【テキスト版】巻1(13)鵜川合戦 (14)願立 (15)御輿振

1の(13)鵜川合戦


鹿谷で平家討伐の陰謀を主宰した藤原成親卿だが、そこに参加していた中に、俊寛僧都、多田行綱、西光法師などがいた。

俊寛僧都というのは、源雅俊卿の孫である。源雅俊というのは、武家の出身ではないが、実に意地の悪い人で、自分の邸の前を簡単には通らせない、いつも門の前で怒った顔をして立っているような人だった。そんな恐ろしい人の孫なので、俊寛僧都もこのようなつまらない謀反に参加しようなどと思ったのだろう。

また成親卿は、北面の武士である多田行綱を呼んで、

「お前をわれわれの大将とする。今回の謀反が上手くいったら、お前の思うだけの国を与えよう。まずはこれを軍資金とせよ」と白布五十反を与える。

さて、北面の武士というのは昔はなかった。白河上皇の時代に新しく作られた部署で、武士たちが大勢ひかえていた。白河上皇の時代も、後の鳥羽院の時代にも、帝の近くまで行ける武士もいないことはなかったが、誰もみな、分をわきまえていた。ところが、最近の北面の武士たちは思いあがり、公卿や殿上人などの上級貴族さえもないがしろにし、殿上人と交流するものまで現れた。こんな状態だったので、多田行綱も、つまらぬ謀反に加担したのだろう。

平治の乱で自害した藤原信西の乳母子だった藤原師光が出家して名乗ったのが西光法師である。そして、西光法師の子に藤原師高という者がいた。これも切れ者で、五位の検非違使からいきなり加賀守に昇進した。加賀守になってからは法に従わず無礼を極め、寺や神社や勢いのある家の財産を没収したりしてさんざんに悪事を働いた。また、弟の師経を加賀国の目代(もくだい)という役職につけ、自分の代理人という地位を与えた。この師経、加賀の国府のそばにある鵜川という山寺で、僧たちがちょうど湯を沸かして浴びていたところに乱入して、僧たちを追い出すと、自分たちがその湯に入り、馬をそこで洗わせるなどしたのだった。僧たちは怒り、「昔からこの場所に国府の人間が立ち入ったことなどないのだから、今すぐにここから出て行ってください」と言うが、師経は怒って、

「これまでの目代(もくだい)は、つまらん奴だったから軽く扱われておったが、わしはそうはいかんぞ。おとなしく従え」

と怒鳴りつける。僧たちと国府の者たちが揉み合う騒ぎになってしまった。その騒ぎの中、師経の大切にしていた馬の脚が折られる事態になった。騒ぎはますます大きくなり、双方が武器を持って切り合う大乱闘が数時間に及ぶのだった。師経は、敵わないと思ったのかその場から退却したが、その後、加賀国の役人を約千人動員し、鵜川の僧房を一軒残らず焼き払ってしまった。

鵜川というのは、白山神社の末寺である。白山三社八院の僧たちが決起して師経の邸近くまで押し寄せた。師経は慌てて京に逃げのぼった。邸がからになっているのを知った白山の僧たちは、比叡山まで訴えに向かうこととなった。

時は八月だったが、白山の神輿が比叡山に到着したころ、雷が鳴り響き、京の町をまっ白に染めるほどの雪が降り積もったのだった。

白山は比叡山とは子と父の関係に当たる。浦島太郎が七代後の子孫に会ったよりも、胎児が浄土の父を見たよりも勝る喜びであった。三千人の僧たちが集結し、白山七社の神官が袖を連ね、次々と読経や祈念をするさまは壮観だった。

さて、延暦寺の僧たちは、加賀守藤原師高を流罪に、目代師経を投獄するように朝廷に申し上げるが、なかなか裁きが行われない。殿上人たちは自分に害が及ぶのを恐れて、口を閉ざしているのだった。

1(14)願立

「賀茂川の水、双六の賽の目、比叡山の僧、この3つだけが私の思いのままにならないものである」と白河院も言われたが、代々の帝や院も比叡山の僧たちの言うことは聞かざるをえないのだった。

白河上皇の時代にも延暦寺が朝廷に裁きを求める事件があった。その時も朝廷がなかなか裁きを行わないので、時の関白藤原師通卿を呪詛したのだった。鐘を打ち鳴らし、「どうか関白藤原師通卿に一筋の鏑矢を射当ててください」と祈った夜、鏑矢が京の空を飛ぶ夢をたくさんの人が見たという。そして、その夜から関白師通卿は重い病にかかった。母親があちこちの神や仏に祈りを捧げる。すると、七日目満願の夜、召使の童女が語りはじめる。
「人間ども、よく聞け。師通卿の母君が私に願をかけた。だが師通が神仏に行った罪は深い。母君に免じて3年だけ命を長らえさせてやるが、それ以上は何ともできない」

それからすぐに師通卿の病は癒え、関白としての仕事もできるようになった。三年は夢のように過ぎ去り、関白師通卿38歳の歳、あえなく亡くなってしまった。勇猛で、理性的で、立派な人だったが、それほどに比叡山の僧たちの呪いは強かったのである。

1(15)御輿振

さて、延暦寺の僧たちは、朝廷が裁きを行わないので、日吉神社の祭礼をやめ、総決起して京に向かうことになった。そのため、源平両家の将軍に警護が命ぜられた。平氏は三千騎あまり、源氏は三百騎ばかりで警護に着いたのである。源頼政の守る北の門から延暦寺の僧たちが入ろうとすると、pp頼政卿はすぐに馬から降り、兜を脱いで、神輿を拝むのだった。そして、使者として家来の渡辺唱(となう)を比叡山の衆徒たちの中につかわした。

「しばしお静かに願います。源頼政どのより、おことづてを申し上げます。
このたびの、延暦寺の訴訟が理にかなっていることはもちろんでございます。お裁きが遅れているのは、傍目にも腹立たしいことです。神輿をお入れすることについては、申すまでもございませんが、この頼政は無勢(ぶぜい)でございますゆえ、こちらからお入りになられては、延暦寺は弱みに付け込んでヤニ下がっているなどと噂になっても後々面倒ではございますまいか。東の陣頭では重盛殿が大勢で警護しておられるので、そちらから入られるのはいかがでございましょうか」

それに対して荒法師たちは
「そんな与太がとおるか!」「この陣から神輿をお入れしようではないか!」
と騒ぎますが、比叡山随一の雄弁者だと名高い老僧が進み出で、

「その言葉、ごもっともだと存じます。我々が神輿を担いで訴訟を起こすのなら、大勢の兵を突破してこそ、後世の評価にもつながるというものでございましょう。」と言い、僧たちに向かって、
「この頼政卿というお人は源氏の嫡流。弓矢では不覚を取ったことがないという武人であるし、和歌にも優れた人物である。近衛天皇が感心されるほどの歌を詠むと言われておる。それほど雅な男に、ここで恥辱をあたえてはならぬのではないか」
と説得します。それを聞いて、先ほどまで気がはやっていた荒法師たちも、

「そうだそうだ!」「もっともだ!」

と納得するのでした。

そうして、神輿の向きを変え、東の待賢門から内裏へ入ろうとしたところ、そこには平忠盛たちがたくさんの兵を従え護っていた。武士たちが散々に矢を射かけるものだから、結局比叡山の僧たちは神輿を投げ出したまま、這う這うの体で逃げ帰るのだった。

【次回予告】
比叡山延暦寺の荒法師たちが再びまさに京に大挙して攻めてこようとするのを留めたのは、平時忠だった。

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