一方、ダニーの母は、ダニーが幸せならゲイの男性になることはかまわないと考えていた。同じように女性的な男の子でも、その子がどのような家庭やコミュニティで育つか、文化の側の許容度が左右していると思われる。
 
昔から世界各地にあった、女らしい男性同性愛者の「受け皿」
 
 そもそも、女性的な男性同性愛者は昔から存在していて、世界の様々な地域で、その「受け皿」が用意されてきたことが、第7章『ホモセクシュアリティは最近の発明か』で述べられている。だが、最近のトランス権利運動の当事者たちと彼らが全く同じかというとそうではない。伝統的に女性的である男性同性愛者の「受け皿」を持つ社会では、彼らが生物学的男性であることを本人も周囲も知っている。女性的な男性同性愛者が女性的な役割をし、同性愛の欲求を満たすことを社会は認めているが、だからと言って、彼らが「自分たちは生物学的女性と同じく女性だ(「トランス女性は女性だ」)」と主張しているわけではないし、社会が「彼らは女性と全く同じ」とみなしているわけではない。ただ、女性的な男性のための特別な社会的地位が、その社会には用意されているということなのだ。
 子どもの時から女性的な男性同性愛者が自らの幸せ(同性愛の充足)のためにトランスセクシュアルとなる選択をする時、ゲイの男性は女性的な男性ではなく男性的な男性を好むという事実を無視することはできない。具体的な判断は次のような考えの下に決定される。「性転換してうまくやれるのだろうか?女性としての方がより幸せになれるのだろうか?男性としてゲイの男性を手に入れるより、女性としてストレートの男性を手に入れる方がもっとうまくいくのだろうか?」。そして、同性愛型トランスセクシュアルの男性は、女性と同様の外性器や膣を手術で手に入れる。となれば、同性愛型トランスセクシュアルはほぼ女性と同じと言って良いのだろうか(ジェンダーのステレオタイプは誰もが男女どちらかにぴったり当てはまるものではないということはすでに述べた)。
 
女らしい男の子が女性になって男性を好きになるなら、女性と同じなのか?
 
 女性と同じとは言えない側面があることは、本書を読めば明らかである。同性愛型トランスセクシュアルの望みは「(まだ手術を受けていなければ)手術を受け、結婚して、自分の面倒を見てくれる素敵で魅力的で経済的に安定した異性愛男性に出会うこと」だという。だが、そのような理想の相手を奇跡的にも見つけたフアニータは、1年も経たないうちに夫と別居したのだ。魅力的な様々な男性とセックスしたいという希望が、1人の理想の男性との安定した結婚生活より勝ったということだ。口にする望みは女性的なのに、性的欲望は男性的で、実際にとる性的行動も男性的、つまり何の感情もわかない行きずりのセックスを楽しめるということである(女性には非常に難しいことだ)。
 ゲイの男性と同性愛型トランスセクシュアルとでは、見た目も女らしさの点でも歴然と違うので戸惑ってしまうが、ベイリーは、トランスセクシュアルと普通のゲイの男性の間にある「ミッシング・リンク(消失連鎖)」はドラァグクイーンであると言う。ドラァグクイーンは、「たまに女装をするものの、性転換をするつもりはなく、物理的に身体を女性化するような措置もとらないゲイの男性」で、後で述べる異性愛者の女装(オートガイネフィリアのこと)とは異なり、女装することで性的興奮を覚えることはないし、トランスセクシュアルよりもずっと自分のペニスが好きだ、というのである。男性的なゲイの男性、ドラァグクイーン、同性愛型トランスセクシュアルは、グラデーションのように見かけや女らしさの程度こそ段階的に違うが、みな同性愛の男性なのである。
 さらに言うならば、ゲイの男性は性的に乱交だが、それはゲイだからではなく、本質的に男性的な特徴を表現しているだけであると言う。彼らは、異性愛者の男性の多くができることならそうするであろうことをしているのである。つまり、異性愛者であれ同性愛者であれ、男性は、男性的な特徴(性的に乱交であること)を持つということだ。
 このように、同性愛型トランスセクシュアルは、どれほど女らしくても、外側(外性器や膣まで)を女性そっくりに変えたとしても、性的な面で基本的に女性とは全く異なっていることが分かった。
 
もう一つのタイプ、オートガイネフィリアは、女らしい子ども時代のない男性
 
 さて、女性になりたいという男性のもう1つのタイプが、オートガイネフィリアである。トランスセクシュアルと言っても、オートガイネフィリア型と同性愛型では、子ども時代の様子も、就く職業も、性別を移行しようとする年齢も全く違う。だから、オートガイネフィリアは女性的な男の子・ダニーのように小児期のGIDを疑われることはまずない。人生の半ばを過ぎ、妻子もあり、社会的地位もある男性が、「実は昔から心は女性だったのだ」とカミングアウトして、メディアの注目を集めることがあるが、彼らはオートガイネフィリアだったのだ。たいていの場合、思春期に女性の下着を身につけて性的興奮を覚え、自慰をすることからオートガイネフィリアが始まるらしい。当然、親には内緒でやるので長い間気づかれることはないだろう(しかし、最近では、性別違和があると10代で宣言するオートガイネフィリアの男の子もいるようである)。
 オートガイネフィリアの人の特徴として、共通して嘘をつくことがあげられている。それは「自分は異性愛者ではなく同性愛者である」というものだ。彼らは、女性の服装をすることについて説明する時、性的要素があることを公的な場では否定する。そして、「男性の身体に閉じ込められた女性」というお決まりのストーリーを語るのである。「男性が好きな人(同性愛型トランスセクシュアル)は、男性を惹きつけるために女性になるが、 女性を愛する者(オートガイネフィリア)は、自分が愛する女性になりきるのだ」。しかし、オートガイネフィリアとは、「男性の身体に閉じ込められた女性」ではない。内科医で性科学研究者であり、自身も手術済みのトランスセクシュアルであるアン・ローレンスは、彼らを「男性の身体に閉じ込められた男性」と呼んでいる。実際、オートガイネフィリアは、(女らしい)同性愛型トランスセクシュアルと比べると、明らかに「男らしい」のである。彼らが女らしく見えるためには、かなりの努力が必要となる。
 オートガイネフィリアは異性愛の一種であるが、正確には、「非同性愛型」のトランスセクシュアルがオートガイネフィリアである。異性愛者だけでなく、バイセクシュアル、アセクシュアルのオートガイネフィリアもオートガイネフィリアである。つまり、彼らが最も魅かれるのは、彼らがなるであろう女性(女性としての自分)だということだ。
 
オートガイネフィリア型の共通点は、女装した自分に性的に興奮した経験があること
 
 同性愛型トランスセクシュアルと非同性愛型トランスセクシュアルの最も顕著な違いは、女装に関してである。同性愛型トランスセクシュアルは、女装しても性的に興奮しないが、ほとんどの非同性愛のトランスセクシュアルは、少なくとも過去には女装に性的興奮を覚えたと認めたといい、アセクシュアル型でもそうである。オートガイネフィリアはガーターベルトやブラジャーなどの無生物に対するフェティシズムではない。それを身につけた自分の姿を見て興奮したり、女装している間、女性の名前を名乗ったり、女性のように歩いたり、時には女性のように話したりして、典型的には女性の振りをしたりする女装家も、オートガイネフィリアである。オートガイネフィリアには、様々な形態がある。ある人は女装に、ある人は自分が妊娠しているという妄想に、ある人は胸があるという妄想に、ある人は、膣があるという妄想に性的興奮を覚え、またある人は、編み物をしている他の女性たちの輪の中で編み物をしたり、他の女性と美容院にいることを想像しながら自慰行為をすることさえあるという。「性転換手術を受けて、ずっと男性として生き続けるのと、性転換手術をけっして受けないが、女性として生きていくことができるのとでは、どちらを選ぶか」と尋ねると、膣にこだわるオートガイネフィリアたちは手術を選択し、女性役割を重視したオートガイネフィリアは性別役割の変更を選択したという。「もちろん、ほとんどのオートガイネフィリアのトランスセクシュアルは性転換手術と性別役割の変更の両方を望んでいる」とのことである。
 ベイリーは、オートガイネフィリアをパラフィリア(性的倒錯)だとはっきり書いている。「すべてのパラフィリアは男性にのみ(あるいはほぼ独占的に男性に)発生し、パラフィリアは同時に起こる傾向があって、もしある男性がオートガイネフィリアを持っていたら、マゾヒズムを持つ確率が高く、ほとんどのオートガイネフィリアの人は性的サディストではないが、オートガイネフィリアではない男性に比べると、サディストである可能性が高い」という。オートガイネフィリアやパラフィリアについては、科学的な研究をもっと進めてほしいと思う。
 
タイプは違っても、女性になりたい動機には男性的な性的欲望があるのは同じ
 
 こうしてみると、女性になりたい男性たちは何者なのかという問いについて、答えが見えてきたように思う。彼らは「男性の着ぐるみを着た女性」ではない。同性愛型トランスセクシュアルは、同性愛者の一種であり、彼らの性的な生活は、ゲイの男性と同様に男性的である。女性的で、かつ、異性愛の男性を好むとしても、けっして女性と同じではないのだ。
 また、もう一つのトランスセクシュアルのタイプである非同性愛型のトランスセクシュアルはオートガイネフィリアであり、これは異性愛の一種である。異性愛だけでなく、バイセクシュアル、アセクシュアルの場合もオートガイネフィリアである。オートガイネフィリアの男性が自分の中の女性をどのように語るかを聞けば、ほとんどの女性が「この人の内面は女性ではない」と気付くであろう。実際の女性たちが感じていることとはあまりにも違うからである。彼らは「男性の身体に閉じ込められた男性」に他ならない。
 女性になりたい男性たちを、専門家ですら定義の意味が分からない「性自認」で理解しようとしても無駄である。彼らを理解するには、男性のセクシュアリティという観点から見れば良いのだ。男性の性的欲望(セクシュアリティ)が根本にあると考えることが重要なのである。
 「身体を女性そっくりに変えたい」と強く望むことは、GIDであるという証明にはならない(同性愛型トランスセクシュアルもオートガイネフィリアもそう望む)。
 興味や資質が幼少期から女性的だったからといって、GIDであるとは限らない(GIDは非常に稀だ)。
 「性的欲望から性転換をするのではない、手術をすると性的欲望はなくなるのだから」という主張も事実ではない(ほとんどのトランスセクシュアルはオーガズムの能力を保持していて、オーガズムは本当に起きるのだとベイリーは述べている。また、オートガイネフィリアは性的要素を否定するとも書いている)。
 日本では最近、男性タレントが結婚して子どもをもうけた後、離婚して自らを女性化し始めたという例があった。これなどは、異性愛の男性のように生きようとしたが、結局自分のセクシュアリティに従うことにした同性愛型トランスセクシュアルの典型と言えるだろう(本人にとってはセクシュアリティに切実に悩んだ結果だとしても、女性にとっては昔ながらの男性の身勝手な振る舞いと何ら変わらない)。
 
偽りのトランスの物語ではなく、事実に基づいて今後のあり方を考えるべき
 
 このように見ていくと、オートガイネフィリアの男性が妻や子どもに大きなショックを与え、結婚生活を壊すことだけでも「オートガイネフィリアは無害なパラフィリアだ」とは言えないし、同性愛型トランスセクシュアルの男性が女性と結婚するのも同様な悲劇を生むことが分かる。性的欲望から女性になりたいと思ったと、当事者が正直に公にするのは、強烈な恥の感覚が伴うことだろう。特にオートガイネフィリアの場合は、人々から共感を得られないと心配するのも当然だ。しかし、いつまでも「男性の身体に閉じ込められた女性」などというフィクションを言い続けることが良いとは思えない。ベイリーもブランチャードも、トランスセクシュアルの幸せを願って真実を探求し続けている。私たちは、政治的な理由による偽りのトランスの物語ではなく、事実に基づいて、彼らと、彼らと同じ社会に生きる女性たちがどのように生きていくのがいいか考えるべきだと思う。
 その時に忘れてはならないのが、男性から女性へのトランスセクシュアルは(非常に稀な症状であるGIDを除けば)、「男性のセクシュアリティ(性的欲望)の充足を目指している」ということである。未だ男性中心の社会で、トランスセクシュアルでない大多数の男性と、男性から女性へのトランスセクシュアルが本質的に同じであることに、世の人々は目をつむるべきではないだろう。
 
 
生物学的女性の権利を守る会

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