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最多貯金と最多責任

投手の記録である勝利数は、打線の得点能力など投手自身に起因しない複数の要因に左右されることから投手の実力を正しく示す指標ではない、というのはセイバーメトリクスの世界では常識である。それでも未だに日本では馴染みの深い記録であり、最多勝争いは最も基本的なタイトルレースの一つとして認識されている。

さて、勝利数が同じ投手同士であれば、今度は敗戦数が少ない方が評価が高くなるのが当然であり、これが勝率を(従来の指標の範囲で)評価する考え方につながっている。最高勝率投手は一時期最優秀投手という名称で表彰されていたくらいだから、勝率は重要視されていた指標だとも言えるだろう。

勝率を評価する際の最大の問題点は基準作りの難しさにある。規定投球回数を条件にすると、たとえ3勝0敗であっても規定投球回数をクリアしていさえすれば20勝1敗に勝ってしまう。実際過去には7勝1敗で15勝3敗の勝率を上回ったケースもある。
また現在は13勝以上を条件としているが、先発ローテーションの投手数が増え起用法にも変化が生じると、シーズンに13勝をクリアする投手そのものが減少してタイトルの争いが起きにくいという状況も生まれる。

こういった難しさが生まれるのはひとえに率でアプローチするためで、これを量で比較するのはどうだろうか、と考えると浮かび上がるのが、「勝利数と敗戦数の差」である。これをチーム単位で考えればまさしく「貯金」のことである。今度はこれを個人単位で出して歴代の最多貯金投手を調査した、というのが本稿である。


予めお断りしておくと、貯金は勝利数や勝率以上に強いチームの選手に有利に働く。したがって調査してみても基本的に優勝チームの最多貯金投手がそのままタイトルホルダーになり、その中でずば抜けた成績の選手が日本記録、リーグ記録となる。この点で記録としての面白味は少ないあるかもしれない。

もう一つ、「貯金」という言葉はいわゆる通称であって今一つ適切な用語ではなく、より野球に即した「勝敗差」などのふさわしい言葉があるのではないか、とは思うのだが、通称ゆえに耳になじんでおり通りやすく、またそもそも別に公式記録というわけでもないので、本稿では「貯金」「最多貯金」という言葉のまま使用していくこともお断りしておく。


まず1937年春に沢村栄治が24勝で最多勝に輝いたが、このとき4敗だったので貯金は20、これが春秋2シーズン時代では最多貯金であった。しかし長期1シーズン制になるとあっさり抜かれる。
スタルヒンが1939年に日本記録の42勝をマーク、このとき15敗で貯金27を稼いで沢村の記録を更新したのだ。スタルヒンは前年の1938年は春秋通算すれば33勝5敗で貯金28、1940年は38勝12敗で貯金26と3年間で貯金81の荒稼ぎ、これらが戦前の上位記録を独占していた。

表3-1-1 最多勝利、最高勝率と最多貯金(1940年年代まで)

1950年に2リーグ制になると、優勝チームの大黒柱がそれぞれ初代のリーグ記録を作る。

松竹の真田重男は39勝12敗の活躍で貯金27、スタルヒンに並ぶ日本タイ記録のセリーグ記録をマークした。実のところ、勝利数も貯金もこの初代記録が現在に至るまでセリーグ記録となっている。

その後もセリーグには別所毅彦、杉下茂、大友工、金田正一と30勝投手が続々出現したのだが、それでも貯金では大友の24がやっとであった。大友は第二期黄金時代の巨人で活躍したが、別所も含めた投手陣が大いに充実していたため、特定の投手に起用が偏りすぎなかったのが記録更新に至らなかった一因だろう。

一方パリーグでは荒巻淳が26勝8敗で貯金18として初代記録としたが、翌年江藤正が24勝5敗で貯金19と更新。1955年にも中村大成が23勝4敗で並んだ。荒巻、江藤、中村いずれも優勝チームから輩出されたものである。

セリーグでは真田以降も大友や松田清ら20以上の貯金を挙げる投手が何人も出たが、不思議とパリーグには出現しなかった。パリーグは日本シリーズでもセリーグに敗れる時期が続いたが、投手面で今一歩力が及んでいなかったということかもしれない。

この状態を打ち破るべく、パリーグの首脳陣は軸になる投手を逃げ切り用のリリーフに据えつつ先発にも使うという、エース重点起用主義と言うべき戦術に傾倒していく。

まず西鉄は1956年に稲尾和久を獲得した。ルーキーイヤーのこの年は島原幸雄、西村禎朗、河村久文と四本柱の一角であったが21勝6敗の貯金15はこの年チーム最多のリーグ最多タイ、この安定感を武器に翌1957年は35勝6敗の貯金29、パリーグで初めて貯金20超えを達成したばかりか、日本記録まで更新してしまった。
1958年も貯金23を稼いで3年連続でリーグ最多貯金投手となり、いよいよスタルヒンに並ぶ4シーズン連続を狙った。

だがここにもう一人の投手が立ちはだかる。西鉄に3連覇を許した南海は1958年に杉浦忠を獲得するといきなりエースとしてフル回転、稲尾の対抗馬として重点的に起用されていった結果、2年目の1959年には38勝4敗というとてつもない成績をマーク、貯金34の日本新記録を打ち立てた。南海はリーグ優勝を奪還し返す刀で打倒巨人も果たし、ついに日本一を達成した。

表3-1-2 最多勝利、最高勝率と最多貯金(1950年代)

その後も大毎の小野正一や中日の権藤博が重点起用で勝ち星を重ねたがどちらも及ばず、ならばと稲尾が1961年にシーズン42勝の日本タイ記録を達成、杉浦のシーズン勝利数パリーグ記録も更新したが、酷使の中で14敗を喫して貯金は28に止まりこちらは更新できなかった。以後この杉浦の記録が日本記録かつパリーグ記録として君臨し続けている。

その後の歴史も追っておこう。セリーグでは1964年バッキーが29勝9敗で記録した貯金20、パリーグも1968年に皆川睦雄が31勝10敗で貯金21としたのを最後に、貯金20の投手は久しく途絶えることになり、そのため1976年山田久志が26勝7敗で貯金19として以降は、20勝投手が出てきたときに比較的好記録が生まれる程度となった。

表3-1-3 最多勝利、最高勝率と最多貯金(1960年代)

一方で1971年には高橋一三が14勝7敗で貯金7だったのがセリーグの最多貯金で、2リーグ制では初めて一桁での獲得者となった。1974年にはパリーグでも金田留広が16勝7敗の貯金9で最多貯金、この頃から先発ローテーション制が浸透し、一人の投手が飛び抜けて大きく貯金を稼ぐようなケースは減っていく。

表3-1-4 最多勝利、最高勝率と最多貯金(1970年代)

たとえば時代は下るが1995年に優勝したヤクルトから山部太、ブロス、石井一久と最多貯金9の投手が3人も出ているのなどは、他に例がないとはいえ象徴的なケースである。

その中で目立った成績を拾っていくと、貯金17を挙げたのが2003年斉藤和巳の20勝3敗と2008年岩隈久志の21勝4敗、貯金16が1979年山田久志の21勝5敗、1982年工藤幹夫の20勝4敗、1985年石本貴昭の19勝3敗、1999年には上原浩治が20勝4敗というところである。
また貯金15は1978年鈴木啓示、1981年間柴茂有、1990年斎藤雅樹、2003年井川慶、2005年斉藤和巳、2007年成瀬善久、2011年吉見一起が記録している。

表3-1-5 最多勝利、最高勝率と最多貯金(1980年代)
表3-1-6 最多勝利、最高勝率と最多貯金(1990年代)
表3-1-7 最多勝利、最高勝率と最多貯金(2000年代)

貯金15でも凄い、という状況で今後当面推移していくのは間違いないだろうが、それだけに2013年の田中将大が24勝0敗の貯金24をマークしたのは異次元の数字と言える。歴代7位タイ、パリーグ4位の好記録という位置づけであるが、先述したように先発ローテーション制が完全に定着した時代にあっては、空前絶後、当面並ばれない大記録と評せられるだろう。

表3-1-8 最多勝利、最高勝率と最多貯金(2010年代以降)

以上のように見てきた最多貯金投手であるが、Bクラスチームから選出されたのは191人中24人しかおらず、最下位チームから受賞したのは1997年の山本昌(18勝7敗)と2013年の小川泰弘(16勝4敗)だけ、8球団中7位だった1956年の三浦方義(29勝14敗)を含めても希少価値が高い。

一方優勝チームから選出されたケースは全体の56.5%である。これは最多勝利の37.3%と比べるとやはり高い値であり、貯金は勝利数以上に強いチームの選手に有利という結果は明らかである。

また最高勝率は57.2%でほぼ同程度の数字である。また最高勝率受賞者の平均成績が17.6勝、204回、防御率2.00であるのに対して最多貯金は平均19.6勝、224回、防御率2.07であり、より勝利数の多い投手、より投球回数の多い投手を評価するということには成功しているのではないだろうか。


さてここまで「貯金」という言葉を用いてきたが、あくまで勝利数が敗戦数を上回った場合だけが貯金になるわけで、負け越しの投手であればこれは「借金」となる。ということで、蛇足ながら最多借金投手というのも確認しておこう。

1937年春に沢村が貯金20を記録したシーズンに、畑福俊英が7勝21敗で借金14を記録、これをスタルヒンが貯金27を記録した1939年に、望月潤一が8勝27敗の借金19で更新したのが今に至る日本記録になっている。スタルヒンの記録は1950年に真田に並ばれるが、望月の記録には早くも翌年1940年に菊矢吉男が全く同じ8勝27敗で並んでおり、日本タイ記録となっている。

表3-2-1 最多借金(1940年代まで)

パリーグ記録は1952年に近鉄の沢藤光郎が5勝22敗で作った借金17であり、翌年セリーグで国鉄の井上佳明が9勝26敗で並んだのを、1955年に大洋の権藤正利が3勝21敗の借金18で更新したのがセリーグ記録となっている。権藤はこの年から1957年にかけて足掛け28連敗を喫するが、その入口の時の記録であった。

表3-2-2 最多借金(1950年代)

これ以降では、1962年に黒田勉が8勝23敗で借金15、1980年に藤沢公也が1勝15敗で借金14としたのが目立つ程度となっている。

表3-2-3 最多借金(1960年代)
表3-2-4 最多借金(1970年代)
表3-2-5 最多借金(1980年代)

貯金とは反対に下位のチームから最多借金投手が出やすく、顔ぶれの中では特に1987年から1999年にかけての阪神投手陣が目立つ。
1987年伊藤文隆0勝9敗、1988年野田浩司3勝13敗、1990年仲田幸司4勝13敗、1991年野田8勝14敗と湯舟敏郎5勝11敗と仲田1勝7敗、1994年中西清起3勝9敗、1995年湯舟5勝13敗、1996年湯舟5勝14敗、1998年井上貴朗2勝9敗、1999年藪恵壹6勝16敗と毎年のように最多借金投手を輩出したところに、暗黒時代と呼ばれた当時の苦しい状況が良く分かる。
またその後は2022年の岩崎優まで輩出しなかったところは、汚名返上の趣がある。

表3-2-6 最多借金(1990年代)

1991年には3投手を輩出してしまった阪神だが、これについては稲尾が42勝を記録した1961年に、近鉄が徳久利明15勝24敗、大津守4勝13敗、黒田勉4勝13敗、ボトラ2勝11敗と4投手を輩出したおかげ?で日本記録の不名誉は免れている。

その他では1972年には西鉄が東尾修18勝25敗、河原明5勝12敗、高橋明1勝8敗で3人、1994年には日本ハムが西崎幸広8勝14敗、グロス6勝12敗、白井康勝1勝7敗で3人、そして2004年にはオリックスが本柳和也6勝11敗、金田政彦2勝7敗、フィリップス2勝7敗、マック鈴木1勝6敗の4人で不名誉なタイ記録としている。

表3-2-7 最多借金(2000年代)

近鉄は史上最多のシーズン103敗という記録的最下位、西鉄は黒い霧事件の後遺症でシーズンオフに身売り、オリックスもオフに球界再編の波にのまれて近鉄と合併とチーム事情が厳しいときに生まれている印象である。

その他珍しい記録としては、1987年に西武の小野和幸が4勝11敗の借金7、2000年に巨人のガルベスが0勝6敗の借金6で最多借金となっているが、いずれも優勝チームにいながらの記録である。しかも当時の最多貯金はいずれも最高勝率のタイトルを獲ったチームメイトの工藤公康で、1987年が15勝4敗の貯金11、2000年が12勝5敗の貯金7と大半を食われる結果となっている。

また1967年に29勝12敗で最多貯金17だった小川健太郎が翌年は10勝20敗で最多借金10、その1968年に31勝10敗で最多貯金21とした皆川睦男が翌年は5勝14敗で最多借金9というのは、酷使の代償の表れという気もする。なお似たようなケースに2014年に13勝5敗で最多貯金8だった山井大介が翌2015年4勝12敗で最多借金8、さらに2016年にも1勝8敗で最多借金7というのがある。

表3-2-8 最多借金(2010年代以降)

もっともこれには逆のパターンもあり、1970年に10勝17敗で最多借金7だった山田久志が翌年は22勝6敗の最多貯金16、先述の小野が1988年は18勝4敗で最多貯金14、2007年に3勝12敗で最多借金9だった館山昌平が翌年は12勝3敗で最多貯金9という3例である。


さて、最多貯金は優勝チームほど有利になる傾向がある。最多借金は最下位チームほど有利、といってもこれはありがたくもないが、偏りなくもう少し幅広いチームの選手を評価の対象とする値として、最多責任投手というのはどうだろうか。算出は簡単で、勝利数と敗戦数の合計が最多の投手ということである。

一般に、勝てる投手は起用され続け勝ち続けるが、負ける投手はやがて起用されなくなり負け続けるということはなくなる。歴代最多貯金34に対して最多借金が19と半分ぐらいしかないのがその証である。しかしチームが全体として弱いと、主戦投手はたとえ負けが混んでも起用されることになる。

最多借金となるほど起用され続けるということは、チームにおいてそれだけ勝敗を託されたという(相対的な)信頼の裏返しとも言えるのではないだろうか。エース中のエース、とは言えなくても大黒柱の中の大黒柱を選び出せるわけである。

むろん単純な合計で算出するため、20勝8敗より12勝18敗のほうが評価されてしまうという違和感など問題点もあるだろうが、あくまで責任投手となる使い方をされた回数の多寡を計るものなので、まずは記録を見るところから始めたい。


最多貯金の項で触れた1937年春の沢村は24勝4敗で責任試合28であり、これがこのシーズンの最多タイ記録であった。他に15勝13敗の古谷倉之助と7勝21敗の畑福が並んでいたが、畑福はこのシーズンの最多敗戦であった。沢村は最多勝利で最多貯金、畑福は最多敗戦で最多借金とこの2人が等しく並ぶところに、この評価法の面白みがある。

翌1937年秋のシーズンで野口明が15勝15敗の責任試合30として記録更新したがそれも束の間、1939年のスタルヒンが例の42勝15敗で責任試合57として、そしてこれが今に至るまでの日本記録である。ただし1942年には野口二郎が40勝17敗で並び、タイ記録となっている。

なおスタルヒンが記録した1939年の巨人はシーズンで96試合、野口の1942年大洋は105試合であり、チーム試合数における責任試合数の割合を「大黒柱の度合い」とでも呼ぶならば、これはスタルヒンのほうが上と言えるだろう。

このほか1リーグ時代には1940年にスタルヒンが38勝12敗、1939年にはスタルヒンの陰に隠れて野口二が33勝19敗、1942年にはその野口二の陰に隠れたが林安夫が32勝22敗、これが戦前の責任試合50以上の全ケースである。
1939年のスタルヒンと野口二、1942年の野口二と林はいずれもチーム試合数の半分以上の試合で責任投手となっているが、半分を超えたのは戦後を通じても実にこの4例のみである。

戦後は1946年に白木義一郎が30勝22敗、翌1947年にも白木が26勝25敗で2年連続最多責任となり、また1946年に真田重蔵が25勝26敗の責任試合51で惜しくも2位というのが1リーグ時代の責任試合50以上のすべてであった。

表3-3-1 最多勝利、最多敗戦と最多責任(1940年代まで)

その真田が1950年には同じ責任試合51でも39勝12敗で最多貯金のリーグ記録という中身の濃い初代セリーグ記録、パリーグは米川泰夫が23勝23敗の責任試合46で初代のリーグ記録とした。真田の松竹は137試合、米川の投球は120試合だったから、セリーグと同じくらいの試合数があれば米川も50の大台に載せていたかもしれない。

米川は翌年もパリーグで最多となったが、その年セリーグでは金田正一が責任試合43で初の最多責任となった。ここから5年連続最多責任となってスタルヒンの通算4回をあっさり更新すると、1958年、1959年、1963年と通算8回まで獲得数を伸ばした。最多貯金では名前の出てこなかった金田だが、責任試合で見ると八面六臂の活躍ぶり、当時の弱い国鉄での大黒柱ぶりがよく分かる。

金田の5年連続が途切れた1956年は秋山登が25勝25敗で責任試合50と大台に乗せると、翌年は24勝27敗で責任試合51とし真田のセリーグ記録に並んだ。秋山の大洋はシーズン130試合と真田の時より7試合少ない中での達成である。

1957年にはパリーグで稲尾和久が責任試合41で最多責任になると1959年まで3年連続で獲得、小野正一に4年連続を止められた翌1961年に42勝14敗の責任試合56でパリーグ記録を更新した。また同年にはセリーグでも権藤博が35勝19敗の責任試合54でリーグ記録を同時に塗り替えた。以後これが両リーグの記録として残っている。
数字は稲尾のほうが上だが稲尾の西鉄は140試合に対して権藤の中日は130試合、大黒柱度では権藤のほうが上だった。

表3-3-2 最多勝利、最多敗戦と最多責任(1950年代)

稲尾は1963年にも責任試合44をマークして最多責任5回のパリーグ記録としたが、これは後に鈴木啓示が1968年、1969年、1971年、1974年、1976年の5回でタイとしている。

表3-3-3 最多勝利、最多敗戦と最多責任(1960年代)

1970年代以降、全体に数字が下がってきたことは最多貯金と同じことで、責任試合40以上は1970年の平松政次と1972年の東尾修が最後、1974年は先の鈴木がパリーグの最多責任であるが、責任試合27と2リーグ制下で初めて30を割り込んだ。

表3-3-4 最多勝利、最多敗戦と最多責任(1960年代)

その後1981年まではどうにか30試合台を維持していた最多責任投手の責任試合数が、1982年以降はもはや20試合台が一般的になっていく。

1984年にセで遠藤一彦が17勝17敗で責任試合34、パで今井雄太郎が21勝9敗で責任試合30と両リーグで30試合台を記録したが、翌1985年に佐藤義則が21勝11敗で責任試合32として以降、責任試合で30試合台に乗せる投手は長らく途絶え、2001年に松坂大輔が15勝15敗で責任試合30を記録したのが21世紀で唯一となっている。

表3-3-5 最多勝利、最多敗戦と最多責任(1980年代)
表3-3-6 最多勝利、最多敗戦と最多責任(1990年代)

松坂はこの年最多勝に輝いたが同時に敗戦数もリーグ最多であったため、その合計である責任試合も当然に最多になるわけだが、このパターンは1937年秋の野口明、1970年の平松政次25勝19敗、1975年の東尾修23勝15敗、1981年の今井雄太郎19勝15敗、そして1984年の遠藤に続く6人目であった。

表3-3-7 最多勝利、最多敗戦と最多責任(2000年代)

その他面白い記録としては、ヤクルトの投手が1985年から連続して最多責任投手になっているのだが、1985年梶間健一11勝17敗、1986年尾花高夫9勝17敗、1987年尾花11勝15敗といずれも負け越しかつ全て最多敗戦投手であった。1988年も尾花が16敗で最多敗戦となったが、僚友伊東昭光が18勝9敗で、連続の4年目で初めて勝ち越しての最多責任となった。

2004年には阪神の井川慶14勝11敗と福原忍10勝15敗で同一チームから最多責任が2人出た。これが史上初のケースであったが、その後2007年横浜から寺原隼人12勝12敗と三浦大輔11勝13敗、2015年ロッテから涌井秀章15勝9敗と石川歩12勝12敗、2017年巨人から菅野智之17勝5敗とマイコラス14勝8敗と頻出するようになった。

表3-3-8 最多勝利、最多敗戦と最多責任(2010年代以降)

この4ケースは、ロッテが3位に入った以外はいずれも4位のチームでの出来事である。最多責任となった投手は、チームの順位とあまり関係ないところも特徴で、これまでの数字を見ても1位チームから延べ34人、2位25人、3位27人、4位41人、5位38人、6位25人、7位以降4人と非常にばらけているのが面白い。

チーム構成によるところも大きいだろうが、順位に関係なく純粋に「大黒柱」度を見るのに適した記録と言えるのではないだろうか。

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