映画キャラクター感想(2/16)

※「キャラクター」を個性、生き様/または作り物やデフォルメの少し異なる意味で使っています。読み分けは解釈次第だと思います

✏︎ストーリーを順を追って

 全ての事の発端、①家族の猟奇殺人を目の当たりにしたときの山城さんの怯えっぷりが本当の本当に平凡な人間の反応で心底可哀想でめちゃくちゃに可愛かった。絶対に目が合ってしまうことは分かっているのにその緊張感と不気味さ、心拍数の上昇させる焦らしとスリルのFukaseさんの振り向くまでのたった数秒の演技でもう元取れたよね。幼く端正な横顔とふわふわな柔らかい髪色のシルエット、鋭くも奥が見えない目つき、全部本能に"""ヤバイ"""やつだって警告を鳴らしていて本当によかった。あとずっとサントラがいい。
 オープニングの山城の一人称視点のぼやけ具合や意識の朦朧とした雰囲気、パニックとはこういう視覚効果で表せるんだなぁ〜と思ったし、センスがバリバリいい。
 清田との供述のシーン、俯きながら、視点の合わない山城の表情を覗くために三白眼でガンを飛ばすような形で覗き込む清田がちゃんと警察の怖さと威厳があったし取調室の最大のフレンドリーさが清田と彼の態度と評価されているならやはり警察組織も怖いところだなぁと思えてよかった。清田の目つきと目力と白目との比、本当にいい。あと清田の立ち方や体格が碧棺でいい資料だった。
 山道での両角の圧倒的異物感、ちょうどギリギリ警戒するけどザラにいるであろう人間の危うさとリアルが本当に見事に表現されていて、まさに「キャラクター」の深さ、複雑さ、苛烈さのどれもを兼ね備えている魅力があって、それは絶対に人気投票で票は得るのだけど主人公にだけはならない、なり得ない、なってはいけない個性で、映画を通しても彼はダブル主演の2番目に紹介される立ち位置、そういう作品内作品の入り子構造の使い方が上手い。声色は優しいし、後部席に乗り込みながら、狭くなっちゃってごめんね。と声をかけるあたり、絶妙な塩梅でプラマイギリゼロの綱渡りをしている足取りのおぼつかなさと人間離れ感が最高。「キャラクター」デザインとして眉毛が見えないのも底知れなさがあって凄すぎる。
 漫画を片手に捜査をする清田のなんとも言えないダウナーなパンピ感とこう、普段から積極的にこういうメディアとは関わりはないものの、業務上とはいえ真摯に向き合う姿勢、自分の中の直感や信念への真面目さやストイックさがあって、淡々と、でも好感をもって『34』を評価しているのが、山城にとってなによりの肯定になったのであろうことと、これが真壁が言っていた人間関係の接近と距離感のうまさなんだろうと思った。清田自身と彼が山城にかける言葉や感情、そして山城も別の切り離されたものだからこそ、刑事と重要参考人と読者と漫画家ということを織り交ぜずフラットになれるのだろうということ、その達観さが彼の磨き上げてきたスキルであること、とても良い。
 『34』で連載し始めてからの山城の仕事場での心情の読み取れなさ、あの晩の一瞬のインスピレーションと衝動を必死に写し出そうとする執念や「キャラクター」の憑依具合がちゃんと恐ろしく、でも編集者の言葉や理屈、一般論により納得のいく変容の限界値に留まっているところがバランスがうますぎる。冒頭で軽くあしらい、すぐに次の仕事に移った編集者がたった一年で将来有望な雑誌の柱にサポートしているの、仕方がないし仕事とはいえ一番ムズムズしたかもしれない。
 バーの常連で、店主にも作品を知られているのに『34』は読んでないところ、急にファンに言い寄られることに最近慣れ始めたであろう応答、距離感、空気感のよさはそのままに、急激に発展する相関図模様が妖しげに光ネオン街にぴったりで、本当にいい世界観作りをするなぁというところ。清田の器用さは前述の通りなんだけど、そのときはあれほどに正気がなく痩せ、弱り、実際彼の技量だけでは"リアルの説得力のあるサスペンス"を描くことができない壁にぶち当たっていた山城の"選ばれた一握りの漫画家"という「キャラクター」とアイデンティティに衝突し崩壊寸前の緊迫感や真意の見えなさが、両角と再会した瞬間になんのキャラクターを背負わない山城に戻り、メッキが剥がれ、彼の感受性が丸裸にされる感触が視聴者への追体験含めて最高。この際の清田の距離の詰め具合の比でない、ナイフのように恐怖心に切り込んでくる両角の錯覚の山城への同一視と敬意には、同じく短期スパンで超大ヒットとなった『チェンソーマン』のマキマさんの「彼のファンなんです」というファンという関係の歪さにも似たようなものがあり、きっと両角から見えている世界が望ましくない形に歪んでいるように、そのひずみに引き込まれるように強制的に「共犯者」として不可逆のレールに乗せられる山城、そして『34』の読者、およびスクリーンの向こうで見ている私たちさえもコンテンツと読者という関係の中に入れてしまう両角の「キャラクター」の得体のしれなさは本当にピカイチでめちゃくちゃにイイ。この時の三人の接触にさりげなく清田の俺公務員なんだけどな…が可愛かったし、でも完全なあざとさではなく店主への印象付けもスムーズに行なっているのであろうと考える。
 これは冒頭からすでに辺見のむしろ一般的な異常者感というのは存在していて、圧倒的存在感の両角の影武者になることでその主張はさほど激しくないものの、前科持ちで、本当に記憶がないのか判別が付かないほどのおぼつかないコミュニケーションと言動、明らかに安定して満たされている精神状態でないことを前提としてもそれらの基本的な社会力の欠如を全て彼の性質であると片付けられてしまうような社会からの見放されが辺見には詰められていて、彼を上手いこと利用している両角も、作品もが「キャラクター」というアイデンティティの多面性と本質、私たちの身近にあることを示唆するようで特に注意を払いながら見ていた。彼の釈放と会見には何重にも思惑と意図が絡んでいて、それらの事実との関わりによって見えてくる犯人像が全く異なるのがリアルで恐ろしいな、と思った。世間一般では警察の冤罪を叩く者、辺見にも非があるとする者、その警察ですらその後もずっと辺見の行動には惑わされ続けるし、明確な実態や人格の根本を知ることのないまま辺見は物語を引っ掻き回す、「キャラクター」とリアルの狭間を縫い合わせるような視聴者と作品の緩衝材の役割をあるような、なんとも現実的で地味なジョーカー、よかった。
 両角に接触を図られ、明らかに動揺している夫と身重の自身を持ってしてでも相手に敬意を払い、怯えながらもそれを隠すように丁寧に対応する夏美のあまりの善人っぷりや、夫が売れっ子になってから影でサポートし続け職を捨てた徹底さ、まるで出来すぎた妻というある種の理想像の象徴が果たして両角には「キャラクター」に見えたのか、リアルなのか。熱心なファンであるが故に至って真剣に健康を心配し、一方的な思い込みによって自らをアドバイザーという双方向で必要不可欠な存在であることを公然の事実として扱い、当然の権利のように相手の情報を調べて拾い上げる両角は殺人的倫理観より以前にリアルで発生している作品とファンとの距離感の誤認も内包していて、それは私たちが知っているリアルだからこそ両角の「キャラクター」として理解し難い強烈なインパクトを残す部分と、経験に新しい身近なリアルの恐ろしさが両立しておぞましさを生み出している。

つづき

映画、感想、ノベライズを経て思考を深めるほどに両角の殺人衝動と動機がより一層分からなくなっていたのだけど、何故かそれまで失念していたあることを思い出してから、両角の殺人という作品が彼の自己表現であり、その明確な目的をはっきりと理解した。両角は派手で猟奇的な殺人を通して、幼くして彼の元を去った母親と再び繋がることを望んでいると思われる。わざわざ漫画家である母親のペンネームと同じ両角姓を選び、(ノベライズ版では)辺見の猟奇殺人にインスパイアされて漫画を描いた母親の目に留まるように「作品」としての殺人を母親ゆかりの地で彼女が付いていった幸福理念をもとに作り上げ、より大大的に取り上げられることを望んだ。更に、母親と同じ出版社から自身を主人公にした漫画という母親と同じ表現の媒体で宣伝できることを利用し、当初の予定では2度きりで終わらせるつもりだった両角の自己主張を延長したことは、先述の動機と照らし合わせると辻褄が合う。これに気づくのが遅くなったのは、つい村のこと、親のことを過去のこととして捉えていて、父親の死亡描写で母親の存在を打ち消していたので失踪→まだ存命の可能性を最初から考えてなかったので両角がまだこの世に執念を持っている相手がいることを忘れてたんだよね。

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