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【プロポ8】認識は常に知識によって阻害されている

プロポ

プロポとはアラン『幸福論』に代表される文筆形式を表すフランス語。短い文章で簡潔に思想を著すエッセイのようなもの。日本では「哲学断章」とも訳されます。アランのそれは決して学問として哲学というほど仰々しいものではなく、アランが人生で培ってきた教訓や行動指針を新聞の1コーナーに寄稿するという形で綴ったもの。僕も見習って、頭を行き来する考えをプロポとしてまとめることで思考を整理していきたい。

僕のブログ「持論空論」で展開していたものをnoteに移行しました。

【プロポ8】認識は常に知識によって阻害されている

認識は常に知識によって阻害されている。こんなことに思い至ったのは、気まぐれに水彩画を描いていた時のことです。普段はほとんどを絵を描くことがなく、大した画力も持ち合わせていないのですが、絵がうまい人への憧れがあります。というのも、僕の周りには絵がうまい人が多く、絵がうまい人とは気が合うことが多いというのは僕が人生で見つけた割と頼りになる傾向のひとつなのです。面白いのは、僕は彼らのことを絵がうまいから好きなわけではないということです。彼らが絵をうまく描くことと、僕が彼らを好ましく思うことの間には、因果関係はあるわけではなく、むしろ相関関係があるといえます。つまり彼らの中にある特定因子が、彼らに絵を描かせ、同時に、僕に彼らを好ませていると考えるのが妥当でしょう。

 その因子は一体何か。おそらく彼らの感性というか、彼らが持つ世界の解釈のようなものが、僕を惹きつけているのではないかという気がしました。そこで僕も絵を描いてみる気になったというわけです。画材を買って、吉祥寺の井の頭公園まで自転車で出かけ、ちょうどよい景色を見つけて写真に収め、家に帰ってゆっくり模写してみることに。それなりに納得のいく下描きが出来たので色を付けていきます。池がありますが、ただ池といっても複雑でいろいろな色があります。水面に浮かぶ草とか、反射して映る柵とか、少し透けて見える水中の藻とか。これが難しい。画面の上からは大きな木が垂れ下げる枝が伸びだしていて、7月だったからか青々した葉が空を隠していました。そう、青々と、、、青々と、、、?もちろん「青々」というのは国語的表現で、実際には緑色の葉が生い茂っているわけですね。だから僕は自然と緑色を手に取って色を付けはじめました。ただ、逆光気味であったためか、葉の色は思ったよりも暗く、僕は「あれ、しまったな」と思いました。もっと暗い緑を付けるべきでした。ううん、もう少し暗いかな。いや、さらに暗い。ん?まだまだ・・・暗い・・・。と少しずつ暗い色を重ねていって、僕はようやく「あ、これは緑じゃないかもな。」と気が付きました。

 絵を描くときに見ていた写真の「葉」の部分。そこに標準を合わせて拡大し、目いっぱい拡大したところでスクリーンショット。撮れた写真をさらに拡大、限界まで拡大してまたスクリーンショット。これで「葉」が画面を埋め尽くした写真が取れました。その写真を表示すると、見た目は真っ暗。試しにそのままスマートフォンの画面をオフにしてみました。すると驚いたことに画面上には何の変化もないのです。つまりその「葉」の色は、スマートフォンの画面が何の光も発していないときの色と同じ色だったわけです。しかし僕が画面が切れているスマートフォンを絵を描くときは間違いなく黒を使います。一方で、同じ色をした葉を描くときには緑を手に取る。どちらも僕の目には全く同じ、黒に近い色に見えているはずなのに。

 これは間違いなく僕の頭の中に、葉は緑であり、スマートフォン画面は黒という知識があるせいです。ちなみに葉を生やしている枝の部分でも同じ拡大写真を撮ってみました、葉の拡大写真と全く同じ色になりました。しかし僕が枝を塗るのに使っていた色は暗い茶色とか灰色です。僕は自分のこの感性はなんてつまらなくみっともないんだろうと感じました。岡本太郎さんの『今日の芸術』という素晴らしい本があるのですが、その中で彼は、赤いグリグリを描いて周りにチョンチョンチョンとやって描く太陽のことを酷評しています。あんなのは太陽ではない。みんなが太陽だとわかる、これを描いておけば太陽なんでしょ、という根性が見えて嫌だ、と。思えば僕たちは草と言えば黄緑や緑でギザギザギザ。花としては全部一辺倒にこちらを向いて真ん中に丸、そして周りを花びらがクルクルクルというライオン型に描く。もちろん絵を描くのが好きな人はどこかでこんな形式を脱して写実的になったり、創作的になったりしていくでしょう。しかし、絵を描くことがない人間は、この幼少期の「社会的に」インプットされた記号的な観念をずっと引きずっていくのです。岡本太郎さんの言葉に感銘を受けた僕も、結局は「赤グリグリ周りにチョンチョン太陽」の感性を抜け出せていないわけです。

 要するに、僕の目は悪くない。だってきちんと色は知覚できているのだから。悪いのは僕の頭なのです。だって丁寧に近くした色のすべてを既存の知識の枠組みに無理やり押し込めて、真実を捻じ曲げてしまったのだから!認識は常に知識によって阻害されている。こうして僕はこの命題にぶち当たったわけですね。これは非常にショッキングな出来事です。人間の脳が持つ抽象化という優れた能力がいかに諸刃の剣なのかを実感させられます。

 葉は緑で、枝は茶色という知識の枠組みは、決してそれ自体で害悪なわけではありません。僕たちは異なるものから共通点を抽出して、それを元に情報を分類して頭を整理しています。そうして導き出された一般法則を次は個別の事象に適用してみる。その抽象と具象の往復はとても強力で、知識をまとめて効果的に活用するだけでなく、認識の補強としても働きます。しかしこの度、同じ脳の働きが認識を阻害していることがわかってしまった。それが阻害しているのは、世界を、景色を、ありのままに知覚するという最も原始的で根本的な認識能力。

 今回は色という知覚情報から話が始まりましたが、すべての知覚機能で同じことが起きています。言語的相対論(サピア=ウォーフの仮説)では、人間の世界観は言語が作る枠組みによって形成されるという仮説が提唱されています。まさに知識が認識を左右するという文脈。言語学の話になると、外国語学習者に見られる負の言語転移として(言語Aの知識を言語Bに不適切に適用すること)、日本人が英語の[ə][æ][ʌ][a]をすべて「ア」として発音するなどの現象がありますが、これも知識によって音の認識が阻害される例です。視覚では、意味のない知覚情報を既知のパターンに当てはまて意味づけしてしまうパレイドリア効果(3つの点から顔を連想するシミュラクラ現象が好例)なども知られています。

 僕たちの認識は常に知識によって阻害されている。これは先天的な生物としての機能である一方で、文明化が進むたびに加速してきた効率化や生産性の追求を通して、後天的にも推進されていることではないかと思います。そしてそれは少し行き過ぎたところまで来ていて、僕たちは素の認識の価値を、再評価したほうが良いのではないか。

 大きく話を戻しますが、ここで自然と導き出された仮説がひとつ。僕はきっと世界をありのままに見る感性を持った人に憧れや魅力を感じる。そしてそのような傾向を持つ人たちは、世界をありのままに捉えるという丁寧な認識に慣れており、だからこそ絵を描くのが好きで、絵を描くことでその認識能力を強化している。つまり、冒頭で述べた、彼らが絵がうまいことと僕が彼らを好ましく思うことの間にある相関関係を生み出している特定因子、これは「世界をありのままに認識する丁寧な感性」なのかもしれません。科学的根拠もなく標本も少ない、ただの憶測にすぎませんが、どれほどの妥当性があるでしょうか。少なくとも、彼らと関わるたびに、いかに自分の認識が知識によって阻害されているかというのは自分自身に繰り返し説いていこうと思います。これを肝に銘じておくことは、ステレオタイプや差別、トラウマなどと向き合ううえでも有効な武器になってくれるはずです。

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