見出し画像

【プロポ7】小説なんて読んでも役に立たなくない?

プロポ

プロポとはアラン『幸福論』に代表される文筆形式を表すフランス語。短い文章で簡潔に思想を著すエッセイのようなもの。日本では「哲学断章」とも訳されます。アランのそれは決して学問として哲学というほど仰々しいものではなく、アランが人生で培ってきた教訓や行動指針を新聞の1コーナーに寄稿するという形で綴ったもの。僕も見習って、頭を行き来する考えをプロポとしてまとめることで思考を整理していきたい。

僕のブログ「持論空論」で展開していたものをnoteに移行しました。

【プロポ7】小説なんて読んでも役に立たなくない?


 否! 否!! 否!!!

 まずこれが結論である。

 本を読むことは常に評価される趣味です。最近は本の中でも啓発書やノウハウ本がとくベストセラーになりがちに感じます。本を読んで新しいことを学び、それが生活の役に立つならばそれは素晴らしいことですよね。ビジネスの考え方とか、お金持ちになる習慣とか、人間関係がうまくいく言葉とか。しかし、同時に聞き捨てならない主張も聞こえてくるようです。それは「小説なんて読んでも役に立たなくない?」という疑問文によって僕たちに突き尽きられる、狭量で浅はかな主張なのです。

 そもそも人間は役に立たないことをするために生きているという前提を理解する必要があります。僕たちが役に立つというものは主に、物事の能率をあげて金銭的・身体的・精神的・時間的な余裕を増やすものでしょう。ではそれらの余裕がもたらした自由で何をしたいのでしょうか。(それがハッキリしないなら、もしかするとこれらの余裕はむしろないほうがいいかもしれません。)自由に使えるお金、健康な身体、快活な精神、適度な余暇。これらを使って僕たちがしたいことは、もちろん自分たちに直接的な幸福をもたらす活動です。好きなものの収集、スポーツや山登り、音楽や絵描きなどの芸術活動、家族や友人との食事。はたまた「小説を読む」という喜びに満ちた趣味。人間はこのような役に立たないけれど幸福につながるものをより多く、より豊かに享受するために、役に立つことをやっているのです。働いてキャリアを積んだり、研究して発明をしたり、創作をして共有したり。僕たちが仕事と呼ぶものや役に立つ知識や技術と判断しているものは、すべて役に立たない喜びのためにあるのです。そして言う人に言わせれば「喜びに繋がっているんだから、役に立っているんだ」ということにもなります。

 しかしこんなそもそも論を脇においても、まだ僕を小説を擁護したいと思うのです。彼らの言う「役に立つ・役に立たない」論。この相手の土俵に立っても、まだ「小説を読むことは役に立つ」と断言したい。

 彼らが役に立つ読書と呼ぶものには啓発本・ノウハウ本・ビジネス書などがあげられますが、これらの書籍が媒介しているのはインスタント情報であるという点が共通しています。インスタント情報というのは、インスタント食品との共通点をもとにした僕の造語です。インスタント食品は手軽ですぐにエネルギーを摂取できるということが利点です。忙しい僕たちの生活を支え、災害時には命を救い、すぐれた保存性・携帯性で人間の活動限界を伸長し、それでいてきちんと美味しい。まさに技術や企業努力の結晶といえます。しかし、インスタント食品しか食べないという食生活には栄養面や健康な味覚の維持という点で問題を孕んでいます。インスタント食品はわかりやすく美味しい味にするために塩分過多になっていたり化学調味料や保存料が多く添加されていたりします。これは身体に悪いだけでなく、わかりやすい味に舌が慣れてしまって、味覚的な豊かさの喪失にもつながります。

 インスタント情報にはこれと似た功罪があります。インスタント情報には、先人たちの長年の経験から導き出された最適解や、複雑な問題から抽出された重要なエッセンスのみが記載されています。まさに結晶化した価値ある情報であり、手軽ですぐにエネルギーとして摂取できる。しかし、こればかり摂取して他の情報を摂取しないのは、インスタント食品しか食べない生活と同じくらい悪い。インスタント食品のみの生活が僕たちの身体に悪影響を及ぼすならば、インスタント情報しか読まない生活は僕たちの知性と感性に悪影響を及ぼします。インスタント情報は、受け手が理解しやすく飲み込みやすいように、ある程度不正確になることに目をつむってでも、物事を単純化しているものがあります。そのほうがよく売れるからです。(これ自体はインスタント食品が味の品質を保つために栄養の品質を諦めることがあることと同じなので悪いと断ずるつもりはありません。すべては受け手の問題です。)また、インスタント情報は基本的に「答え」しか書きません。良くても「答え」の論拠となるような例をいくつか載せるくらいです。「答え」は表面上のものではありますが「その心」を理解しなくても読者が転用できるように成型されていることが多いです。しかしこれを応用したり、他人に受け継いだりいう次元になると、途端に薄っぺらいことになってしまうのが、インスタント情報を丸のみにする習慣がある人の特徴です。そこには自らの価値観・判断・経験・思考などにより裏打ちがないからです。

 もし僕たちが脳内に全知全能の賢人を飼っていて、僕たちは彼が脳内で囁くことを口に出していれば、実世界でも全知全能の賢人のように振舞うことはできるでしょう。しかしそれを僕たちの知性と呼ぶことができるでしょうか。所詮は高性能のマリオネットかテープレコーダーのような無機質なものでしかないように僕は思います。インスタント情報のみを摂取するというのはこれに似ています。

 それでは「読む」という行為を通してインスタントではない情報を取り込む手段には何があるでしょうか。ひとつはわかりやすく加工される前の、難しい学術や理論の原著をじっくり精読・読解すること。こうして自らの力で咀嚼してから飲み込んだ情報は丁寧に消化吸収されます。次に、相対する主張を持つ複数の本を読むこと。これによって複眼的に物事を考えることができ、情報を丸呑みすることがなくなります。複数の矛盾する価値観にさらされることは、僕たち自身にどちらを妥当と判断するのかという選択を迫るので、その過程で自分の価値観が醸成される効果も期待できます。そして最後。「小説を読むこと」も、ひとつの手段です。

 小説では現実世界であれファンタジーであれ、小説内で提示される世界観やルールがあります。これは作者が決めたことなので、僕たちはそれを文章から再解釈・再構築しなければなりません。相手の土俵で自分の世界を作るという作業です。さらに、優れた文学には複雑な人間同士の”業”とも呼ぶべき運命の絡み合い・捻じれが存在します。こうなると単純な善悪という指標で物語や登場人物を断ずることはできなくなり、その複雑性を僕たちは全体として受け取らなればなりません。これには結構な体力が必要です。登場人物たちは作者の指示の通りに動きますが、その動きが作者の答えとも限りません。ある動きは間違いの例といて提示されている場合もあるからです。それが最後の結末だったとしても、間違った行動の結末を示すことが、作者の正しい目的と言う可能性もあります。さらに言えば、登場人物たちが必ずしも作者の指示通りに動いているかさえ定かではありません。一定以上にキャラクター造形が仕上がってくると、登場人物たちは勝手に話して勝手に動き出します。この動きの範囲を無視して作者が自分都合で彼らを動かすと、小説としては致命的な傷を負いかねません。それを防ぐため、作者は当初の予定から展開や結末を変えてでも、キャラクター造形と矛盾しない話にするという判断を下すこともあるでしょう。つまり読者は「答え」を提示されることはなく、提示されたとしてもそれは作者の答えであるため、「あなたの答えは?」という問いかけが常に残るのです。ここで読者は自分で物語を解釈し、自分の価値観にぶつけて、答えを出すという楽しみに勤しむことになります。この過程で得られるものこそが、インスタント情報とは一線を画した、自らの血や肉となる本当の価値観や感性なのです。このような営みは、小説の読者全員が意識的に行っているものではないでしょうし、ただ楽しいから読んでいるだけで難しいことは考えていないと思っている人も多いでしょう。しかし、それでも小説の世界に没入し、それを心から楽しんでいる人たちは、上述したような「答えなき妄想」に浸っているのではないでしょうか。それを「役に立つ・役に立たない」という価値観で語られたくない、もっと気楽なものだという読者もたくさんいると思います。僕も賛同します。しかしそれでも、その気楽な楽しみには、「役に立つ・役に立たない」という”彼ら”の土俵に立ったとしても、胸を張れるほどの意義があるように僕には思えるのです。そしてこのようにして育った価値観や感性の上で動いてこそ、インスタント情報の結晶はさらに輝きを増すはずなのです。

以上が僕の小説擁護論です。これらをもって「小説なんて読んでも役に立たなくない?」という疑問符にはやはり僕はこう返さなければなりません。

否! 否!! 否!!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?