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DMという精神直結連続的閉鎖空間がcho~苦手!

高校三年間、クラスメイトとのやりとりをほとんど全てツイッター上で済ませてきたツイ廃の私はとてつもなくDMが苦手である。原因の解析と説明によって、自分の苦手克服と、少しだけ優しい理解を得られたらと思う。
 実は、ツイッター上での絡みはもちろん、通話やリアルでのおしゃべりは大好きだ。でもDM、お前だけはダメなんだ。
 リアル会話とDMの違いは、空間の共有だと思う。ツイッター、通話、リアルに共通するのは、主題の会話が他の刺激から遮断されないところだ。ツイッターは同じプラットフォームを共有する無数のツイートがあり、通話も親フラ、リアルならなおさらあらゆる邪魔が入ることがある。会話とその外部が連続しているから、話題が自然発生したり、移ろいで、消滅したりする。会話はあくまでも生活の一部で、フェードインもアウトも一つの原因に帰結しない。
 しかし、DMとなるとそのチャットスペースは個人と個人の間に邪魔が入らない、完璧な閉塞空間になる。さらに会話は永続的に保存され、途切れることなく無限に過去が記録に蓄積されていく。例えば、白い部屋に椅子が2個、ポツンと向かい合っている光景を想像してほしい。私はDMを開くたび、相手が今もその椅子に座っているのか、いつから座っていていつまで待っているのか、一体どんな目を向けられるのか、怖くて怖くて仕方がないのだ。
 DMがもつ会話の保存性は、自分が返信を待っているときも、待たせているときも保証される。一度会話を始めたら、常にこの二つのタスクがまとわりついてくる。それが脳の端っこで微小のリソースを吸い取っているような疲労感がある。
 会話の本質だけが空間に閉じ込められ、時に流されることなくこびりついて痕跡が残されるDM空間を、私は「精神と時の部屋」のように感じている。そんな大事な場面にしか現れない緊張感のある部屋が、初対面の人、長らく話していない旧友、距離のある先輩、後輩、あらゆる人に話すたびに現れてたまるか!という気持ちなのだ。
 しかしながらオンライン上で個人間の仲を深める手段としてDMは有力で主流なため、新しくやりとりがあるたびに脈が乱れていては身がもたない。私も克服に向けて努力していくが、もし周りに似たような人がいたら、少し気長に返信を待ってあげてほしい。交流や相手そのものが苦手なのではなく、DMの構造に苦手意識がある可能性も頭の片隅に入れてくれるとありがたい。
 DMがんばるぞ!!!!!

134÷52=2.58

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