【ノンブレス・オブリージュ】私が心底愛してやまない最強の名曲について話をさせてくれ
1.はじめに
えいりな刃物さんのムービー、素晴らしい……。
好きな曲について全力で語ったら少しは語彙力と文章力上がるんじゃね……? ということで、ピノキオピー様(以後、敬称略)の「ノンブレス・オブリージュ」について語らせていただきたく思います。もしまだ聞いていない方がいたら、とりあえず聞いてくださいな。
さて。
ピノキオピーは既に100曲以上の楽曲を投稿されている大手です。残念ながら私は、ピノキオピーの楽曲全てを網羅しているわけではありません。それでも、この「ノンブレス・オブリージュ」が、ピノキオピー楽曲のみならず、私が今まで出会ってきた全楽曲の中でも最高の傑作だと信じて疑わない……それほどにこの曲には入れ込んでいます。
まあ……私は別に音楽に造詣が深いわけではないので「お前が出会ってきた楽曲の数なんてたかが知れとるやろ」と言われたらそれまでなのですが……。
2.歌詞について
既に述べたように、私自身は音楽に明るいわけではなく、メロディやリズムについて言えることはそれほど多くありません。そのためか、私が楽曲において最も重要視するのは歌詞です。「何となく聞いていて気持ちいい」といった音楽理論も何もないフワフワな感覚の土台。その上に、好みの歌詞が乗っている……私はそんな曲を高く評価する傾向があります。
しかし、この曲を語る場合、メロディやリズムについて言及することは避けられません。この楽曲を「唯一神」たらしめる要因の一つが「メロディとリズム、歌詞の調和」にあるからです。
とはいえ、調和について語るにしても歌詞のことについても言及すべきなのは間違いないでしょう。歌詞だけで見ても素晴らしいですからね。ということで、まずはこの楽曲の歌詞について語っていきます。
まずは、歌詞の内容を全力で要約してみますね。
「この社会、息苦しいよね」という弱者の歌
これです(「ぼく」と「君」のラブソングでもある)。まとめた時の細かい文言は人それぞれでしょうけど、これで概ね間違っていないはず。……こうして見ると要約って悲しいですね。大事なことを把握するために、大事な部分をほとんど削り落としてしまうんですから。情緒もなにもあったもんじゃないべ。
以下に、一部歌詞を抜粋してこの要約に至った経緯を記しておきます。難しいことを書くつもりはないので、別にそんくらい分かるよという方は飛ばしてくださってかまいません。あと少し長いです。
実はこれ、初見で曲を聞いた時に感動のあまりにyoutubeのコメントに書き込んだ内容を多分に含んでます。もしそのコメントを見つけても「お前人の解釈借りて来てんじゃねえ!」と怒らず、かつ気づかないふりをしてください。テンション上がって書き込んだyoutubeコメント見られるとか恥ずかしすぎる。
3.調和
さて、「歌詞とメロディ、リズムの調和」に話を移しましょう。
歌詞をまとめると「この社会、息苦しいよね」でした。これとリンクする曲の特徴とは何でしょうか。音楽理論のことを齧ったことすらない人間ですら理解できる曲の特徴……もうお分かりでしょう。
「息継ぎの余裕がほとんどない、矢継ぎ早に歌詞をまくし立てる曲である」という特徴です。言葉で表現された「息苦しさ」を曲の構成でも表現しているのです。歌うと胸が苦しくなる歌ですね。
また、ピノキオピー曰く「この楽曲のコード進行は4パターンの繰り返しで複雑な進行はしていない」「4コードだけで表情豊かにできて満足感がすごい」とのこと(洋楽的なアプローチで、おしゃれな感じに挑戦したらしい)です。
私はこの「繰り返し」に社会を見ました。社会は大きな変化を嫌います。変化を起こそうとすれば同調圧力によって取り込もうとしてきます(出る杭は打たれる)。秩序とはそういうものですし、そういった力が不要とまでは思いませんが、「息苦しい」と感じる場面が多いのもまた事実。しかし、個人のちからには限界があり、社会はまた「繰り返す」。
この「コードの繰り返し」と歌詞も、リンクしているわけです。「個人の力ではどうしようもない社会の中で、もがき苦しむ哀れな人間」のような図になるでしょう。
音楽としての部分について、私程度の人間が語れるのはここまでです。
メロディなどの音楽的要素と歌詞のリンクということについては、納得するかどうかは別にして、言いたいことは分かっていただけたと思います。
しかし、「ノンブレス・オブリージュ」の素晴らしい要素はこれだけではありません。そもそも「音楽的要素と歌詞の調和」というのは、程度にこそ差はあれ多くの曲で見られます。「ノンブレス・オブリージュ」の『凄み』はそんなものではありません。
4.誰が歌うか~「ノンブレス・オブリージュ」にはC.グリーンバーグもニッコリ~
「この曲はこの人が歌わなくてはならない」という必然性はあるのでしょうか。大抵の場合はありません。勿論、好き嫌いはあります。「やっぱりこの曲はこの人じゃないと!」と思うことも少なくありません。しかし、それは必然性とは違います。
私はこの必然性を大きく2つに分けたいと思います(特に参考にしたものがあるわけではないですが、似たようなことはどこかで言われているでしょう)。
歌うのが難しい楽曲ほど歌える人は限られてくるので、技術的な必然性は上がります。しかし、プロアマ問わず歌の動画を投稿するような人の多くは一定の基準は超えている人が多いでしょうし、ピッチ補正など文明の技術もあります。生で歌うならともかく、動画などの形で出す分には「この人でなければ歌えない」ような技術的な必然性はほぼ無いに等しいでしょう。
一方で、内容的な意味での必然性が強い楽曲と歌手の結びつきに関してはいくつもの例を挙げることができます。いわゆるキャラソンは軒並みこの必然性を持っています。ボカロ曲であれば「ルカルカ☆ナイトフィーバー」だったり「初音ミクの消失」などが該当します。
他には「ロキ」もボーカロイドが歌う必然性が強い楽曲です。この曲は、鬱屈した感情を抱える作曲者自身の心情に触れながら、鏡音リンと共に「死ぬんじゃねえぞお互いにな」と歌います。
この「お互い」はボーカロイドとみきとP自身のことですから、歌い手が変わると「お互い」という歌詞が差すものに変化が生じてしまうのです。そのため、「ロキ」は必ずしも鏡音リンを使用する必要はなかったが、みきとP自身とボーカロイドが歌い手であることに必然性があると言えるのです。この曲も初めて聞いたときには衝撃を受けました。
ちなみに、プロセカの「ロキ」はキャラ設定がマッチしていて好きなカバーです。
あくまで歌い手が変わると意味に変化が起きてしまうというだけであって、変化することが悪いわけではありません。「歌い手と歌い手」「VtuberとVtuber」……それぞれのバージョンに別の味があって楽しいですし、盛り上がるのは良いことです。
ただ、「ロキ」の原曲には揺らぐことがない芯が通っていて美しいということが言いたいのですよ私は。不動明王。
さて、「ノンブレス・オブリージュ」をボーカロイドが歌う必然性についての話です。一見、歌詞からは必ずしもボーカロイドが歌う必要は無いように思われます。しかし、ここで思い出さねばならないことがあります。歌詞と音楽的要素の繋がりです。
私は「3.調和」でこの楽曲の特徴について次のように表現しました。
「息継ぎの余裕がほとんどない、矢継ぎ早に歌詞をまくし立てる曲である」(そしてそれが息苦しい社会を描いた歌詞とリンクしている)
実はこれ、正確ではありません。「ノンブレス・オブリージュ」は「息継ぎの余裕がほとんどない」のではなく「息継ぎが一切ない曲」なのですから。
この楽曲では曲の最初と最後に息を吸う音が入っています。最初に息を吸って、社会という息ができない空間に飛び込んで息を止め続け、「防空壕」で息を吸って終わり……という形です。社会の中でずっと、息継ぎなしで歌い続けているという曲なのです。
そんな楽曲の途中で息を吸えば、「息苦しさ」を訴えかける力が弱まってしまいます。しかし「ノンブレス・オブリージュ」はおよそ3分半の楽曲。3分間息を止めるだけならまだしも、息を吸わずに歌い続けられる存在なんて……
ボーカロイドがあるやんけ。
息苦しさ故に我々が歌えない歌を、呼吸を必要としないボーカロイドが高らかに歌い上げる。ボーカロイドが我々のような弱い人間の代弁者として寄り添ってくれる。「ノンブレス・オブリージュ」最大の魅力はそこにあるのだと、私は思うのです。
「ノンブレス・オブリージュ」は歌詞と音楽的要素の調和だけで終わらず、その調和によってボーカロイドが歌うことの必然性が生まれています。しかもそれは技術的な必然性、内容的な必然性、両方の声質を併せ持っているのです。
歌詞、音楽的要素、そして歌う媒体。全てが相互に作用しあってそれぞれの価値を高めあっている。そんな曲なのです。
「ノンブレス・オブリージュ」の魅力についてはここまで。ここからはおまけのような文章です。
私がこのように「ノンブレス・オブリージュ」の魅力をある人に熱く語ったところ、「グリーンバーグのモダニズムじゃん」と言われました。無学な私はよく分からなかったので、簡単に検索して調べてみました。
C.グリーンバーグはアメリカの美術評論家です。彼の主張はだいたいこんな感じ。
その人は「ノンブレス・オブリージュ」の話を聞いて、ボーカロイドという媒体の「呼吸を必要としない」という固有の要素を活かしているという点でそのように言ったのでしょう。グリーンバーグもにっこりな楽曲、「ノンブレス・オブリージュ」。ピノキオピーのモダニズム。
本来なら「歌に固有の要素は何か」ということをもっと突き詰めてからこの話をしなければならないのでしょうが、小難しい問いは偉い学者様に投げておきます。私は知らん。
5.おわりに
魅力を語りきれたとは言い難いかもしれないですが、スッキリしました。原曲厨全開の記事書いたら反感買いそうだなーという理由で長らく胸にしまっていたのですが、どうでもいいやと吹っ切れまして。好きを胸にしまい続けるほうが毒。
とにかく感動を言語化するのは大事です。「自分は上手く言えない」とかじゃないの、拙くてもやるの。好きを広げていくのだ。WAになっておどろう。
ピノキオピー様、いつも素晴らしい楽曲をありがとう……ありがとう……
おまけ
好きな楽曲の話をします。殆どが歌詞の話。ひとつひとつは短め。
「空想しょうもない日々」
とにかく洒落てますよね。タイトルからして複数の解釈ができます。「しょうもない日々で空想している」のか「しょうもない日々を空想するほど、切羽詰まった生活をしている」のか。そこに「くそしょうもない日々」という歌詞が飛んでくるんだから衝撃ですよ。
「しょうもない日々で空想している」というのが正解だったわけですが、それにしてもそうくるかぁと。
個人的には「ひとりぼっちになれる 欠陥品の毛布羽織って」という部分が特にお気に入りです。
「ラヴィット」
俗っぽい「好き」。高尚な理由なんて無い。顔がいいから、金持ってるから、スタイルいいから。そして、君のことを好きな自分も大好き。なんと赤裸々でいて弱々しい言葉でしょう。相手を馬鹿にするために使われるような言葉を、自分に当てはめていくのですから。やはりこの曲も、皮肉めいていながらも寄り添う歌です。
一方的な恋をするウサギは最後「一生か弱いウサギでいいの?」と自問しますが、そう簡単に変われはしません。自問しただけ、というところがこの曲の好きなところです。具体的にどうしようという解決策は何も出てこないのです。
ちなみに、一番お気に入りの部分は「I love it 価値のない 宝物を抱えながら」です。
「おばけのウケねらい」
クリエイターにダメージと勇気を与える一曲。「流行りに乗ってるけど好きでやってんの ねえ それとも魂売って自分殺してんの」
誰だって「え、世間ではこれが人気なん……?」と思うことはあったりするもんです。特に中高生の時に尖っちゃうともう大変。
自分は基本的に実際に見聞きした上で判断するようにしているので、食わず嫌いすることはあっても、見てもいないものに対して否定的になりすぎないようには心がけています。それでも、見た上で「え、これがいいの?」と思うことはあります。「滑ってるのに皆は称賛」ってことですね。
でも、実は滑ってるのは自分なんじゃねえの
とも思わせてくるのです。滑っているのは一体どっちだい? アルティメットセンパイ。でもやってやんよ絶対。
「人間なんか大嫌い+」
毒が強いの好き。「One for All」でありながら「All for One」が返ってこないのが現実です。そりゃ人間になんぞなりたかない。保育園落ちた人間○ね……みたいな?
人間の頭のおかしさをこれでもかと詰め込んだ至極の一曲。
「ねえあのさ 聞けよ」という部分が悲痛です。何に祈ったって答えが返ってくるわけじゃないのだなぁ。
おまけもここまでです。読んでいただきありがとうございました。