第27話 旅人は旅人と出会い、偶然というパズルのピースが必然的に合わさっていく【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説】
お寺を出て、ぼくは近くの由良川でのんびりした。
日は傾き始めていた。
お寺の女性に「泊まらせてもらえませんか?」と聞きたいなという気持ちも少し頭によぎったが、気が引けてとてもじゃないけど言えなかった。
しかしこの辺りは住宅街だ。寝る場所と言っても公園くらいしかないだろう。もう時刻は夕方に近い。福知山を出て、ほかの街に寝る場所を探しに行くには遅くなってしまっている。
ぼくはゲートボール場のような、公園のような場所を見つけた。でもなんとなく気が乗らない。住宅街ってけっこう不審がられるんじゃないかと。
踏ん切りがつかないまま時間が過ぎていくのも嫌なので、迷いながら駅へ向かった。
すると駅前に二人組が歌っている。17歳くらいの男子二人組だ。ぼくは頑張って話しかけてみた。
「この辺でよく歌っているんですか?」
「そうです!あれ?ギター持ってますね?お兄さんも歌うんですか?よかったら聴きたいな。」
明るい二人だったので、ぼくらは打ち解けて和気あいあいとお互いに歌ったり聴いたりを繰り返した。
そうしたらそれを見たイギリス人の方も一緒に混ざって歌い始めるという展開に。
(がんばって駅前まで来てよかった。)
ぼくは満足感に浸ってさっきの公園に戻り、そこで一晩を過ごした。
今日は鳥取を目指す。
この旅のおさらいをすると、東京から北海道までは太平洋側。北海道からの南下は基本的に日本海側。沖縄まで南下したら今度は太平洋側を東京まで北上していく。反時計回りと言えばわかりやすいか。
東京までの太平洋側は沖縄を冬で越したあとの、来年の春になる予定だ。
さて、ひとまずは鳥取、島根が目標だ。
ヒッチハイク198台中47台目。
福知山から和田山へ。JRの職員8人の方々。2台で現場に向かうところを乗せていただいた。
48台目。
神戸出身の与田さんというおじさんだった。与田さんは鳥取にも住まいがあり、今日はそっちへ向かうところだという。
中国地方にチェーン店を展開する会社に勤めているので、半単身赴任というのか、毎週鳥取に来ていて、神戸と鳥取を行ったり来たりする生活をしているのだ。
「今日は鳥取のどこにいくのかい?」
「せっかくなんで鳥取砂丘に行きたいんですよ。」
「じゃあ、砂丘で降ろしてあげるよ。それで泊まる場所はあるのかい?」
「特にないので野宿する予定です。」
「そしたらうちに泊まりなさい。仕事を終えたら迎えにいくから。これ、携帯の番号ね。」
「え?!いいんですか?ありがとうございます。」
「砂丘の後はどうするの?」
「うーん。鳥取駅前で歌おうかとも。」
「ああ、駅前で歌っている人時々見かけるね。じゃあ、駅の近くで食事でもしよう。どうかな?」
「そうしましょう。ありがとうございます!」
それから与田さんにはいろいろな豆知識を教わった。
与田さんから教わった豆知識。
・彼岸花は根っこに毒がある。もぐら、ねずみ対策になる。
・日本は明治に300万石ごとに県を分けた。それで鳥取・島根は鳥取県という1つの県だったが、長くて大きすぎるから2つに分けた。
・出雲の松江にだけ東北のズーズー弁を話す人がいる。それは東北から移住してきた人がいるから。
そして砂丘に着いた。子供のころからあこがれていた鳥取砂丘。「砂丘」という言葉がなんだか日本に似つかわしくなくて、少年心を余計にかきたてていた。
(一人でこんなところに来てしまった。家族の観光とかじゃなく。ヒッチハイクの一人旅で。なんだかそれもちょっともったいない気もしないでもない。)
一人で旅をする良さは、「自分の力で」達成するという実感を得られるということでもあるが、それはさみしいことでもある。
「この景色、だれかに見せたいなあ。かあちゃんとか、彼女とかに見せたいなあ。一緒に来たかったなあ。」
何度もそう思ったものである。
鳥取砂丘もそうだった。ギターのハードケースを持って砂に足をつっこみながら砂丘を登る姿は、きっと違和感のあるものだったろう。
砂丘の入り口には記念写真用にラクダがたたずんでいた。
(ああ、かわいそうに。でもぼくも誰かと一緒に来たらあのラクダと記念撮影したかもしれない。)
そう思いながら砂丘を登りきると、なんと向こうには海が開けた。
(なるほど!こういう地形になっているのか!)
砂丘の規模や広さや地形をあまり理解していないまま来たからだが、砂丘は確かに「砂漠」ほど広くはないものの、あんがい広く続いており、丘を越えたらそこは海だとは意外だった。
(海からすぐ砂丘?そんなことあるんだな。)
ぼくは居合わせた人に写真を撮ってもらった。孤独感を出さないように、めちゃくちゃ笑顔で。
砂丘てっぺんからの眺めはなかなかだ。日本海が広がり、朝鮮半島や中国大陸を想像する。
(さて、ここは切り上げるとするか。与田さんに迎えに来ていただく約束もあるし、鳥取駅にとにかく行かないと。)
ぼくは砂丘を出てヒッチハイクでもしようと車道に向かおうとした。その時、
「君なにやってるの?」
と呼び止められた。振り向くとそこにはギターケースを持った少し年上のにいちゃんが立っていた。いでたちといい、その声のかけ方といい、あきらかに旅慣れた、手練れな歌うたいという雰囲気だ。
「ヒッチハイクで日本二周をしています。」
「おお!そうなの!今日は鳥取駅で歌うの?」
「はい。そう思ってますけど・・・。」
「おれも昨日まで歌ってたよ。おれは大島ヒロミ。旅人。また後で鳥取駅に行くかもしれない。じゃあね!」
「は、はい!」
そう言って、ヒロミさんは鳥取砂丘の方へ消えていった。
(「昨日まで歌ってた」ということは、何日か鳥取に滞在して毎日のように歌っていたということか。ここまでどうやってきたんだろう。あきらかに旅慣れていたな。自分と同じようなことをして、自分よりもレベルが明らかに高そうだ。どうしよう。おれって大したことないな。だめだしされてぐいぐいひっぱられそう。やばいな。)
ぼくはとにかく鳥取駅へ向けてヒッチハイクをはじめた。
49台目。
北崎さん。2人の娘さんがいる。今は職場に向かう途中で、その後娘さんを迎えに行くという。
「えー!ヒッチハイクの人乗せちゃった!どうしよう!日本二周してるんですか?すごいね!歌手ですか?どんな歌うたうんですか?」
とにかくテンションが高く面白い方だ。北崎さんは介護の仕事をしていて、今その施設に向かうところだという。
砂丘からそれほど遠くないところにその施設はあり、ぼくも一緒におじゃまさせてもらった。北崎さんは施設を利用するお年寄りにぼくを紹介し、なんと一曲歌ってほしいという。
「よかったら歌を歌ってもらってもいいかな?」
「ぜ、ぜひ!」
北崎さんがぼくを紹介し終わると、座っていた方の中からまだ歌ってもないのに1000円札を手にし、ぼくに渡そうとしてくれた方がいらした。
「ありがとうございます。でもまだ歌ってないので、まず聞いてくださってからでいいですか?」
ぼくは1曲披露させていただいた。思ってもない展開でのライブである。1000円はありがたくいただいた。
北崎さんは職場を後にし、ぼくをまた乗せて今度は娘さんを迎えに行く。娘さんは高校1年生のみな子ちゃん。
「ねえねえ、ヒッチハイクしている歌手のSEGEさんという方を乗せちゃったの。すごいでしょ!」
「え?!すごいね!こんにちは。」
「SEGEさんは鳥取駅でどうするんですか?」
「今日は鳥取駅で歌えるかなあと思っていたんですよ。」
「じゃあ、そこで聴こうよ!ね!みな子!どう?」
「いいね、いいね。」
(やばい。この流れ、もう絶対歌わないといけない流れだ。しかも大島さんが歌いに来たらおれびびっちゃうかも。うーん。でも逃げたくない。逃げたい。逃げたくない。逃げたい。逃げたくない・・・。)
「鳥取駅って歌っている人いますか?」
「うん、時々ね。あんまりみないけど。」
「それと、あとで待ち合わせをしているんです。与田さんという北崎さんの前にヒッチハイクで乗せて下った方と食事をすることになっていて。」
「うん。大丈夫!」
ぼくらは鳥取駅に着いた。そろそろ暗くなってきていて、夜のお店の明かりも照り始めているころだった。
ぼくは駅前の銅像の近くになんとなく場所を決めてそこで北崎さんたちに歌った。歌っていると、案の定ヒロミさんも登場した。
ヒロミさんといろいろと話すことができた。するとヒロミさんはなんとサンクチュアリのメンバーだったことがある人だった。
サンクチュアリとは、当時カリスマと言われた高橋歩さんの出版社だ。高橋歩さんは「毎日が冒険」などの自伝を自分で出版社を作って出版した方で、当時は本屋に行けば1コーナー設けられていたりするくらいだし、ビレッジバンガードでもコーナーができてしまうような方だった。
ぼくはインドから帰ってきた後、次の旅への計画や新曲の収録のことなどを考えて、その壁の大きさに打ちひしがれてしばらく身動きできないうつうつとした時期があった。その時ふと目に着いたのが歩さんの本だった。
そして歩さんの新しい拠点である沖縄の読谷にぜひともこの旅で行きたいなと思っていたのだ。
ぼくが偶然出会ったヒロミさんは、その歩さんのサンクチュアリのメンバーだったのだ。こんな出会いってあるのか。
ヒロミさんはサンクチュアリでは「ユウジ」で通っていたという。
話を聞いていくとヒロミさんは日本全国を何度も歌を歌いながら回っているという。もはや「ヒッチハイクで回る」とか、「野宿の場所探さなきゃ」とかそういうレベルではなく、バンバン歌を歌って稼いで、そのお金で好きなように移動しているのだ。
(これはかなわないな。)
だから普通に列車も乗る。ストイックさにこだわるのではなく、歌を歌うために旅をしているのだ。
だから自分のことを「旅人」と言っているようだ。ヒロミさんは自分をPRするポスターを持っていて、そこには今までの旅の経歴が書いてあった。
(CDをもう1000枚売ったのかあ。そこは余裕だったんだな。すごいな。)
また、ぼくに多大な影響を与えた長渕さんをはじめ、井上陽水さん、海援隊などが活動していた博多のライブハウス「照和」でもライブをしたことがあり、博多や中洲にはたくさんの歌うたいの知り合いがいるという。
ぼくは完全に打ちのめされていた。ぼくがこうなりたいという状況を、ヒロミさんは完全にかなえていた。
しかし、ぼくはぼくだ。そう思うしかないのだが、でもかろうじて、
(歌の良さはもしかしたらおれの方がいいかもしれないじゃないか。)
と思うことにした。
それが負け惜しみだということはわかっていたが、実際歌のよさというものはCDの枚数や旅の経験値で測れるものではないのだ。
それに、いい情報ももらった。博多や中洲に行ったらヒロミさんの知り合いの歌うたいの方々を当てにできるということなったのだ。
まあ、考えてみればぼくがまだまだ旅人としては未熟なのは自分でもわかっていたし、旅をしていたら新しい出会いがやってくることはむしろ当たり前だし、歓迎すべきことだ。
そうやって成長していくところもあるのだから。
そして与田さんから電話がかかってきた。ヒロミさんはまだ歌っていくようだったのでそこでお別れしたが、なんと北崎ファミリーも一緒に食事をすることになった。
与田さんも心が広いし、北崎さんもこだわらない方で、なんとも不思議な顔ぶれの夕食になったのだった。
つづく
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